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第29話 それでも私は、手早く片付けたいのです

 朝の光が、窓から斜めに差し込んでいた。


 事務所は狭い。

 机が二つ。書棚がひとつ。古い書類棚が壁を埋めている。

 王宮の監査局とは比べものにならない小ささだが、ここは私のものだ。


 私、リディア・アルベール。

 独立監査官として、開業して半年が経った。


 依頼は思ったより多い。

 王宮での事件が知れ渡ったせいか、「困った契約がある」「不正の匂いがする」という相談が後を絶たない。

 正直なところ、手が回らないほどだ。


「眉間に皺が寄っている」


 声がした。

 私は顔を上げた。


 エーヴァルトが、扉の脇に立っている。

 外套姿。腰に剣。護衛の格好のまま、熱いお茶を二つ持っていた。


「皺など寄っていません」


「寄っている」

 彼はためらいなく私の机に近づき、湯気の立つカップを置いた。「三件目の依頼書から、ずっとそうだ」


「三件目から観察していたんですか」


「護衛の仕事だ」


 私はため息をついた。

 この半年、エーヴァルトは騎士団の正式な任務から離れ、私の「護衛」として常に傍にいる。

 王に直接掛け合って辞令を取ったと聞いた。何を言ったのかは教えてくれなかったが。


「依頼は何件あった」


「今日は四件です。午前に二件、午後に一件。残り一件は書面だけです」

 私はお茶に口をつけた。「うち二件は、内容が似ています」


「どこの話だ」


「東の商人街。契約の代理人を使った横流し。半年前と同じ手口ですね」

 私は書類を揃えながら言った。「前回、根を断てなかったということです」


 エーヴァルトが私の隣に立ち、書類を覗き込んだ。

 距離が近い。以前は少し気になったが、今はもう慣れた。


「同じ人物か」


「おそらく別の誰かです。手口は同じでも、糸の絡み方が違う」

 私は書類の片隅を指でなぞった。「……ここに、何かある気がします」


「感じるか」


「まだ遠すぎて、確かなことは言えません。でも」

 私は息を吐いた。「嫌な感触です」


 エーヴァルトが私の手に、そっと手を重ねた。

 温かい。

 相変わらず、この人の手は温かい。


「一人で動くな」


「分かっています」

「分かっていると言いながら、動く」


「……今回は、ちゃんと言います」


 エーヴァルトが私を見下ろした。

 無表情。でも、目が少しだけ柔らかい。


「言葉だけなら信じない」


「契約しますか」


「いらない」

 彼は短く言った。「お前の言葉は、契約がなくても本物だ」


 私はお茶をひと口飲んで、視線を書類に戻した。

 顔が、少し熱い気がする。

 半年経っても、この人は突然こういうことを言う。


---


 午前中に、二人の依頼人が事務所を訪れた。


 一人目は、商人の妻。夫が結んだ取引契約に、不審な条項が混じっているという。

 私は契約書を受け取り、【契約監査】を起動した。

 胸の奥に、要点が流れ込んでくる。


(取引契約あり、名目は布地の卸売、対価は正規の三分の一、差額は代理人口座へ流れる)


 黒だ。

 しかも代理人の名前が、先ほどの依頼書に出てきた名前と一致する。


「ありがとうございます」

 私は依頼人に言った。「確かに、問題があります。調べます」


 依頼人の女性が深く礼をして去ると、エーヴァルトが言った。


「繋がった」


「ええ」

 私は手帳にメモをしながら答えた。「これで三件が同じ糸で繋がっています。中心に誰かいる」


「今日、動くか」


「明日にします。今日はもう一人、依頼人が来ます」


 エーヴァルトが頷いた。

 彼は扉の近くに戻り、外を見ている。

 出口を確認する癖は、半年経っても変わっていない。


 二人目の依頼人は、若い書記官だった。

 神殿の下働きをしているという。顔色が悪く、怯えている。


「……誰にも言っていません」

 青年は椅子に座り、膝の上で手を握りしめた。「でも、黙っていられなくて」


「話してください」

 私は穏やかに言った。「ここで聞いたことは、依頼人の許可なく外に出しません」


「神殿の、寄付金の話です」


 私の手が、一瞬止まった。


「続けてください」


「聖女様が断罪されてから、神殿は変わったと思っていました。でも」

 青年は唇を噛んだ。「また、同じことが起きています。名前が違うだけで、同じ流れ方をしている」


「……見ましたか。その書類を」


「はい。でも、すぐに隠されました。私が見たことは、ばれていないと思いますが」


 私は青年を見た。

 怯えている。でも、それでも話しに来た。


「分かりました」

 私は言った。「信じます」


 青年がほっと息を吐いた。


「調べるには、もう少し情報が必要です。神殿の中で、動いている人物の名前は分かりますか」


 青年は少し考え、名前を一つ挙げた。

 私は手帳に書き留めながら、胸の奥で何かが揺れるのを感じた。


(これは、大きい)


