第1話 種も仕掛けもございません
「……あの閂なら、私なら三秒で外せますね」
紫禁城を彷彿とさせる、朱塗りの巨大な門。
その後宮の入り口を見上げ、蘭瑛は場違いな独り言を漏らした。
周囲に並ぶのは、不安と期待に顔を強張らせた瑞々しい少女たちだ。名家の娘から、口減らしに売られてきた貧家の娘まで。彼女たちはこれから始まる「皇帝の庭」での生活に、運命を委ねようと祈るような表情を浮かべている。
だが、蘭瑛だけは違った。
彼女が抱えているのは、将来への希望でも、親への未練でもない。
脇に抱えた、手垢で黒ずんだ古びた木製の道具箱。それが彼女の全財産であり、唯一の「相棒」だった。
(三秒は言い過ぎたかしら。……二秒。いえ、あの浮き具合なら、振動だけで落とせるわ。右の蝶番がわずかに歪んでいるから、そこを起点にして……)
蘭瑛の脳内では、巨大な門が精密な図面のように展開されていた。どこを叩けば音が響くか。どこを抉れば強度が死ぬか。年頃の娘が、初恋の相手を思い浮かべるような熱っぽい視線で、彼女は無機質な木材と鉄の構造を分析していた。
無理もない。彼女は、没落した「宮廷幻術師」の娘なのだ。
かつて父は、皇帝の御前で「消えるはずの剣が消えなかった」という、たった一度の不手際を犯した。だが、父はその場で処刑されたわけではない。失敗の直後、なぜか自ら命を断つ道を選んだのだ。
マジシャンとして、タネを晒した恥辱ゆえか。それとも、あの失敗の裏には、命を捨ててまで守らねばならない別の「タネ」があったのか。
父の死は、今も蘭瑛の中で解けない最大のパズルとして残っている。
残されたのは、山のような借金と、祖父から受け継いだ「禁断の奇術」が記された古い書物、そして父が最後に磨き上げていた銀貨一枚。
「おい、そこ。何をブツブツ言っている」
鋭い声が、蘭瑛の思考を断ち切った。
女官たちを検分していた老宦官、李総管が、眉間に深い皺を寄せて蘭瑛を睨みつけていた。
「申し訳ございません。門の重厚さに……圧倒されておりました」
蘭瑛は慌てて指を止め――無意識に袖の中で転がしていた銀貨を、瞬きする間に拳の中に隠した(パーム)。
李総管の鋭い目が、蘭瑛の手元と、脇に抱えた薄汚れた道具箱を往復する。
「その箱は何だ。後宮に私物の持ち込みは厳禁だと言ったはずだが」
「これは……その、亡き父の形見でして。掃除道具一式が入っております。私、不器用なもので、使い慣れた道具でないと満足に仕えられぬと思いまして」
蘭瑛は精一杯の「不器用で健気な娘」を演じてみせた。実際、彼女はマジック以外の家事や礼儀作法に関しては、救いようのないほどズボラで不器用だった。それは嘘ではない。
李総管は鼻を鳴らし、忌々しげに彼女を指差した。
「ふん。垢抜けない娘だ。麗妃様の目に留まるとは思えんが、せいぜい粗相のないようにしろ。浮ついた真似をすれば、その首、門の閂よりも簡単に外れると思え」
李総管が去っていく。蘭瑛は深く頭を下げながら、密かに舌を出した。
(私の首を外すより、あの閂を外す方がずっと難しいわよ。……たぶんね)
ついに、列が動き出した。
一歩、足を踏み入れる。そこは、外部の光を拒絶するかのように高くそびえる壁に囲まれた世界だった。
豪華絢爛な装飾、行き交う美女たち。だがその華やかさの裏には、どろりとした淀んだ空気が満ちている。
「ねえ、聞いた? 昨夜、北東の離宮で『赤い雪』が降ったんですって」
「まあ。麗妃様が呪われているという噂は本当だったのね」
隣を歩く同期の女官たちが、声を潜めて囁き合っている。
後宮を覆う「怪奇現象」や「神がかり」の噂。権力争いに勝つために、妃たちは怪しげな道士を雇い、非科学的な演出をしては、ライバルを蹴落とし、皇帝の気を引こうとする。
蘭瑛は、その噂を耳にするたび、胸の奥で冷めた笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。
(赤い雪? 硝石に染料を混ぜて、屋根から降らせただけじゃない。三流……いえ、四流の演出だわ。こんな悪趣味な嘘で人を怯えさせるなんて、マジシャン失格ね)
彼女にとって、後宮を騒がす奇跡はすべて、構成の甘い「出来の悪い手品」に過ぎない。
だが、同時に指先がチリチリと熱くなるのを感じる。パフォーマーとしての「業」だ。
あんな三流のペテンがまかり通るなら、いっそ自分がこの舞台を乗っ取って、もっと鮮やかな、腰を抜かすような「最高の嘘」を見せつけてやりたい。そんな衝動を、必死に理性で抑え込む。
(いいわ。本物の奇術師がどんなものか、いつか教えて差し上げますわ。真実を突きつけてはい終わりなんて無愛想な結末より、ずっと素敵な夢を見せてあげる)
蘭瑛は袖の中で、指先を微かに動かした。
銀貨が指の関節を滑るように移動し、親指の付け根から現れては、小指の影に消える。
マジシャンにとって、手の筋肉の訓練は呼吸と同じだ。一瞬たりとも止めてはならない。
「さあ、蘭瑛。仕事よ。まずは借金を返して、お父様の死の謎を解く。……そのためには、この『巨大な密室』のタネを全部暴いてやらなくちゃ」
彼女は、ボロボロの道具箱を抱え直し、迷いのない足取りで後宮の奥深くへと進んでいった。
その背中を、遠く高い回廊から見下ろす視線があることにも気づかずに。
「……面白い指の動きをする娘がいるな」
低い、落ち着いた声が独り言を漏らす。
それは、後宮の秩序を司る冷徹なリアリスト、親王・載淵の眼光だった。
彼は無意識に、その娘――蘭瑛が消した銀貨が、どこへ行ったのかを追いかけていた。
マジック狂いの娘と、知的好奇心の塊である貴公子。
二人の出会いが、偽りの奇跡に満ちた後宮を、鮮やかな「タネ明かし」で塗り替えていくことになるのだが――それはまだ、ほんの少し先のお話。
※(架空の王朝)
史実では清朝にあたりますが、この作品では
漢民族の装いをした架空の王朝としています。




