第29話 囚われの奇術師
万寿節の祝宴が最高潮を迎えようとしていたその時、舞台裏で蘭瑛が対峙したのは、玄天の卑劣な微笑みだった。
彼の傍らには、口を塞がれ、鋭い刃を突きつけられた小翠の姿があった。
「……さあ、どうする? 幻術師の娘よ」
玄天の冷たい声が、闇に溶け込むように低い。
彼の傍らには、喉元に鋭い短刀を突きつけられた小翠がいた。小翠は恐怖に体を震わせ、声にならない悲鳴を上げながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を蘭瑛に向けていた。
「このまま舞台に上がり、父親と同じように『無能なスパイ』として死ぬか。あるいは、その小娘の命と引き換えに、自ら地下牢へ入り、この祝典から消えるか。……どちらを選んでも、君のマジックはここで終わりだ」
蘭瑛の指先が、怒りと屈辱で白くなるほど握りしめられる。
道具箱を破壊され、今度はかけがえのない親友の命を盾に取られた。玄天は、蘭瑛が誇りとしている「マジシャンとしての出口」を、力によって一つずつ、執拗に叩き潰そうとしている。
(……逃げ道はない。でも、ここで私が小翠を見捨てれば、それは父さんが愛したマジックじゃない)
蘭瑛は静かに息を吐き、震える唇を開いた。
「……小翠を、放して。彼女はただ、私を支えてくれただけの優しい子よ」
「ならば、その手を差し出せ」
蘭瑛は迷うことなく、自ら一歩前へ踏み出し、両手を差し出した。
カチリ、と冷酷な金属音が響き、細い手首に無骨な鉄の枷が嵌められる。マジシャンにとっての「自由」が、無慈悲な重みによって奪われた瞬間だった。
「蘭瑛……! ダメ、逃げて……!」
解放された小翠が泣き崩れる声を背に、蘭瑛は玄天の配下たちによって、暗く湿った階段の奥底へと引き立てられていった。
紫禁城の深部、かつては罪人を死に追いやるためだけに使われたという、重罪人専用の地下牢。
蘭瑛は、黴臭い空気が漂う独房の中へと突き飛ばされた。重い鉄扉が閉まる「ガラン」という音が奈落の底で反響し、後には濃密な静寂と、天井の隙間から漏れる微かな月明かりだけが残された。
「……ここなのね。お父さんが、最後の一夜を過ごした場所」
蘭瑛は壁を背にして、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
十三年前。父はこの場所でスパイ容疑という不名誉な汚名を着せられ、自ら命を絶ったとされている。母が再婚先の家庭で呪うように繰り返していた言葉が、闇の中から幻聴のように蘇る。
『あの男は、私たちを捨てて勝手に死んだ。手品なんていう嘘っぱちで、人生を無駄にした報いだ』
冷たい石壁に頬を寄せると、そこには無数の傷跡があった。
蘭瑛は震える指先で、壁の表面をなぞる。手首の枷が擦れる不快な音が独房に響くが、彼女の感覚は今、壁に刻まれた「何か」に集中していた。
その時、指先がある一点で止まった。
それは、マジシャンだけが解読できる、隠しサイン。
父が愛したトランプの裏側や、蘭瑛の練習ノートの隅にいつも描いてくれていた、幸運を呼ぶための「星と鍵」の紋章。それが、爪で削り取られたような微かな溝として、壁の隅に確かに刻まれていた。
「……父さん。……嘘つき」
蘭瑛の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
母の言う「絶望して家族を見捨てた男」の筆跡ではなかった。
壁に刻まれたそのサインは、驚くほど冷静で、かつ力強かった。まるで、いつかこの場所に辿り着くであろう娘のために、あるいは次にこの闇を照らそうとする者のために、確かな「道標」を遺そうとしたかのように。
「……父さんは、諦めてなんかいなかった。この絶望的な箱の中でも、父さんは……マジシャンだったんだね」
蘭瑛は涙を拭い、枷をはめられた両手を、月明かりの下に晒した。
道具箱はない。小道具の一つもない。
けれど、父の魂が刻まれたこの部屋で、彼女の胸には静かな、しかし激しい闘志が灯っていた。
(マジシャンは、箱の中では死なない)
蘭瑛は、幼い頃から父に教え込まれた基礎訓練を思い出した。
たとえ指一本しか動かせなくても、たとえ視界を奪われても、観客が「不可能だ」と確信した瞬間にこそ、マジックは完成する。
今、玄天は蘭瑛がこの地下で泣き崩れていると信じ、皇帝は彼女が逃亡したと聞かされているだろう。これ以上ないほどの「不可能」という舞台装置が、皮肉にも整ってしまった。
(最高の嘘を、見せてあげる。……お父さんのマジックが、人を救うためのものだってことを証明するために)
蘭瑛は、自らの髪を束ねていた、唯一残された鉄のヘアピンに手をかけた。
まだ脱出の手立てはない。枷を外すための道具も、地上へ上がるための許可もない。
けれど、蘭瑛の瞳からは「情けなさ」は消え失せていた。
独房の壁には、父のサインが月の光に照らされて輝いている。
この因縁の場所。父の命を奪ったかもしれないこの闇こそが、今度は蘭瑛を真のマジシャンへと覚醒させる繭になろうとしていた。
彼女は深く、深く呼吸を整える。
遠くで再び鳴り響いた銅鑼の音は、もはや彼女にとって死刑宣告ではない。
それは、史上最大の「脱出劇」の幕開けを告げる、合図に他ならなかった。
(見ていて、お父さん。……そして、載淵様。貴方の『合理的判断』が間違っていなかったこと、私が証明してみせるわ)
蘭瑛は闇の中で、見えないトランプを繰るように指先を動かし始めた。
脱出へのカウントダウンは、彼女の鼓動と共に始まっていた。




