第22話 小翠の危機
その日、後宮の洗濯所に響いたのは、洗濯板を叩く音ではなく、悲痛な叫び声だった。
「小翠……! 小翠、しっかりして!」
蘭瑛が駆けつけたとき、小翠は洗い場の冷たい床に倒れ伏していた。
普段の彼女からは想像もつかないほど顔色は土色に沈み、細い喉をかきむしりながら激しく喘いでいる。その手元には、一口だけかじられた、色鮮やかな『桃花餅』が転がっていた。
「……これ、は」
蘭瑛はその菓子の匂いを嗅いだ瞬間、胃の奥が氷のように冷たくなるのを感じた。
わずかに漂う、苦いアーモンドのような臭気。
「……夾竹桃の毒。……誰が、小翠にこれを!」
小翠はいつも蘭瑛の身の回りを世話焼き、蘭瑛が載淵に呼び出されるたびに「あんた、無茶しちゃだめよ」と心配してくれていた。マジック以外に興味のない蘭瑛にとって、彼女は後宮という檻の中にある唯一の「体温」だった。
「蘭……瑛……、ごめ……あんたの……お菓子……だったのに……」
小翠が、途切れ途切れに呟く。
その言葉に、蘭瑛の心臓が止まりかけた。
この毒菓子は、もともと「蘭瑛」宛てに届けられたものだったのだ。
「……私の代わりに、貴女が……。小翠、喋らないで! 今すぐ解毒薬を……っ」
その時。
「どけ。不器用な女が騒いでも事態は好転せん」
背後から、低く冷徹な、しかしどこか焦燥の混じった声が響いた。
載淵だった。彼は本来、洗濯所のような場所へ現れるはずのない身分だ。だが、彼は宦官を蹴散らすような勢いで現れると、蘭瑛の脇をすり抜け、倒れた小翠を一瞥した。
「……李総管! 直ちに太医(主治医)を呼べ。私の名で『最優先で救え』と命じろ。薬が足りなければ私の蔵を開けろ!」
「は、はいっ!」
載淵は、呆然と立ち尽くす蘭瑛の肩を強く掴んだ。
「……蘭瑛。この菓子を贈った主は、私に繋がる貴様を狙った。……つまり、犯人は私の不始末だ」
「載淵様……」
「勘違いするな。貴様の友人が死ねば、貴様の集中力が欠け、私の計画に支障が出る。……非常に合理的でない事態だ」
載淵はそう吐き捨てたが、その指先はわずかに震えていた。彼は、蘭瑛がこの毒菓子を食べていたかもしれないという想像を、必死に理性で抑え込んでいるようだった。
「いいか、蘭瑛。太医には私の最高級の薬を使わせる。この女が死ぬことは、私が許さん。だから……」
載淵は、蘭瑛の瞳を覗き込んだ。
そこには、いつもの「おどおどした下級女官」の姿はなかった。
漆黒の瞳に、青い炎のような怒りが宿っている。
「……載淵様。お気遣い、ありがとうございます」
蘭瑛の声は、驚くほど冷静だった。
「ですが、犯人探しは私のやり方でやらせてください。……私の手品を、人を殺すための『汚い嘘』に使った奴が許せません。……マジシャンを怒らせたらどうなるか、その身に教え込んでやります」
蘭瑛は、落ちていた毒菓子の包み紙を拾い上げた。
指先が、流れるような動きで包み紙の裏を確認する。
載淵はその「職人の指」が、もはや恐怖ではなく、獲物を仕留めるための「武器」として研ぎ澄まされているのを見て、ゾクりとしたものを感じた。
「……フン、好きにしろ。ただし、危なくなったら私を呼べ。私の『合理的判断』で、その犯人を塵一つ残さず処分してやるからな」
載淵はそう言うと、部下たちに「周囲の女官を全員拘束し、聞き込みを開始しろ!」と、過剰なまでの指示を飛ばし始めた。
内心では(蘭瑛が一人で行って怪我でもしたらどうする!)とパニックに近い状態なのだが、口から出るのはあくまで「合理性」という名のツンツンした理屈ばかりだ。
蘭瑛は、載淵の空回りに気づく余裕すらなかった。
彼女は、毒菓子を包んでいた紙に残された、微かな「香り」を嗅ぎ取った。
それは、後宮の位の高い妃だけが使うことを許された、特別な香料の匂い。
「……見つけた」
蘭瑛が指を弾く。
彼女の手のひらから、一瞬で炎が上がり、毒菓子の包み紙を灰に変えた。
それは、次なる事件の、そして「復讐のマジック」の幕開けだった。
※清朝の後宮において、毒殺未遂は最大級の犯罪です。通常、親王である載淵が洗濯所にまで踏み込むのは異例中の異例ですが、「皇帝の代理としての治安維持権限」を盾に、彼は蘭瑛のために(本人は否定していますが)掟を無視して駆けつけました。




