第28話 騎士団長は離してくれない
王宮を出たのは、朝の鐘が二度鳴った後だった。
馬は二頭。荷物は鞄ひとつ。
三十日前に王宮に持ち込んだものより、少し増えている。
それだけの時間が、ここに流れた証拠だ。
私は馬上から王宮を振り返った。
石の門。衛兵の姿。高い塔。
三十日前、あの正門をくぐった時の気持ちを、今でも覚えている。
(もう終わりかもしれない、と思っていた)
今は、そう思わない。
終わりではなく、ここから先がある。
「行くぞ」
エーヴァルトが言った。
右腕は外套の下に収めている。馬の手綱は、左手一本で握っていた。
「無理をしていませんか」
「していない」
「嘘です」
「馬に乗るのに、右腕は要らない」
エーヴァルトは前を向いたまま言った。「前にも言った」
「……言いましたね」
私は息を吐き、前を向いた。
王都の朝は早い。
石畳の市場では、もう人が動き始めている。荷車が通り、食料を売る声が響く。
いつもの朝。
私の冤罪が晴れても、王国は変わらず動いていく。
それが、正しい。
アルベール伯爵家は、王都から馬で半刻ほどの郊外にある。
王宮ほど華やかではないが、古い石造りの屋敷だ。私が生まれた場所。
三十日ぶりに帰る。
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郊外に出ると、空が広くなった。
石畳から土の道に変わり、木立が増える。
鳥の声が聞こえる。風が草の匂いを運んでくる。
私は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
並んで馬を進めながら、エーヴァルトを横目に見た。
無言。
でも、その沈黙は苦痛ではない。
もう、慣れた。
「エーヴァルト」
「何だ」
「正式な告白というのは」
私は少し考えてから言った。「どういうものですか」
エーヴァルトが私を見た。
「なぜ今聞く」
「話しながら行きたかっただけです」
しばらくの間、彼は黙っていた。
馬の蹄音が、草の道を踏む。
「……俺には慣例がわからない」
エーヴァルトは言った。「騎士は、領地も財産も持たない」
「知ってます」
「名家の令嬢に、並べるものがない」
「知ってます」
「だから」
エーヴァルトの声が、少し低くなった。「俺が言えるのは、一つだけだ」
「何ですか」
彼は前を向いたまま、静かに言った。
「離さない」
その三文字が、朝の空気に溶けていった。
私は前を向いたまま、息を整えた。
胸の奥が、温かい。
「……知ってます」
私は言った。「最初から」
エーヴァルトが黙る。
馬の蹄音だけが続く。
私は空を見た。
薄い雲が流れている。青い空。
三十日前には見る余裕もなかった、ただの空。
(早く、答えを言いたい)
でも、父の前で言わなければならない。
それが筋だ。
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アルベール伯爵家の門が見えたのは、太陽が少し高くなった頃だった。
石造りの門柱。蔦が絡んでいる。
変わっていない。三十日前と、何も変わっていない。
私が馬を止めると、エーヴァルトも止まった。
「ここで待つ」
彼は言った。
「分かりました」
私は馬を降り、鞄を手に取った。「時間はかけません」
「急がなくていい」
「いいえ」
私は彼を見上げた。「手早く片付けます」
エーヴァルトの口元が、わずかに動いた。
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父は、書斎にいた。
私が入ると、父は立ち上がった。
三十日ぶりに見る父の顔は、少し老けたように見える。心配をかけた分だろう。
「リディア」
「ただいま戻りました、父上」
私は頭を下げた。
父が近づき、私の肩に手を置いた。
「……無事で、よかった」
「はい」
それだけで、言葉が詰まった。
父も、同じだったらしい。
しばらく、二人で黙っていた。
やがて父が言った。
「王からの書状は、届いた」
「では、内容はご存知ですね」
「ああ」
父は私を見た。「お前の冤罪が晴れたこと。アルベール家の名誉が回復されたこと」
「はい」
「お前が、それをやり遂げたことも」
父の目が、静かに揺れた。
泣きそうな、でも泣くまいとしている顔。
「父上」
私は言った。「報告があります」
「聞こう」
「王宮の外で、一人待っている方がいます」
父が目をわずかに細めた。
「近衛騎士団長、エーヴァルト卿です」
私は続けた。「私の護衛として、三十日間、傍にいてくださいました」
「……知っている」
父は頷いた。「お前が王宮にいる間、騎士団長殿から文が届いていた」
「え」
「お前の安否を知らせる内容だ」
父は口元に薄い笑みを浮かべた。「几帳面な方だな」
私は少し驚いて、父を見た。
エーヴァルトが、父に文を送っていた。
(知らなかった)
「その方が」
私は深く息を吸った。「門の前で、私の答えを待っています」
父が私を見た。
「……どんな答えを」
「正式な申し出をいただきました」
私は真っ直ぐに言った。「私は、承諾したいと思っています」
書斎に、静寂が落ちた。
父は長い間、私を見ていた。
品定めではなく――娘の顔を、見ていた。
「……お前が、そう決めたのか」
「はい」
「押しつけられたわけではなく」
「違います」
私は即答した。「自分で決めました」
父は頷いた。
「では、会おう」
父は立ち上がった。「騎士団長殿を、中に通しなさい」
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エーヴァルトは門の前で、馬から降りて立っていた。