---


 依頼人が去った後、事務所は静かになった。


 私は書棚から半年前の書類を引っ張り出した。

 王宮での事件の記録。聖女の断罪。侍従長の死。そして長老の件。

 全て、丁寧に書き記してある。


 エーヴァルトが横から覗き込んだ。


「懐かしいな」


「懐かしくはありません。まだ使います」


「記録好きだな、お前は」


「記録は嘘をつかないので」

 私は答えながら、ページをめくった。「……聖女の件を調べた時、神殿の寄付金の流れを全部追いきれなかった場所があります。あの時は、長老の件に移ってしまったので」


「今度は、そこを追うか」


「そのつもりです」


 エーヴァルトが、私の椅子の背もたれに手を置いた。

 かがんで、書類を一緒に読んでいる。


「また、面倒な相手か」


「中くらいだと思います」

 私は書類を指でたどりながら言った。「大物ではない。でも、根がある」


「根を断つのが、お前の仕事だな」


「そうです」


 エーヴァルトが、静かに言った。


「俺はついていく」


 半年前に聞いた言葉。

 何も変わっていない。この人は、変わらない。


「知っています」

 私はページを閉じ、顔を上げた。「離れないでください」


「最初から、そのつもりだ」


 エーヴァルトの目が、穏やかに私を見ている。

 王宮にいた頃の、氷のような目ではない。

 今は、温かい。柔らかい。


 それでも、隙がない。

 この人が側にいる限り、私は無茶ができない。


 いや、正確には。

 無茶をしようとすると、必ず止められる。


「……エーヴァルト」


「何だ」


「今回の件、少し時間がかかりそうです」


「構わない」


「神殿の中に入る必要が出るかもしれません」


「令状を取る」


「まだ証拠が足りない段階で動くと、向こうが動きます」


「分かっている」

 エーヴァルトは私の額に、軽く手を触れた。「お前が手順を守るのも、知っている」


 手が、温かかった。

 私は少し目を細めた。


「……なぜ額に」


「疲れた顔をしていた」


「疲れていません」


「嘘だ」


「……少しだけ」


 エーヴァルトの口元が動いた。

 笑うには至らない。でも、柔らかい。


「今日は終わりにしろ」

 彼は静かに命令した。「残りは、明日だ」


「でもまだ――」


「書類は逃げない」


「逃げないけど、不正は」


「明日も不正はある」


 私は息を吐いた。


「……あなたは、時々すごく正しいことを言いますね」


「いつも正しい」


「それは言い過ぎです」


 エーヴァルトが私の椅子を引いた。

 立て、という意味だ。


 私は渋々立ち上がり、書類を揃えた。

 棚に仕舞い、鍵をかける。


 外に出ると、夕暮れが始まっていた。

 橙色の光が石畳を染めている。

 半年前とは違う、穏やかな王都の夕方。


「エーヴァルト」


「何だ」


「半年経ちました」


「ああ」


「王宮にいた頃と、どちらが楽ですか」


 エーヴァルトが少し考えた。


「どちらも、楽ではない」

 彼は言った。「お前のそばは、いつも騒がしい」


「……それは、私のせいですか」


「不正が引き寄せられるのか、お前が引き寄せるのか」


「不正が向こうからやってくるんです」


「同じことだ」


 私は少し笑った。

 エーヴァルトも、笑うには至らないが、目が柔らかい。


「でも」

 彼は続けた。「騒がしくても、ここがいい」


 その一言が、夕暮れの風と一緒に流れていった。


 私は前を向いたまま、小さく答えた。


「……私も、です」


 エーヴァルトの手が、私の手を取った。

 指が絡む。

 温かい。


 二人で、夕暮れの道を歩いた。


 明日、また不正を追う。

 証拠を集めて、糸を辿って、根を断つ。

 それが私のやり方だ。手早く、丁寧に、正確に。


 でも今日は、もう少しだけゆっくりしてもいい。


 この人が隣にいる限り、私は一人ではない。


 契約は、嘘をつかない。

 だからこの手の温もりも、嘘をつかない。



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