第27話 三十日目の朝
目が覚めた時、部屋は明るかった。
窓から差し込む光が、白い。
いつもより遅く起きた。眠れたのだ。昨夜、初めて本当に眠れた。
三十日目の朝。
私はゆっくりと体を起こし、両手を見た。
昨夜、エーヴァルトの左手が触れていた場所。
もう、痕は残っていない。
でも、温度の記憶がある。
私は息を吐いた。
「……片付けなければ」
まず、机。
三十日で積み上がった書類の山。証拠の写し。調書。評議員の署名書。
これらを整理して、正式な監査記録として提出しなければならない。
それから、荷物。
王宮に持ち込んだ私物は少ない。それでも、三十日分の何かが、部屋に染みついている。
私は立ち上がり、窓を開けた。
王都の朝の空気が流れ込んでくる。
石畳の広場。行き交う人々。遠くで鐘が鳴っている。
いつもと変わらない王都の朝。
でも、私には違って見える。
(終わった)
昨日の評議会が、頭をよぎる。
長老の「その通りだ」という言葉。
議長の「あなたの名誉は完全に回復される」という宣言。
エーヴァルトの「よくやった」という声。
全部、本当のことだった。
夢ではない。
扉がノックされた。
「監査官殿」
侍女の声だ。「王より、使者がいらしています」
「今行きます」
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使者は若い書記官で、恭しく一礼して、封書を差し出した。
「王陛下より、監査官リディア・アルベール殿へ」
私は封書を受け取った。
重い。羊皮紙が何枚か折り込まれている。
「陛下は、今朝早くにお書きになられたとのことです」
「ありがとうございます」
私は書記官を送り出し、封書を開いた。
文字が、目に飛び込んでくる。
王の筆跡。力強く、しかし丁寧な字。
読み進めるうち、私は何度か息を止めた。
一枚目:今回の監査への正式な感謝。
二枚目:婚約破棄に際しての冤罪認定と、名誉回復の宣言書。
三枚目:父への書状。伯爵家アルベールに対し、令嬢の功績を認める旨。
そして最後の一枚。
短い、私信だった。
「リディア・アルベール。汝の働きは、この国の礎に刻まれるだろう。三十日で果たすとは思わなかった。礼を言う」
それだけ。
簡潔な文。
私は封書を折りたたみ、胸に押し当てた。
目が、少しだけ熱くなる。
泣かない。
泣かないと決めている。
でも、ここまで来られたのだ。
証拠で戦い、権力に押し潰されかけて、それでも諦めなかった。
それが、認められた。
(これで、いい)
私は深く一呼吸した。
それから、書類の整理に戻った。
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午前のうちに、宰相府へ最終報告書を提出した。
宰相補佐の代理が受け取った。以前の宰相補佐、ギルベルトが断罪された後、その席はまだ空いている。
「受領いたしました、監査官殿」
代理の書記官が、書類の厚さを量るように持ち上げた。「……これは、相当な量ですね」
「三十日分ですので」
「全て、確認が必要ですか」
「はい。評議会への正式提出が必要な書類には印を打っています。それ以外は参考資料です」
書記官が頷き、書類を受け取った。
私は宰相府の廊下を歩きながら、壁の契約糸を読んだ。
いつもなら揺れている糸が――落ち着いていた。
(長老が断罪されたから。使い古された不正の糸が、切れた)
全部が消えたわけではない。
人が集まれば、不正は生まれる。それは、これからも変わらない。
でも、少なくとも今日この瞬間、王宮の糸は静かだった。
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昼前、私は監査局の執務室に戻った。
三十日前、ここに放り込まれた。
「帳簿の墓場」と呼ばれる、誰も使わない部署。
あの日の埃の匂いは、もうない。
私は机の前に座り、残った荷物を見渡した。
