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第30話 契約と、誓いと

 神殿の調査は、思ったより早く終わった。


 証拠が整ったのは、朝の鐘が五度鳴った頃だった。

 調べ始めて三日。前回、聖女の件を追った時の記録があったおかげで、糸を辿るのは難しくなかった。


 人は変わる。だが、手口は変わらない。


 寄付金の流れ。代理人を挟んだ迂回路。そして口封じ契約の痕跡。

 全て同じだった。名前だけが、違った。


「終わったか」


 エーヴァルトが、扉から声をかけた。


「今終わりました」

 私は書類を重ねた。「書記官から話を聞いて、契約の原本の歪みを読んで、証拠を揃えて。……三日で済みました」


「前回より早い」


「前回は全部手探りでした」

 私は答えた。「今回は、勝手を知っているので」


 エーヴァルトが入ってきて、書類の束を覗き込んだ。

 距離が近い。以前は少し気になったが、今はもう慣れた。


「依頼主への報告は」


「午後に行きます。書記官の保護も、先に手配しました。王太子殿下に話を通してもらえましたから、動きやすかった」


「……あの男を使ったのか」


「借りがあると言っていましたから」

 私は肩をすくめた。「使える借りは、手早く使います」


 エーヴァルトが小さく息を吐いた。

 それ以上は言わなかった。

 この人はそういう人だ。私のやり方を、止めない。ただ、傍にいる。


「昼食は」


「まだです」


「食え」


「午後の報告の前に――」


「食え」

 エーヴァルトは繰り返した。語気は変わらないが、目が少し怖い。


 私は渋々立ち上がった。


「あなたは、私の食事にずいぶん口を出しますね」


「三日間、ろくに食えていなかった」


「調査中は仕方が――」


「仕方なくない」


 エーヴァルトが私の肩に手を置いた。

 強くではない。ただ、そこにある。


「終わったんだろう。なら、ちゃんと食え」


 私は彼の手を見てから、頷いた。


「……分かりました」


---


 近所のパン屋で、二人で昼を食べた。


 石造りの小さな店。窓際の席から、市場が見える。

 荷車が通り、子供が走り、魚を売る声が響く。

 王都の、いつもの昼。


 半年前、王宮にいた頃とは違う。

 あそこは何かが常に動いていて、常に何かが揺れていた。

 ここは静かだ。不正はある。でも、王宮ほど密ではない。


「神殿の件が終われば」

 エーヴァルトが言った。パンを手にしたまま、窓の外を見ている。「しばらく大きな依頼はないか」


「しばらく、は分かりません」

 私はお茶を飲みながら答えた。「商人街の件は継続中ですし、来月には別の相談が来るかもしれない」


「そうだな」


「不正は、なくならないので」


「分かっている」

 エーヴァルトは私を向いた。「だから、今日終わったら、少し休め」


「今日は午後に報告があります」


「その後の話だ」


「その後は――」


「一日くらい、仕事を忘れろ」


 私は口を閉じた。

 エーヴァルトの目が、いつもより静かだ。

 怒っているわけじゃない。ただ、真剣に言っている。


「……分かりました」

 私は言った。「報告が終わったら」


「ああ」


「では、今日の午後は手早く片付けます」


 エーヴァルトが少し黙った。


「……最初からそう言え」


「言いました」


「言っていない」


「今言いました」


 エーヴァルトが私を見た。

 無表情。でも、目の端が、かすかに動いた。


---


 午後の報告は、一刻ほどで終わった。


 依頼主は証拠を受け取り、深く礼をした。

 書記官の保護について確認し、評議会への持ち込みについて段取りを整えた。

 全部、滞りなく。


 事務所に戻ったのは、夕方になる前だった。


 机の上は、片付いていた。

 朝の書類は棚に仕舞ってある。エーヴァルトが整理してくれたのだろう。


 私は椅子に座り、一度だけ深く息を吐いた。


(終わった)


 神殿の案件。半年前の残り糸を、ようやく断った。

 聖女の件から始まって、侍従長の横領、ギルベルトの不正、王太子の利用、長老の支配。

 そして今回の、再び芽吹いた同じ手口。


 全部が繋がっていた。

 全部を、証拠で追った。


 契約は、嘘をつかない。

 だから、嘘の上に積み上げられた不正は、必ず歪みを残す。

 その歪みを追っていけば、根が見える。


 私はそのやり方で、戦ってきた。


---


「リディア」


 エーヴァルトが扉の前から言った。


「何ですか」


「来い」


 私は顔を上げた。

 エーヴァルトが立っている。外套姿。いつもの格好。

 だが、表情が、普段より少しだけ違う気がした。


「どこへ」


「いいから、来い」


 私は素直に立ち上がり、外套を羽織った。


---


 連れて行かれたのは、事務所から二本隣の通りだった。


 小さな公証人の事務所。窓に灯りがついている。


「……ここは」


「公証人の事務所だ」

 エーヴァルトは言った。「予約を入れていた」


「何の」


 彼は私を見た。

 その目に、珍しく、緊張のようなものが見えた。


「婚姻契約の公証だ」


 私は一瞬、動きを止めた。


「……予約、していたんですか」


「一週間前に」


「一週間前というのは」


「神殿の件が終わる頃を見計らって」

 エーヴァルトは前を向いた。「お前のことだから、三日で片付けると思っていた」


 私はしばらく彼を見ていた。


「……あなたは、本当に」


「何だ」


「いつも、先に動いている」


 エーヴァルトが私を見た。


「お前が手早いのは知っている」

 彼は静かに言った。「だから、俺も手早くしておく」


 私は息を吸った。


(この人は、最初からそうだった)


