第26話 万寿節の幕開け
帝都の夜明けは、祝祭を告げる号砲とともに訪れた。
皇帝の誕生を祝う「万寿節」。紫禁城はその広大な敷地の隅々に至るまで、目が眩むほどの黄金の装飾と、魔除けの紅い絹布によって埋め尽くされていた。風に乗って漂うのは、最高級の沈香の香りと、数千人の官吏や女官たちが放つ、昂揚と緊張が混ざり合った熱気だ。
だが、その華やかさの極致にある舞台裏の控室において、この祭りの「主役」となるべき二人の空気は、およそ祝祭とはかけ離れたものだった。
蘭瑛は、煤けたガラクタ拾いの娘から、今や帝国の運命を握る若き奇術師へと姿を変えていた。彼女は、麗妃が用意させた豪奢な衣装の袖を捌きながら、無心にトランプの束を切り続けている。シュ、シュ、という小気味よい音だけが室内に響く。
一方、その傍らに立つ載淵は、周囲の空気が凍りつくほどに不機嫌なオーラを放っていた。常に冷静沈着、理数で世界を律するはずの親王が、今は計算式の狂った複雑な方程式を前にしたかのような、苦い表情を隠そうともしていない。
「……蘭瑛。昨夜の私の言葉を、どう総括した。そして、どう結論づけたのだ」
載淵は周囲に人がいないことを、その鋭い聴覚で確認すると、おもむろに蘭瑛の正面に立ち塞がった。逃げ場を塞ぐように、壁に強く手を突く。
普段なら威圧感に震え上がるような場面だが、載淵の耳元がわずかに、しかし隠しようもなく赤らんでいることを、蘭瑛の鋭い観察眼が見逃すはずもなかった。
昨夜、月の下で彼が放った言葉。
『貴様を私の妃にする。断ることは許さん』
それは、非合理的であることを自ら認め、数学的な均衡さえ投げ捨てて載淵が放った、一生に一度あるかないかの命懸けの告白だった。
「えっ? ああ、昨夜の『妃にする』というお話ですね」
蘭瑛は、手元のトランプを流れるようにシャッフルし、一糸乱れぬ動きで扇状に広げながら、事も無げに答えた。
「載淵様、本当にさすがです。正直、驚きましたわ。まさか万寿節という、帝国中の視線が集まる大舞台の直前に、私の緊張を解くための『最大のハッタリ』をかましてくださるなんて! おかげで、昨日まであった微かな不安が、一気に吹き飛びましたわ。ああ、これほどの嘘をつける方が私の相棒(助手)なら、今日はどんな大掛かりな種仕掛けでも成功する自信が湧きました!」
「…………は?」
載淵の思考が、数秒間、完全に停止した。
彼の脳内で築き上げられていた、数々の「蘭瑛の反応予測モデル」が、一瞬にして音を立てて崩壊していく。
「特にあの、『断ることは許さん』というセリフ。支配者としての威厳、そして有無を言わせぬあの気迫! 素晴らしい演出でしたわ。あれこそが観客を圧倒する『魔法使いの目力』というものです。今日の本番、玄天と対峙する際、私もあの目つきを使わせていただきますわね」
蘭瑛は、キラキラとした、純粋な「尊敬」の眼差しを載淵に向ける。
彼女にとって、あの告白は「愛のささやき」ではなく、「玄天を騙し、皇帝をも欺き、全観客を魅了するための壮大な予行演習」として、あまりにも完璧に処理されていた。彼女の論理回路において、現職の親王がガラクタ拾いの自分に本気で求婚するなどという事象は、「存在し得ない物理法則」と同じ扱いだったのだ。
「……演出、ではない。私は、極めて、合理的に……そして私の人生において最も主観的な真実を、貴様に……」
載淵の声が微かに震える。帝国の知性と呼ばれた彼の頭脳が、蘭瑛の斜め上を行くマジシャン思考――あらゆる事象を「タネと仕掛け」に変換してしまう職業病によって、未曾有のオーバーヒートを起こし始めている。
その光景を、衣装の最終確認のために部屋に入ってきた小翠が、遠くから引きつった笑いで見守っていた。
(載淵様……。あんなに必死に、顔を真っ赤にして告白したのに、『最高の演出ですね!』の一言でゴミ箱行きなんて。……かっこいいんだか、かわいそうなんだか、もう見てられないわ……)
小翠は、毒によって苦しんだ胸をそっとさすりながら、心の中で主役二人に盛大なツッコミを入れる。
(蘭瑛も蘭瑛よ! あんな全女子の憧れみたいな殺し文句を、マジックの種明かしの解説みたいにスルーするなんて、どんだけマジック馬鹿なの!? 科学的エビデンスとか言う前に、自分の心拍数を計測しなさいよ!)
その時。
祝宴の始まりを告げる、重厚で荘厳な銅鑼の音が、宮殿の石床を震わせながら響き渡った。
「……時間ですね、載淵様。行きましょう。偽りの神を、その座から引きずり降ろしに」
蘭瑛は、トランプを一瞬で懐へ消すと、昨日までの迷いや少女らしい揺らぎを完全に消し去った。その瞳は、観客の視線を支配し、真実を虚構で包み込む「プロの奇術師」の顔に切り替わっている。
載淵は、ガックリと項垂れ、折れそうな心を必死に支えながらも、彼女の凛とした背中を見つめた。そして、不器用なほどに真っ直ぐな、だが執念深い決意を込めて低く唸るように呟いた。
「……ふん、いいだろう。今は勝手にスルーしていろ。……だが、今日という審判の場が終わったら、二度と『演出』だなどとは言わせん。私の理論に、例外はない。……貴様を私の隣に据えるという答えが出るまで、何度でも証明してやる。絶対にだ!」
載淵の不退転の決意を背に受け、蘭瑛は光り輝く舞台へと、一歩を踏み出した。
扉の向こう、黄金の広場の最前列では、不敵な笑みを浮かべた玄天が、自らの神格化を完成させるための「最後の審判」を待っていた。
科学と奇術、そして勘違いと情熱が入り乱れる、帝国史上最大の「化かし合い」が、今、幕を開ける。
作者コメント
前回、蘭瑛が一瞬だけ見せた“乙女の顔”は本物なんです。彼女がまだ素直になれていないだけで、内心では少し照れていたはず。とはいえ、まだ殻は固そうなので……載淵様には更に独占欲全開で頑張ってもらうしかありません♪




