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第2話 赤い雪の降る離宮

 後宮の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。だが、その静寂は平穏を意味しない。高くそびえる壁の向こう側では、常に誰かの溜息か、あるいは呪詛が渦巻いている。


 蘭瑛ランエイは、冷え込みの厳しい北東の離宮へと続く石畳の回廊で、山積みになった洗濯物の籠を抱えていた。

「はぁ……。せっかく新しいスライト(技法)を思いついたのに、これじゃ指が冷えて動かなくなっちゃう」

 不満げに吐き出した息は白く、かじかんだ指先を交互に息で温める。本来なら、今頃は暗い自室で、父の形見である銀貨を指の上で転がしているはずだった。

 だが、慣れない掃除の最中、マジックの練習に夢中になって麗妃レイヒの愛用する青磁の壺を倒しそうになり、その罰として深夜の雑用を命じられたのだ。


「不器用なフリをするのも楽じゃないわね。……あ、今の角度。袖口に滑り込ませるには完璧だったかも」

 誰もいないのをいいことに、蘭瑛は空の片手でコインを隠す動作を繰り返す。彼女にとって、後宮の規律や罰よりも、指先の技術が鈍ることの方がよほど恐ろしい。


 その時だった。

 不自然なほどに重苦しい沈黙が、回廊を包み込んだ。

「……え?」

 視界の端で、何かが舞い落ちた。

 雪だ。だが、その色は不気味なほどに鮮やかで、滴るような「赤」だった。

 空から降ってくるのは、白銀の結晶ではなく、まるで天が吐血したかのような毒々しい紅。


「ひっ、赤い雪……! 呪いだわ!」

「麗妃様が、ついに呪い殺されるんだ!」

 離宮の庭で同じく作業をしていた下級女官たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。雪は見る間に地面を赤く染め上げ、月光の下で、まるで血の海が広がっていくような異様な光景を作り出していた。

 後宮において、このような「怪奇現象」は死の宣告に等しい。女官たちは腰を抜かし、ある者は祈りの言葉を唱え、ある者は震えながら地面に伏した。


 だが――蘭瑛だけは違った。

 彼女は洗濯籠を放り出すと、恐怖に震えるどころか、獲物を見つけた獣のような鋭い目で、雪が降る中心へと駆け寄った。

「ちょっと、蘭瑛! 近づいちゃダメよ、呪われるわ!」

 背後で親友の小翠ショウスイが叫ぶのも聞こえない。

 蘭瑛は、地面に積もった「赤い雪」を躊躇なく指で掬い上げた。その目は、超自然的な力への畏怖など微塵も湛えていない。あるのは、冷徹な観察者の光だけだ。


(……感触は少しザラつく。雪にしては結晶の角が立ちすぎているわね。それに、この落ち方。風の流れに逆らって、特定の範囲だけに集中している……)

 蘭瑛は、その赤い結晶をペロリと舌に乗せた。


「な、何を食べてるの蘭瑛!?」

 小翠の絶叫が響く中、蘭瑛は眉根を寄せて独り言を漏らす。

「……苦い。独特の土臭さ。これ、硝石に紅花の染料を混ぜて、冷やした粉末ね。粘り気を出すために、おまけでミョウバンまで入ってるわ。……なんて雑な調合なの!」

 蘭瑛の胸の中に沸き起こったのは、恐怖ではなく、激しい憤りだった。マジシャンとして、これほど不機嫌なことはない。


「信じられない。こんな三流の演出で、神がかりを気取るなんて。マジシャンに対する冒涜だわ。もっと空気の流れを計算して、粒子の細かさを変えれば、粉っぽさを消して本物の雪に見せられたはずなのに。あそこの柳の木の陰、滑車と糸が丸見えじゃない。あんなに隠し方が下手で、よくもまあ後宮で商売ができるわね……! 私なら、同じ嘘でもっと美しい奇跡を見せてあげるのに!」


 彼女は、庭の隅にある大きな柳の木と、その上の屋根の不自然な影を指差して吐き捨てた。蘭瑛にとって、これは恐ろしい呪いではなく、構成が甘くタネが透けて見える「ヘタクソな手品」に過ぎなかった。人の不安を煽るだけの無愛想な嘘に、彼女の職人魂が真っ向から反発していた。


「……面白いことを言う。これが『手品』だと?」


 背後から響いた、深く、冷徹な声。

 蘭瑛は心臓が跳ねるのを感じ、慌てて振り返った。

 そこには、一人の男が立っていた。夜の闇よりも深い、紺青の衣を纏った長身の影。月光を浴びたその横顔は、彫刻のように整っているが、同時に一切の感情を排した氷のような冷たさを放っている。


 親王・載淵サイエン

 皇帝の弟であり、後宮の秩序を司る実力者。合理的思考を何よりも重んじる彼が、なぜこんな場所に一人でいるのか。


「あ、あの……載淵様。これは、その……」

 蘭瑛が慌てて「不器用な女官」のフリをして後退りしようとした瞬間。載淵が音もなく間回を詰め、彼女の手首を掴んだ。

 その力は強く、かつ驚くほど熱い。


「呪いではないと言ったな。あそこの影に、何が見えると言った?」

 載淵の顔が、蘭瑛の至近距離まで迫る。その瞳は、蘭瑛の驚愕した顔を突き抜け、彼女の奥底にある「本質」を暴こうとしているようだった。


「……あ、あの、近いです。載淵様。今の角度だと、私の袖の中が……あ、いえ、なんでもありません」

「何を言っている。貴様、その指、どうした」

 載淵は蘭瑛の手を引き寄せ、その指先を執拗に観察し始めた。下級女官にしては異常に柔らかく、かつ指関節が驚くほどしなやか。それは、日々、目に見えぬところで血の滲むような訓練を積んだ者だけが持つ、特殊な指だった。


「この指……ただの不器用な女官が持つものではないな。一体、何者だ」

 載淵の声に、奇妙な熱が混じる。彼は徹底した合理主義者だ。ゆえに、この「赤い雪」の正体を見抜き、自分を恐れず、ただ演出の甘さに腹を立てているこの異質な娘に、強烈な知的好奇心――そして、初めて感じる独占欲を抱き始めていた。


「明日、私の宮へ来い。その『タネ』とやらを、私にだけ詳しく説明してもらおうか」

 載淵の整った唇が、蘭瑛の耳に触れそうなほど近い。

 普通なら、恋の始まりを予感して赤面するような場面。だが、蘭瑛の脳内は、載淵の拘束からどう脱出するかの「仕掛け」のシミュレーションで埋め尽くされていた。そして同時に、不遜な期待が胸をかすめる。


(……このホールド、力が強すぎるわ。でも、今の接触で、彼の帯から鍵を抜き取るスチール(盗み)の隙はできたわね。それに、この親王様……。ひょっとすると、私のマジックを一番いい特等席で見てくれる、最高の『観客』になってくれるかしら? ……よし、練習通りに!)


溺愛の火が灯り始めた親王と、最強のスポンサー候補を見定めたマジック脳の娘。

 月夜の離宮で、二人の運命が決定的に交錯した。


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