外套をまとい、包帯の右腕を体の脇に収め、背筋を伸ばして。
まるで、ずっとそうしていたかのように。
私が近づくと、彼は私を見た。
「終わったか」
「はい」
私は言った。「父が、中に通すと」
エーヴァルトが頷き、私の隣に立った。
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書斎で、父とエーヴァルトは向かい合った。
父は椅子に、エーヴァルトは立ったまま。
二人の間に、私がいる。
「騎士団長殿」
父が言った。「三十日間、娘の安否を知らせてくださったこと、礼を申します」
「任務でした」
エーヴァルトは短く言った。「ですが――その先については、任務ではありません」
「……その先、とは」
「リディア殿を、任務の外でも守りたい」
エーヴァルトの声は、静かだ。「正式に、申し出ます」
父が私を見た。私は頷いた。
「領地はありません」
エーヴァルトは続けた。「財産も、名家の家格もない。騎士団長の職と、剣しか持っていない」
「それは承知しています」
父は言った。
「ですが」
エーヴァルトは父を見た。「この先も、リディア殿の傍を離れるつもりはない。許可をいただけますか」
書斎が静かになった。
父は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、開いた。
「娘に聞きましょう」
父は私を向いた。「リディア。お前の答えは」
私はエーヴァルトを見た。
無表情。寡黙。冷徹な騎士団長の顔。
でも、その目の奥に、三十日間ずっと見てきた何かがある。
(離さない、と言った)
(最初から、そう言っていた)
「一緒に行きます」
私は言った。「この人と」
エーヴァルトが、私を見た。
父が、小さく息を吐いた。
「……分かりました」
父は言った。「二人で、よく話しなさい」
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屋敷の庭に、二人で出た。
春の午後の光が、柔らかく落ちている。
草の匂いがする。蜂の羽音が遠い。
王宮とは違う、静かな空気。
私は少し歩いてから、立ち止まった。
「……エーヴァルト」
「何だ」
「父に文を送っていたんですね」
エーヴァルトが黙る。
少しの間があって、短く言った。
「必要だと思った」
「知らなかったです」
「言わなかった」
「なぜ」
「……お前が、仕事に集中するほうが良かった」
私は彼を見た。
無表情。でも、耳の先が、わずかに赤い。
「……ありがとうございます」
私は言った。「父が、安心できたと思います」
「礼はいい」
「いいえ」
私は一歩、近づいた。「言います」
エーヴァルトが私を見下ろした。
「三十日間」
私は言った。「あなたが傍にいてくれたから、私はやり遂げられました」
「お前自身の力だ」
「そうかもしれません」
私は頷いた。「でも、あなたがいなければ、途中で折れていた」
エーヴァルトが黙る。
私は懐からハンカチを取り出した。
白い布。小さな刺繍。
「ずっと、返せていませんでした」
エーヴァルトがハンカチを見た。
そして、受け取ろうとした左手が、途中で止まった。
「……返さなくていい」
「え?」
「持っていろ」
エーヴァルトは静かに言った。「お前が持っている方が、いい」
私はハンカチを見た。
白い布に、小さな紋章。
「……なぜですか」
「俺の傍にいる証だ」
その言葉が、春の風と一緒に流れた。
私は顔を上げた。
エーヴァルトが、私を見ている。
いつもと同じ、無表情。
でも、目が違う。
柔らかい。
私はハンカチを胸に当てた。
「……分かりました」
私は言った。「では、大事に持ちます」
「ああ」
「でも、あなたも私の証を持つべきでは」
エーヴァルトが少し黙った。
「何がいい」
「後で、考えます」
私は言った。「今は、まず正式な話をしましょう」
「正式な話は、父君の前でした」
「そうですが」
私は彼を見上げた。「あなたから、まだ言っていないことがあるでしょう」
エーヴァルトが私を見た。
長い沈黙。
そして、静かに言った。
「俺と一緒に来い」
短い言葉。
でも、その一言に、全部が入っている。
先も。傍も。守ることも。
私は頷いた。
「はい」
私は言った。「一緒に行きます」
エーヴァルトの左手が伸びた。
私の手を、取った。
温かい。
いつも、温かい。
「……手早く、片付いたな」
私は少し笑った。
「あなたが、急がなくていいと言いましたよ」
「言った」
エーヴァルトは私を見た。「でも、お前は手早く片付けた」
「それが、私のやり方なので」
「知っている」
彼の口元が、ほんの少し動いた。
笑うには至らない。でも、確かに柔らかい。
春の光の中で、二人は並んで立っていた。
王宮の騒がしさは、もうない。
証拠も、評議会も、長老も。
全部、後ろにある。
前に何があるかは、まだわからない。
でも、この人と一緒に行く。
それだけは、決まっている。
「エーヴァルト」
「何だ」
「次の仕事が来たら」
私は言った。「一緒に片付けましょう」
エーヴァルトが私を見た。
「護衛として、か」
「それ以上として、です」
短い沈黙。
「……ああ」
エーヴァルトは言った。「ついていく」
「離さないでください」
「最初から、そのつもりだ」
彼の手が、私の手を握った。
強くではなく。でも、離す気配もなく。
契約は、嘘をつかない。
この人の言葉も、嘘をつかない。
だから、信じられる。
庭の木立の向こうで、風が吹いた。
葉が揺れる。光が揺れる。
私たちは、並んで立っていた。




