第3話 指先の嘘、瞳の真実
「ちょっと、しっかりしてよ蘭瑛! 帯が曲がってるじゃないの!」
後宮の洗濯所。小翠が、まるで戦場に赴く兵士を送り出すかのような必死さで、蘭瑛の身なりを整えていた。
当の蘭瑛はといえば、「あ、昨日洗ったばかりのハンカチ、もう一枚袖に入れなきゃ……」と、相変わらず手品の道具のことしか頭にない。
「いい? 呼び出されたのは、あの載淵様なのよ!? 後宮の女官全員が一度は夢に見る、超絶イケメンで頭脳明晰、ストイックで気高いあの親王様! 貴女みたいな生活感ゼロ、女子力皆無、マジック以外はからっきしの『不器用洗濯女』がみそめられるなんて、雨や台風どころか巨大な隕石が降ってくるわよ!」
「みそめられるだなんて、人聞きが悪いわ。昨夜のボロが出ただけ……」
「とにかく! 下手に変な動きをして首を飛ばされないようにね。あの御方は合理的じゃないことが大嫌いなんだから、貴女のその『マジック脳』がバレたら一発でアウトよ! ……ああ、もう! なんで私じゃないのかしら!」
小翠に背中をバシバシと叩かれ、追い出されるようにして向かった先。
そこは、小翠が騒いでいた「夢のような場所」とは程遠い、静寂と威圧感の檻だった。
後宮の主が皇帝ならば、この私宮の主は、間違いなく「冷徹な秩序」そのものだった。
載淵の私宮。そこには女性の芳香も、色鮮やかな装飾もない。あるのは、天井まで届く書棚を埋め尽くす古書と、磨き上げられた黒檀の机。そして、窓から差し込む、剃刀のように鋭い冬の月光だけだ。
「……座れ。とは言わん。貴様には、立ち話で十分なはずだ」
部屋の奥、影を背負って座る載淵の声が響く。低いが、鼓膜を直接震わせるような重みがある。
蘭瑛は、足の裏から伝わる冷気を必死に無視し、いつもの「どん臭い下級女官」の猫背を保っていた。脇には、命の次に大切な道具箱を抱えている。
「あ、あの……載淵様。私のような不器用な者が、このような高貴な場所に……何かの間違いでは……」
「まだ、その見え透いた仮面を被り続けるつもりか」
載淵が、ゆっくりと立ち上がった。音もなく間合いを詰め、蘭瑛の目の前で止まる。
背が高い。見上げる視界に、彼の胸元の銀糸で刺繍された龍が映る。その威圧感に、蘭瑛は思わず息を呑んだ。
「昨夜の『赤い雪』。あれが硝石と染料による細工だと、貴様は瞬時に見抜いた。それどころか、仕掛けの稚拙さに憤慨してさえいたな」
「それは……その、昔、近所の子供騙しの手品を見たことがありまして……」
「黙れ」
載淵の細長い指が、蘭瑛の顎をクイと持ち上げた。
逃げ場のない至近距離。彼の瞳は、夜の湖のように静かで、同時にすべてを透過させる鏡のように恐ろしい。
「私は合理的でないものを好まない。貴様のその、下級女官に擬態した挙動、怯えたような目の泳ぎ。すべてが計算された『演出』に見える。……特に、その指だ」
載淵は、蘭瑛の手首を掴み、手のひらを上に向かせた。
マジシャンにとって、手首を掴まれるのは、翼をもがれるのと同じだ。蘭瑛の心臓が激しく脈打つ。
「不器用な洗濯係の手ではない。指の腹は柔らかく、関節の可動域は異常に広い。……これは、何万回、何十万回と、同じ動作を繰り返した職人の指だ。答えろ。貴様、後宮に何をしに来た。誰の差し金だ」
載淵の目が、獲物を追い詰めた猛禽のそれに変わる。
彼のようなリアリストにとって、理解できない存在は「排除すべき不確定要素」でしかない。このまま黙っていれば、あるいは嘘を重ねれば、李総管が言った通り、閂よりも簡単に首が飛ぶだろう。
蘭瑛の中で、何かが弾けた。
恐怖よりも先に、マジシャンとしての「矜持」が首をもたげたのだ。自分の指を、血の滲むような訓練の結果を、「スパイの道具」として評価されたことが、我慢ならなかった。そして何より――この目の前の男を、自分の最高傑作で驚かせてやりたいという衝動が、生存本能を上回った。
「……載淵様。貴方は、合理的でないものを好まないとおっしゃいましたね」
蘭瑛の声から、怯えが消えた。背筋が真っ直ぐに伸び、視線が載淵の瞳を正面から射抜く。
彼女は掴まれた手首を、蛇が脱皮するように滑らかに抜き取ると、懐から一枚の銀貨を取り出した。父の形見、使い込まれて縁が丸くなった銀貨だ。
「合理的、というなら、この銀貨が今、私の指の間にあるのも合理的です。物理法則に従って、私がそこに置いたのですから」
蘭瑛が指を弾くと、銀貨が空中を舞った。
月の光を反射し、一本の光の線を描く。
蘭瑛はそれを空中でキャッチした――はずだった。
「……消えた?」
載淵の眉がわずかに動く。彼の鋭い動体視力は、蘭瑛の手の動きを完全に追っていた。握りしめた拳の中に、銀貨は入ったはずだ。
だが、蘭瑛がパッと手を開くと、そこには何もなかった。
「こちらですよ」
