第10話 老宦官の記憶、父の背中
後宮の深奥、すべての女官の動向を管理する総管室。老宦官・李総管は、手元の帳面から目を上げ、窓の外を流れる冬の雲を見つめていた。
その脳裏に、十三年前の忌まわしき光景が鮮明に蘇る。
――「消えるはずの剣が、消えなかった」
皇帝の御前。宮廷幻術師だった蘭瑛の父は、たった一度の不手際を犯した。だが、李総管は知っている。あの男の技術は、あんな単純なミスを犯すほど未熟ではなかった。失敗の直後、弁明もせず、自ら命を断ったあの男の瞳。それは恥辱に震える者の目ではなく、何か「巨大なタネ」を、命と引き換えに隠し通した者の目だった。
「……似すぎている」
李総管は、独り言を漏らした。
最近、後宮を騒がせている「蘭瑛」という名の不器用な女官。
麗妃に重用され、あろうことか冷徹な載淵親王の直属になったという。掃除一つ満足にできないと噂される娘だが、李総管は彼女の「指先」が、時折、無意識に不気味なほど滑らかな弧を描くのを見逃していなかった。
「あの男の娘ならば、この後宮はあまりに危険すぎる舞台だ」
李総管は、重い腰を上げた。彼女を厳しく律し、遠ざけてきたのは、彼女が父と同じ「嘘の深淵」に飲み込まれるのを防ぐための、彼なりの不器用な情愛だった。
一方、蘭瑛は、次の特命に向けた「仕掛け」の準備を終え、夜の回廊を歩いていた。
道具箱を抱える腕に力が入る。道士たちとの対立、載淵からの執着。取り巻く環境は激変したが、彼女の目的は変わらない。
(お父様、あなたは何を隠して死んだの? 私はこの後宮の偽りを暴き、その先にあるあなたの『真実』に辿り着いてみせるわ)
ふと、背後に気配を感じて蘭瑛は足を止めた。
闇の中から現れたのは、厳しい顔をした李総管だった。
「蘭瑛。貴様、最近、載淵様に重用されているようだが、身の程をわきまえろ」
「……李総管」
いつものように頭を下げる蘭瑛。だが、李総管の鋭い眼光は、彼女の「仮面」を剥ぎ取ろうとするかのように執拗だった。
「この後宮に蔓延る『嘘』は、お前のような小娘が扱えるほど、甘いものではない。……かつて、その嘘の重さに耐えかねて、命を散らした愚か者がいたことを忘れるな」
蘭瑛の指先が、ぴくりと跳ねた。李総管が父について言及したのは、これが初めてだった。
「……それは、警告でしょうか。それとも、慈悲でしょうか」
「忠告だ。……お前が何を隠していようと、私は見ているぞ」
李総管はそれだけ言い残し、背を向けて去っていった。その背中は、かつて父が死の間際に見せた孤独な後ろ姿と、どこか重なって見えた。
蘭瑛は、袖の中で銀貨を一回転させた。
(見ているというのなら、見ていなさい、李総管。……私のマジックは、誰にも暴かせない。たとえ、あなたであっても)
その時、不意に回廊の角から強い力が蘭瑛の腕を引き寄せた。
「――李総管と何を話していた」
載淵だった。彼は闇に紛れ、ずっと二人の様子を伺っていたのだ。
載淵の瞳には、李総管への警戒心と、そして蘭瑛に対する、暴力的なまでの独占欲が渦巻いている。
「何も。……ただ、少しだけ『古いタネ』の話をされただけですわ」
蘭瑛は不敵に微笑み、載淵の胸元にそっと指を滑らせた。
「それより、載淵様。今夜の献上の準備は、もうできております。……最高に美しい、嘘の続きをご覧になりますか?」
載淵は、蘭瑛の指を掴み、その指先に深く口づけを落とした。
「ああ。……夜明けまで、貴様の嘘に酔わせろ」
後宮を覆う巨大な偽り、父の死の謎、そして親王の後ろ盾。
すべてのピースが揃い、蘭瑛の行動は、より深く、より危険な陰謀の深淵部へと踏み込んでいく。




