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第28話 道具箱、破壊さる

「昇天の楼閣」へと一歩を踏み出した蘭瑛ランエイの背筋に、氷の刃で撫でられたような戦慄が走った。

 マジシャンには、五感を超えた「第六感」がある。舞台の風向き、観客の視線、そして自分の一部とも言える道具たちの「気配」。その気配が、今、断末魔のような叫びを上げた気がしたのだ。


「……ッ!」


 蘭瑛は、きらびやかな祝宴の明かりを背に、舞台袖の暗がりへと駆け戻った。

 そこには、父の唯一の形見であり、蘭瑛が九年間の孤独を共にしてきた漆塗りの道具箱が置いてあるはずだった。父の指紋が染み込み、蘭瑛が毎日欠かさず磨き上げてきた、彼女の魂の器。


 だが、視界に入ってきたのは、地獄のような光景だった。


 影から音もなく現れた玄天ゲンテンの刺客たちが、巨大な鉄槌を容赦なく振り下ろしていた。

 乾いた、そしてあまりにも残酷な破壊音が、蘭瑛の耳元で爆発する。


「やめて……! お願い、やめて!!」


 悲鳴は届かない。無慈悲な一撃が、繊細なからくりを、薄い木板を、そして蘭瑛の希望を粉砕していく。

 漆塗りの蓋は無残に弾け飛び、中から飛び出した銀のコインが、泥にまみれた石畳の上を空虚な音を立てて転がった。色鮮やかな絹の布は引き裂かれ、何百回、何千回と手入れをしてきた精巧な仕掛けたちは、もはや修復不可能な「ゴミ」へと変わり果てていく。


 刺客たちが去った後、蘭瑛はその場に崩れ落ちた。


「あ……ああ……」


 指先が、粉々になった父のからくりの破片に触れる。

 マジシャンにとって、道具箱を失うということは、ただの持ち物を失うことではない。それは、自らの「言葉」を奪われ、魔法を使えない「ただの娘」に引きずり戻されること。

 特に今回の相手は、巨大な「昇天の楼閣」を操る玄天だ。あの巨大な嘘を暴くには、針の穴を通すような精密な仕掛けと、完璧に調整された道具たちが不可欠だった。


(無理……。道具がない。指先一つ動かせない。私にはもう、何もない……)


 蘭瑛の視界が、涙で歪む。

 九年間、母に「呪われた血」と罵られながらも耐えてこられたのは、この箱の中に「真実」があったからだ。箱さえあれば、自分は父と繋がっていられた。箱さえあれば、冷酷な後宮でも戦えた。

 その支えを失った今、彼女の心は、底知れない深い闇へと滑り落ちていった。


「……残念だったね、お嬢さん。道具に頼るマジックなんて、所詮はその程度のものだよ」


 高台から見下ろす玄天の冷笑が、夜風に乗って降り注ぐ。

「道具に魂を預けた時点で、君は負けていたんだ。さあ、そのガラクタと一緒に、舞台の下で泣き続けるがいい」


 蘭瑛は返事すらできなかった。ただ、泥にまみれた絹の切れ端を握りしめ、震えることしかできない。

 その時だった。


 絶望に塗りつぶされた視界に、一足の重厚な軍靴が、迷いなく踏み込んできた。

 泥を跳ね上げ、蘭瑛の目の前でぴたりと止まるその足取りには、紫禁城の主の一人としての、圧倒的な覇気が宿っていた。


「……いつまで地面を這っている。非合理的極まりないな、蘭瑛」


 載淵サイエンだった。彼は砕かれた道具の破片を一瞥いちべつだにせず、蘭瑛の細い肩を力強く掴むと、拒絶を許さない勢いで彼女を立ち上がらせた。


「載淵様……見てください。全部……全部壊されました。これじゃあ、もう何もできない……」


「黙れ。貴様のその口は、泣き言を吐くためにあるのか?」

 載淵の声は、氷のように冷たく、しかし芯には燃えるような熱量があった。

「箱が壊れたなら、別のものを使えばいい。貴様の指先はまだ折れていない。そのペテンに満ちた脳も、私を煙に巻く生意気な舌も健在だ。……違うか?」


「でも……マジックには、仕掛けが必要なんです。道具がなければ、奇跡なんて……」


「道具なら、私が用意してやる。紫禁城にあるすべての宝物庫を開けろと言うなら今すぐ開けさせてやる。あるいは――」


 載淵は、腰に差した皇帝から賜った装飾豊かな「宝剣」を、鞘ごと蘭瑛の胸元に突き出した。

 金細工が施され、無数の宝石が埋め込まれたその剣は、一振りで城が買えるほどの価値を持つ。だが載淵は、それをただの「マジックの小道具」として差し出したのだ。


「私の命すら演出に使うと言ったのは、貴様だろう。……道具箱が死んだなら、私を道具にしろ」


「え……?」


「この国の権力も、この私という身体も、すべて貴様の『種』の一部として使い倒してみせろ。代わりの道具など、いくらでもある。だが、貴様の『意志』という種が死ねば、この国は救えん。……私に、そんな非合理的な損失を負わせるつもりか?」


 載淵は、蘭瑛の瞳をまっすぐに見つめた。そこには、臣下に対する命令ではない、一人の男としての、蘭瑛への絶対的な信頼があった。


「貴様を私の妃にすると言っただろう。ならば、夫(予定)のすべてを利用して生き残れ。不可能なマジックを、私の目の前で成し遂げてみせろ。……それこそが、私の望む『合理的判断』だ」


 載淵の言葉が、蘭瑛の凍てついた魂に激しく突き刺さる。

 そうだ。道具はあくまで手段でしかない。マジックの本質は、道具箱の中にあるのではなく、それを使う「マジシャン」の心の中にこそある。

 形あるものは壊れる。けれど、父から受け継いだ技術と、今、目の前で自分を信じている男の熱量までは、誰にも壊せない。


 蘭瑛は、泥で汚れた顔を上げ、載淵の手を強く、折れそうなほど強く握り返した。


「……わかりました、載淵様。……箱がなくても、奇跡は起こせると証明しましょう」


 蘭瑛の瞳から涙が消え、代わりに青白い炎のような闘志が宿る。

 彼女は、載淵が差し出した宝剣を躊躇なく受け取り、それを自らの新しい「杖」とした。


「……マジシャンを怒らせた代償は、高くつきますよ。玄天。……貴方のその大きな箱(楼閣)を、今から私が、ただのまきに変えてあげます」


 絶望を脱ぎ捨て、蘭瑛が再び前を見据える。

 世界で最も高価で、最も不器用で、そして最も頼もしい「道具(載淵)」を味方につけたマジシャンが、自らの身一つで「神の領域」へと挑む、逆転の幕が上がった。

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