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第14話 姿なき暗殺者(前編)

載淵サイエンが「一歩も離れるな」と宣言して以来、蘭瑛ランエイの日常は劇的な変貌を遂げた。

 かつては竹箒を手に、後宮の隅々を這いずるように掃除して回るのが彼女の役目だった。しかし今、彼女の手にあるのは使い古された箒ではなく、載淵の冷たい指先や、彼の衣の裾が触れるほどの、あまりに近すぎる距離感だ。

 

 文字通り「親王の影」として回廊を歩く生活。

 それは、後宮という閉鎖社会において、どんな極彩色の着物よりも目立つ「寵愛」の証として映った。すれ違う女官たちの視線は、鋭い針のように蘭瑛の背中に突き刺さる。驚き、嫉妬、軽蔑、そして得体の知れない「奇跡を起こす娘」への底知れぬ恐怖。

(……最悪だわ。マジシャンは舞台の上に立っている時以外、誰からも注目されちゃいけないのに)

 蘭瑛は、深々と被った髪を指でいじり、下を向いて溜息をつく。マジックの真髄は、観客の意識を「不自然」から逸らすことにある。常に好奇の目に晒され、一挙手一投足を監視されるような今の状況では、いざという時の仕掛け(タネ)が隠しにくくて仕方がない。


 対して、前を歩く載淵の足取りは悠然としたものだった。

 彼は背後で蘭瑛が困惑しているのを知ってか知らずか、一度も振り返ることなく歩みを進める。それでいて、彼女が周囲の視線に怯んで足が遅れれば、無言でぴたりと立ち止まり、その距離を一定に保つよう促すのだ。その執拗なまでの管理は、もはや護衛という名目を超えた、歪な独占欲の表れに他ならなかった。


 日は傾き、空は燃えるような朱色から、深い藍色へと溶け込もうとしていた。

 二人が差し掛かったのは、後宮の中でも特に人通りが少ない「楓の回廊」だ。左右に植えられた楓の古木が、夕日に照らされて長く、複雑な影を床に落としている。格子状の窓から差し込む光と、楓の枝葉が作る影のコントラストが、回廊を不気味な縞模様に染め上げ、歩く者の遠近感を狂わせていた。


 その時だった。

 ――ヒュッ。

 空気の震えるような、微かな、しかし鋭利な音が載淵の耳をかすめた。

 

 戦場を幾度も潜り抜けてきた載淵の身体が、思考よりも速く反応する。彼は反射的に蘭瑛の肩を抱き寄せ、右側へ大きく身を翻した。

 ドシュッ、という重い音が響く。

 彼が先ほどまで頭を置いていた場所のすぐ後ろ。漆塗りの重厚な柱に、深々と「何か」が突き刺さっていた。


「……刺客か!」

 載淵が即座に腰の剣に手をかけ、周囲を鋭く射抜く。

 だが、おかしい。

 楓の回廊は、見通しが良い直線が続いている。左右の楓の木も、この高さから狙撃するには距離がありすぎ、遮蔽物もない。前方から来る人影も、後ろを追う気配もない。物音ひとつしない静寂の中で、ただ柱に刺さった凶器だけが、冷たく現実を主張していた。


 ――ヒュッ。ヒュッ。

 間髪入れず、二の矢、三の矢が飛ぶ。

 載淵は剣を抜き放ち、目に見えぬ弾道を叩き落とそうと身構えるが、飛来する対象が小さすぎて捉えきれない。

 

 チッ、と載淵が舌打ちする。

「どこだ……。どこから狙っている!」

 冷静沈着な彼の瞳に、わずかな焦燥が混じる。敵の姿が見えない。弓の弦が鳴る音も、吹き矢の筒を吹く音もしない。まるで虚空から、死神が気まぐれに不可視の礫を放っているかのような怪奇現象だった。


 載淵は蘭瑛を自身の背中に完全に隠し、全方位に神経を尖らせる。だが、暗殺者の気配は一向に掴めない。

 その時、蘭瑛の視線は、床に落ちた「楓の影」の一点に釘付けになっていた。

 夕日に照らされた影の縞模様。その中を、何かが「横切る」のを、彼女のマジシャンとしての動体視力が見逃さなかった。

(……光を屈折させているわけじゃない。気配を消しているわけでもない。これはもっと、単純な『物理』の問題よ)


「載淵様、動かないで!」

 背後から、蘭瑛の鋭い声が響いた。

 その声には、恐怖ではなく、未知の仕掛けを解き明かそうとするマジシャン特有の、冷徹なまでの「高揚」が混じっていた。

 彼女は、載淵が警戒している前方や庭園の茂みではなく、全く別の方向――夕日が差し込み、長く伸びた柱の「影」の境界線を凝視していた。


「あっちじゃないわ。載淵様、視線を落として。光と影の境目……そこにある『違和感』を見て!」

 蘭瑛は載淵の衣の腕を強引に引き寄せ、彼を特定の位置へと誘導する。

「これは、弓でも吹き矢でもありませんわ。……もっと、ずっと姑息で、マジックのような卑怯な仕掛けです」


 蘭瑛は、肌身離さず持っている道具箱の中から、掃除の最中に石材置き場で密かに拾い集めておいた「石粉いしこ」を取り出した。大理石を削る際に出る、極めて細かく、一度舞えば空気中に長く留まる白い粉だ。彼女はこの粉を、いつかマジックの演出で「煙」の代用として使おうと密かに隠し持っていたのだ。

 

 彼女は深く呼吸を整え、指先の感覚を極限まで研ぎ澄ませる。

 楓の葉が揺れる音に混じり、三度目の「ヒュッ」という微かな震動が聞こえた瞬間。

 蘭瑛は回廊の虚空に向けて、その白い粉を渾身の力でぶちまけた。


 パッ、と白い霧のような粉が空間に舞い上がり、夕日を受けてキラキラと黄金色に輝く。

 すると、何もないはずの空間に、幾筋もの「何か」が、禍々しく浮かび上がった。

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