第8話 指先の鍛錬と、執着の影
「特命」が下ってから数日。蘭瑛の表向きの生活は、何ら変わることはなかった。
相変わらずボロボロの道具箱を抱え、下級女官として後宮の回廊を掃除して回る日々だ。だが、その瞳に映る世界は、数日前とは劇的に異なっていた。
(……回廊の三枚目の石畳、右端がわずかに浮いているわね。夜に踏めば微かな音が響く。何かの合図に使えるわ。あそこの水盤は、月の光を中庭の特定の位置に反射させるように角度が調整されている。……なるほど、あれも『神の啓示』を演出するための道具というわけね)
蘭瑛は、竹箒で落ち葉を掃きながら、脳内の図面に「後宮の仕掛け」を一つずつ書き込んでいた。彼女にとって、後宮はもはや生活の場ではない。巨大な「タネ」の宝庫であり、攻略すべき巨大な密室そのものだった。
「蘭瑛、またぼーっとしてる! 手を動かさないと、また李総管に怒られるわよ」
親友の小翠が、心配そうに声をかけてくる。蘭瑛は慌てて箒を動かした。
「ごめんなさい、小翠。この石畳、どうやって磨けばもっと光るかしらって考えていたの」
「あんた、本当に掃除が好きなのか嫌いなのか分からないわね……」
小翠が呆れて立ち去った直後、背後から不自然なほど整った足音が近づいてきた。
蘭瑛は、振り返らなくてもそれが誰だか分かっていた。この後宮で、これほどまでに迷いがなく、傲慢なまでに堂々とした歩き方をするのは一人しかいない。
「……随分と熱心に地面を睨んでいるな」
低い、心地よく響く声。蘭瑛が振り返ると、そこには案の定、紺青の衣を纏った載淵が立っていた。
周囲にいた女官たちが、驚きと羨望の声を上げて一斉に跪く。蘭瑛も慌ててその場に伏した。
「載淵様、このような場所へ……何か御用でしょうか」
「……この回廊の風通しを確認しに来ただけだ。それと、そこの女官。貴様の掃除の仕方に不備がないか、私が直接検分する」
(風通しですって? 無理がありすぎるわよ、この親王様……!)
蘭瑛は心の中で毒づきながらも、載淵が周囲を遠ざけるように手で合図するのを見た。載淵は、蘭瑛が掃除していた石畳のすぐそばまで歩み寄り、屈み込むようにして彼女の耳元に顔を近づけた。
「……リストはできているか」
声のトーンが変わり、仕事の顔になる。蘭瑛は、周囲から見えないように、袖の中から小さな紙片を取り出し、載淵の手のひらに滑り込ませた(パーム・トランスファー)。
「北東の壁の変色、西離宮の風鈴の不自然な音、それから……庭園の池の底に沈められた金属板。すべて、人を欺くための『装置』です。特に池の仕掛けは、特定の時間に水面を割って龍が現れるように見せる三流のペテンに使われるでしょうね」
載淵は、蘭瑛から受け取った紙片を握り締めると、満足げに口角を上げた。だが、彼の視線はすぐに紙片から、蘭瑛の指先へと移動した。
「……指を。出せ」
「えっ?」
「冷えている。これでは、夜の『献上』の際、ろくに銀貨も回せまい」
載淵は、蘭瑛の拒絶を許さず、その細い指先を自分の大きな手で包み込んだ。
驚くほど熱い熱が、かじかんだ蘭瑛の指に伝わってくる。
「な、載淵様! 誰かに見られたら……!」
「構わん。不器用な女官に、効率的な箒の握り方を指導しているだけだ」
(どんな言い訳よ、それ……!)
載淵は、蘭瑛の指の関節一つ一つを、まるで宝石の傷を確認するように愛おしげに、それでいて執拗に解きほぐしていく。
「……貴様のタネを、私だけに見せるのだと言ったはずだ。この指先が生み出す嘘も、その嘘に宿る熱も……すべて私の監視下にあることを忘れるな」
載淵の瞳にあるのは、もはや純粋な知的好奇心だけではなかった。
彼は、蘭瑛が暴き出す「真実」よりも、彼女がその指先で世界を欺く「瞬間の輝き」に、魂を奪われ始めている。自分にだけは牙を剥き、不敵に微笑むこの奇術師を、檻に入れてしまいたいという独占欲が、日を追うごとにその色を濃くしていた。
「……今夜だ、蘭瑛。私の宮へ来い。池の仕掛けを、貴様ならどう『最高の嘘』に塗り替えるか……じっくりと聞かせてもらおう」
載淵は、蘭瑛の指先に一度だけ強く力を込めると、何事もなかったかのように立ち上がり、悠然と去っていった。
残された蘭瑛は、熱の引かない自分の指先を見つめ、小さく溜息をついた。
(……困ったわね。最高のスポンサーだと思ったけれど、この『観客』……少し、距離が近すぎやしませんか?)
蘭瑛は、袖の中で銀貨を一回転させた。
次なる舞台は、池に潜む「偽りの龍」。
彼女は、次なるマジックの構成を練りながら、少しだけ早くなった鼓動を隠すように、再び箒を動かし始めた。




