第1話 辺境の侯爵領へ
薬が足りない。
棚を見渡した瞬間、それが分かった。
城に到着して三日。荷解きを終え、何となく足が向いた薬品庫の扉を開けた私を迎えたのは、整然とは程遠い光景だった。棚に並ぶ薬瓶の間には、あきらかな空白がある。かつて何かが置かれていた痕跡——残った埃の形と、棚板の日焼けした跡。
「……記録が、ない」
声に出すつもりはなかったが、言葉が漏れた。在庫帳がない。補充の記録もない。いつ何が持ち出されたのかを示す書類が、どこを見ても見当たらない。
前世で医療事務をしていた私には、これが何を意味するか、すぐに分かった。——どれだけ薬があっても、記録がなければ在庫は管理できない。補充の判断ができない。必要な時に必要な薬がない、という最悪の事態を防げない。
「失礼ですが、夫人?」
声をかけてきたのはミレイ、私に付けられた侍女だった。明るい栗色の髪と少し大きすぎる目が特徴の、十九歳だと自己紹介していた娘。私が薬品庫の前で立ち止まっているのを見て、追いかけてきたらしい。
「こちらには何かご用でしたか」
「いいえ。散歩のついでに」
「散歩で薬品庫に……」
納得していない顔をしている。まあ、そうだろう。普通の令嬢は薬品庫に散歩で立ち寄らない。私は棚を最後に一度見渡してから、扉を静かに閉めた。
オルダム辺境侯爵領——グランセル王国の北西に位置する、冬の長い辺境の地。クレアモント伯爵家の三女として生まれた私がここへ来たのは、三日前のことだ。
婚姻の話は突然だった。長姉と次姉の縁談が同時期に決まり、残った私に「辺境侯爵との政略結婚」という話が降ってきた。父は「役立たずがやっと役に立つ時が来た」と言った。私もさほど驚かなかった。もともと何も期待していなかったから、失望もしなかった。
辺境侯爵エドヴァルド・オルダムとの初対面は、城の大広間で行われた。背が高く、整えられた暗褐色の髪。冷静な目をした、二十七歳の男性。
「構う暇はない。何か必要なことがあれば家令に言え」
それだけだった。事務的な挨拶を済ませると、彼はすぐに立ち去った。
失礼だと思わなかった、というと嘘になる。でも、それよりも「都合がいい」と感じた方が正直だった。互いに干渉しない。それは私にとって、望ましい条件だ。
ガストンという白髪の家令が形式的に頭を下げ、「お部屋にご案内します」と言った。その顔には「余計なものが来た」という感情が透けていたが、私はそれも気にしなかった。慣れている。目立たない娘は、どこへ行っても大抵そういう扱いを受ける。
問題は、薬品庫のほうだった。
「ミレイ」
廊下を歩きながら声をかけると、彼女が「はい」と弾んだ声で答えた。
「あの薬品庫は、誰が管理していますか」
「えっと……城でお薬を扱うのはヘルダさんという薬師の方で、必要な時に取りに来る形になっているかと」
「記録は?」
「記録というのは……?」
「何がいくつあって、いつ誰が何を持ち出したか、という記録です」
ミレイは少し考えてから「そういうものは……たぶん、特になかったかと」と答えた。
やはり、ない。
前世では当たり前のことだった。薬品の在庫記録、補充申請の仕組み、誰が何のために使用したかの記録。それがなければ「必要な時に薬がない」という事態が起きる。そして気づいた時には手遅れになっていることがある。
「夫人? 何かお気づきの点でも?」
「いいえ」と答えた。
正確には、気づいたことはある。ただし、それを声に出す必要があるかどうかは別の話だ。
部屋に戻ってから、私は持参した手帳を取り出した。前世からの習慣で、気になることはすぐに書き留める。
〔薬品庫:在庫記録なし。補充計画なし。入出庫の管理なし。〕
書き留めてから、少し考えた。
ここに来たのは政略結婚のためだ。余計なことをする立場ではないのかもしれない。領地の内務は家令の管轄で、新参の侯爵夫人が口を出すことではないだろう。
でも。
問題があって、放置できるかと言われると——私には無理だ。前世でも、そうだった。誰も気づいていない問題を見つけて、黙って解決するのが習慣だった。誰かに褒められたくてやっていたわけじゃない。ただ、問題を見ると放置できない、それだけの話だ。
夜になって城が静かになったら、もう少し調べてみよう。何がどれだけあるか、せめて現状を把握するだけでも。
——では今夜から始めよう。
私は手帳を閉じた。夜の辺境は、静かだった。