 三十日前の王宮でも、そうだった。

 私が動く前に、もう扉の前に立っていた。

 私が倒れる前に、もう腕が出ていた。

 私が気づく前に、もう父に文を送っていた。


「……入りましょう」

 私は言った。


「ああ」


---


 公証人の事務所は、こじんまりとしていた。

 老いた公証人が、丁寧に礼をして、机に羊皮紙を広げた。


 婚姻契約書。

 記載は、シンプルだった。


 名前。日付。双方の誓約。


 私は【契約監査】を起動した。

 胸の奥に、要点が静かに流れ込んでくる。


(婚姻契約。当事者:リディア・アルベール、エーヴァルト・クロイツ。条項:双方の自由意志による合意。歪みなし)


 歪みは、ない。


 当たり前だ。でも、確かめたかった。

 この人の誓いが、本物かどうか。


(本物だ)


「……どうぞ」


 公証人が、静かに言った。


 私はペンを取り、署名欄に名前を書いた。

 リディア・アルベール。


 インクが乾くのを、一瞬待つ。

 それから、エーヴァルトへ羊皮紙を渡した。


 彼は受け取り、ペンを持った。

 その手が、一度だけ止まる。


「エーヴァルト」


「何だ」


「緊張していますか」


 彼が私を見た。


「していない」


「嘘です。手が止まりました」


 エーヴァルトが黙る。

 少しの間。


「……少し、だ」

 彼は認めた。「お前にだけ」


 私は前を向いて、黙っていた。

 顔が、少し熱い気がする。


 エーヴァルトが署名した。

 エーヴァルト・クロイツ。

 力強い字。迷いのない線。


 羊皮紙を机に置くと、二つの名前が並んで、灯りの中に浮かんだ。


---


 外に出ると、夕暮れが始まっていた。


 橙色の光が石畳を染めている。

 市場の声が、夕方の色に変わっていく。


 私は空を見上げた。

 薄い雲。その向こうに、一番星が見え始めている。


「エーヴァルト」


「何だ」


「手早く片付けて、二人で休みましょう」


 エーヴァルトが私を見た。


 沈黙。


 夕暮れの風が、石畳の上を流れていく。


「ああ」

 彼は言った。


 少し間があって。


「……いつまでも」


 その三文字が、静かに落ちた。


 私は彼を見た。

 いつもの無表情。

 でも、目が違う。


「いつまでも、というのは」


「今日だけじゃない」

 エーヴァルトは続けた。「明日も、明後日も、仕事が終わるたびに、二人で休む。ずっと、続ければいい」


 私はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。


「……それは」


「それが、俺の言いたいことだ」


 短い言葉。

 でも、その言葉に、全部が入っている。

 先も。傍も。止まらない私を、それでも守るということも。


「……律儀ですね」

 私は小さく言った。「婚姻契約に署名した後に言うことですか」


「お前が先に片付けたんだろう」


「そうですが」


「なら、俺は後から付け加えた」


 エーヴァルトの手が、私の手を取った。

 指と指が絡む。

 温かい。


 私はその温度を感じながら、空を見た。

 一番星が、はっきりしてきた。


 半年前の三十日間が、遠く感じる。

 聖女の件の書類。倉庫の罠。評議会の廊下。魔法院の原本保管庫。長老の、静かな声。


 全部が、今ここに繋がっている。


 契約は、嘘をつかない。

 だから、不正は必ず歪みを残す。

 だから、私はその歪みを追い続ける。


 そして。


 この人の誓いも、嘘をつかない。

 胸の奥に流れ込んだ要点は、最初から揺れていなかった。

 歪みなし。ただ、本物だけ。


 だから私は――この人との誓いを、信じられる。


「エーヴァルト」


「何だ」


「次の依頼が来たら」

 私は彼を見た。「また一緒に片付けましょう」


「ついていく」

 エーヴァルトは即答した。「最初から、そのつもりだ」


「離さないでください」


「最初からな」


 彼の手が、私の手を握った。

 強くではなく。でも、離す気配もなく。


 二人で、夕暮れの道を歩いた。


 石畳の上を、橙色の光が流れていく。

 市場の声が遠くなる。空が暗くなる。星が増える。


 明日、また不正を追う。

 証拠を集めて、糸を辿って、根を断つ。

 それが私のやり方だ。手早く、丁寧に、正確に。


 でも今日は、もう少しだけ、ゆっくりしていい。


 この人が隣にいる限り、私は一人ではない。


 契約は、嘘をつかない。

 だから私は――この人との誓いを、信じられる。


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