蘭瑛が載淵の肩に手を伸ばす。載淵は反射的に身構えたが、彼女の指先が彼の襟元に触れるか触れないかの瞬間に、チャリン、と硬質な音が響いた。
載淵の肩から、消えたはずの銀貨が転がり落ち、蘭瑛の手に収まる。
「古典的なバニッシュ(消失)です。ですが、貴方は見抜けなかった。なぜか分かりますか?」
「……視線を誘導したか。銀貨を高く投げ、私の意識を上に向かせた」
「正解。ですが、それだけでは三流です。本物は……」
蘭瑛の指先で、銀貨が生き物のように躍動し始めた。
指の間を潜り、手の甲を走り、消えては現れ、現れては消える。
右手にあったはずの銀貨が、次の瞬間には左手にあり、三枚に増えたかと思えば、一瞬で一枚に戻る。
載淵の目は、必死にその軌跡を追う。だが、追えば追うほど、銀貨は彼の予測を裏切る場所に現れた。
「……くっ」
載淵の喉から、微かな声が漏れた。
屈辱、ではない。それは、世界をすべて数式と論理で解明できると信じていた男が、目の前で「物理的な嘘」を突きつけられたことによる、震えるような歓喜だった。
「種も仕掛けもございます。これは魔法でも呪いでもない、徹底的に計算された技術。……私は、没落した宮廷幻術師の娘です。父の死の謎を解くためにここへ来ました。スパイなどという、無粋な真似をする暇はございません」
蘭瑛は最後の一撃として、銀貨を載淵の目の前で強く握り込んだ。
そして、彼の目の前にその拳を差し出す。
「お開けください。今度は、逃げも隠れもしません」
載淵は、蘭瑛の細い指を一本ずつ剥がすように、ゆっくりと開かせた。
そこには、銀貨はなかった。
代わりにあったのは――載淵が机に置いていたはずの、私宮の鍵だった。
「な……!?」
驚愕し、自分の腰元と机の上を交互に見る載淵。
鍵は、確かに机の上にあったはずだ。蘭瑛は一度も机に近づいていない。
載淵は、我を忘れて蘭瑛の手のひらに残された鍵を凝視した。
「……いつ、盗んだ」
「盗んだのではありません。貴方が、銀貨の動きに目を奪われていた隙に、私が『置いた』のです。マジックの世界では、これをミスディレクションと呼びます。……どうでしょう。私の指先の嘘、貴方の瞳で解き明かせましたか?」
不敵に微笑む蘭瑛。
その表情は、先ほどまでの垢抜けない女官とは別人のように輝き、傲慢なほどに美しい。
沈黙が流れた。
載淵は、盗まれた鍵を蘭瑛の手から奪い返すように取ると、それを握り締めたまま、ふっ、と短く笑った。
冷徹な氷の仮面が、初めて「愉悦」によってひび割れる。
「……見事だ。私の目を、ここまで鮮やかに欺いた者は初めてだ」
載淵の瞳に、先ほどとは違う熱が宿る。それは、優れた獲物を見つけた狩人の熱であり、そして、未知の真理を渇望する学徒の熱だった。
彼は蘭瑛の顎を再び掴むと、今度は逃がさないように強く固定した。
「蘭瑛。最初から貴様を殺すつもりなど毛頭ない。だが、後宮へ返すつもりもない」
「……え?」
「貴様のその指先。その美しい嘘。……すべて、私の監視下に置く。これからは、私の直属として、この宮で仕えろ。その嘘で、次は私にどんな夢を見せるつもりだ?」
それは、単なる女官としての雇用ではない。
「貴様のタネを、私にだけ暴かせろ」という、支配的な執着の宣言。そして蘭瑛にとっては、願ってもない「最高権力者のスポンサー」の獲得だった。
「借金は私が肩代わりしてやる。父の死の謎も、私の権力を使えば手がかりも得られよう。……その代わり、貴様の奇術は、私一人のために使え。良いな?」
載淵の顔が、唇が触れそうなほど近づく。
蘭瑛は、己が仕掛けたマジックの報いが、予想以上に重く、そして抗いがたい「独占欲」という名の鎖になって返ってきたことを悟った。
「……御意に、我が主。ただし、私のタネは……そう簡単に暴けるほど安くはありませんわよ?」
蘭瑛もまた、不敵に微笑み返す。
合理主義の貴公子と、虚構を操る奇術師。
互いの矜持を賭けた、欺きと暴きの狂宴が、今ここから幕を開けたのだ。
その直後、閉ざされた扉を叩く、慌ただしい音が響いた。
「載淵様! 緊急事態です! 麗妃様の離宮で、侍女の一人が……密室から消失いたしました!」
蘭瑛の目が、鋭く細まる。
「……三流のペテンかしら。それとも、よほど切実な理由がある『美しい嘘』かしら」
マジシャンを前にして「密室消失」とは。
本物の仕事が、向こうからやってきたようだった。
※載淵は親王という立場上、原則として女の園である後宮へは自由に出入りできません。そのため、蘭瑛との密談は、主に「仕事の呼び出し」という形で蘭瑛を後宮の外にある彼の私宮へ召喚することで成立しています。
一方で、載淵は皇帝から後宮の管理権限の一部を委ねられているため、事件調査の名目があれば、監視(宦官)付きで後宮内へ入ることも可能です。




