第30話 載淵の焦燥
後宮の深奥に、獣の咆哮にも似た怒号が響き渡った。
「――全門を封鎖せよ! 掌案を呼べ! 鼠一匹、蟻一穴の通り抜けも許さん。蘭瑛を見つけ出すまで、万寿節の祝宴は一切、中止だ!!」
載淵は、自らの執務室の机を拳で殴りつけた。
彼の後頭部には、未だ鈍い痛みが残っている。一刻前、蘭瑛と共に舞台裏へ向かっていた際、彼は玄天の放った刺客に背後から不意を突かれ、気絶させられたのだ。
親王として、武芸の心得もある者として、これ以上の屈辱はない。だが、その屈辱以上に彼の胸を焼き焦がしていたのは、意識を失う寸前、視界の端で掠めた、何者かに引きずられていく蘭瑛の衣の裾だった。
「……私の目の前で……あの女を……ッ!」
載淵は、初めて自らの「合理性」が完全に崩壊していくのを感じていた。
これまで彼は、あらゆる事態を予測し、損得で判断してきた。だが、目覚めた瞬間に彼女がいないと悟った時の、あの臓腑を抉られるような喪失感に、計算など通用しなかった。
「親王殿下、どうか落ち着きを……! 陛下がお待ちです、万寿節の中止などと口にすれば、殿下のお立場が……」
「黙れ!!」
載淵は、宥めようとした側近の胸ぐらを引き寄せ、その瞳に狂気じみた炎を宿して言い放った。
「私の立場など知るか! 皇帝の誕生日など知るか! あの女がいない世界に、守るべき秩序など存在せん! ……蘭瑛を見つけ出せ。いいか!」
理知的な貴公子の面影は消え、そこには愛する者を奪われた、手負いの猛獣が立っていた。
載淵は自ら剣をひったくると、後宮の闇へと、地獄の業火を引き連れるかのような勢いで踏み出していった。
その頃、地下牢の暗澹たる闇の中で、蘭瑛は静かに呼吸を整えていた。
重い鉄の枷が手首に食い込み、冷気が体温を奪っていく。しかし、彼女の意識は、この絶望的な箱の中にはなかった。
彼女の魂は、十三年前という長い月日を遡り、母の再婚先の冷え切った家から逃げ出すように通い詰めていた、あの屋敷にいた。
高名な奇術師であった、亡き祖父の家だ。
「いいかい、蘭瑛。東洋の幻術(手品)は『氣』を見せ、観客を幻に誘う。だが、海の向こうから来たマジックは『理』を使い、観客の認識を再構築するのだよ」
祖父の部屋には、父の持っていた木製の伝統的な道具とは違う、真鍮の歯車や精巧なプリズム、そして美しく磨かれた巨大な「鏡」が溢れていた。
再婚先の家族に疎まれ、母から「呪われた血」と罵られていた九年間。蘭瑛にとって、祖父から学ぶ「西洋マジック」の知識だけが、唯一、自分が自分であることを許される時間だった。
「鏡は嘘をつかない。……嘘をつくのは、見る者の『思い込み』だ。蘭瑛、反射の角度を制する者は、世界の死角を制するのだよ」
十五歳で後宮に上がるまで、蘭瑛はそこで狂ったように西洋の技術を吸収した。
それは、視覚心理学、物理学、そして精密機械の構造。
玄天が「神の領域」と呼ぶ奇跡を、蘭瑛は祖父から学んだ「理」によって、冷徹なまでの数式へと分解し始めていた。
(……そうだわ、お祖父ちゃん。私はあの日、鏡の中に『出口』があることを教わった)
蘭瑛は、闇の中でゆっくりと目を開けた。
手首の枷の構造を、指先の感覚だけで脳内に図面化していく。
ピンの数、バネの反発力、そしてわずかな金属の摩耗。
(載淵様……。貴方が私のために不覚を取ったなんて、一生の不覚ね。……でも、大丈夫。貴方が目覚めて私を探している頃には、私はもう、この闇の『死角』に辿り着いているわ)
蘭瑛は、襟元の中に隠し持っていた一本のヘアピンを取り出した。
道具箱は壊され、協力者もいない。だが、彼女の血の中には、父の伝統的な技と、祖父の科学的な知恵が、完璧な融合を果たして流れている。
「……マジシャンを怒らせた代償は、高くつくって言ったはずよ、玄天」
独房の壁に刻まれた父の「幸運の紋章」が、天井の隙間から漏れる月光に照らされ、微かに輝いた。
恐怖は、消えた。
今の彼女は、愛する者を守れなかった憤怒に狂う親王よりも、そして神を騙る幻術師よりも、遥かに恐ろしく、気高い「奇術師」へと変貌を遂げていた。
静寂の中、カチリ、と、脱出の序曲となる金属音が、暗闇に響いた。
※ 蘭瑛がこの絶望的な闇の中で片手の枷を外せたのは、決して偶然ではありません。
彼女はまず、襟元に隠し持っていたヘアピンを、枷をはめられた不自由な体で激しく揺さぶり、床へと振り落としました。それを這いつくばるようにして「口」でくわえ上げると、両手を器用に口元まで運び、歯でピンを固定。鍵穴をそこに正確に押し当て、指先と歯の力を連動させるという、奇術師としての超絶的な技巧によって解錠に成功したのです。
しかし、もう片方の錠前は経年劣化によって激しく錆びついていました。繊細なヘアピン一本では、錆びた内部構造を回し切るための強度がどうしても足りなかったのです。