書類は全て提出した。私物は少ない。手帳が一冊、インク壺が一つ、それから――
引き出しの奥に、ハンカチがあった。
エーヴァルトのものだ。
返すのを忘れていた。
端の小さな刺繍。白い糸で刻まれた、騎士団の紋。
私はそれを手のひらに乗せ、しばらく見ていた。
「返すのを忘れていたぞ」
声がした。
扉が開き、エーヴァルトが入ってきた。
右腕には今日も包帯。黒銀の制服は着ているが、剣は左手側にある。
「いつの間に」
私は思わず言った。
「廊下で待っていた」
彼は私の手元を見た。「それを持ち歩いていたのか」
「……返しに行こうと思っていました」
「いつ」
「今すぐ」
エーヴァルトが、わずかに目を細めた。
私はハンカチを差し出した。
彼は左手でそれを受け取り、ポケットに仕舞った。
「腕は」
私は聞いた。「昨日より、良いですか」
「動かすのは、まだ無理だ」
エーヴァルトは短く答えた。「だが、痛みは引いている」
「それなら良かった」
沈黙が落ちる。
いつもなら苦にならない沈黙が、今日は少し違う。
昨夜の「明日、ちゃんと話しましょう」という言葉が、空気の中に残っている。
エーヴァルトも、分かっているはずだ。
私も、分かっている。
「荷物は」
彼が先に口を開いた。「まとめたか」
「ほとんど」
「いつ出る」
「明日、早朝を考えています」
エーヴァルトが頷く。
「伯爵家へ帰るのか」
「……そのつもりです」
私は答えた。「父に報告しなければならないことも、たくさんありますし」
「そうだな」
また、沈黙。
私は窓の外を見た。
昼の光が、石畳に落ちている。
穏やかな日だ。
「エーヴァルト」
「何だ」
「昨夜の続き」
私は彼を向いた。「話しましょう」
エーヴァルトは私を見た。
いつもの無表情。でも、その目の奥に、昨夜と同じ何かがある。
「ここで、か」
「構いません」
私は立ち上がった。「誰も来ません。帳簿の墓場なので」
エーヴァルトが小さく息を吐いた。
そして、部屋の中に一歩入り、扉を閉めた。
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「俺は」
エーヴァルトが口を開いた。
昨夜、言いかけた言葉。
今日、もう一度、同じ入口から始まる。
「三十日間、お前の隣にいた」
「はい」
「最初は、任務だった」
彼は続けた。「監視と、護衛。王命で動いていた」
「知っています」
「だが」
エーヴァルトの声が、少し低くなる。「いつからか、分からなくなった。任務で隣にいるのか、隣にいたくて動いているのか」
私は黙っていた。
「お前が一人で動いた日、医務室で目が覚めた時、最初に思ったのはお前のことだ」
エーヴァルトは私から目を逸らさない。
「戻ってこい、と言ったのは、任務じゃない」
「……分かっています」
「分かっているなら」
彼は静かに言った。「答えを聞かせろ」
私は深く息を吸った。
答えは、決まっている。
昨夜の月明かりの中で、すでに決まっていた。
それよりずっと前から、決まっていたのかもしれない。
でも。
「一つだけ、聞いていいですか」
私は言った。
エーヴァルトの目が、わずかに揺れる。
「あなたは、私が監査官であることを知った上で、言っていますか」
エーヴァルトが眉をひそめた。
「お前が監査官でなければ、言わなかった」
彼は即答した。「お前が、お前だから言っている」
「証拠を集めて、権力に突っ込んでいく人間が、隣にいても」
「だから隣にいる」
エーヴァルトの声は、揺れない。
「お前が危ないところに行くなら、俺が先に行く。お前が証拠を掴むなら、俺が道を開ける。それだけだ」
私は彼を見ていた。
氷の騎士団長。
寡黙で、冷徹で、絶対に離してくれない人。
この人の契約糸は、嘘をつかない。
最初からずっと、そうだった。
「……一つだけ、条件があります」
私は言った。
「言え」
「私は、これからも監査官です。王宮の外でも、不正があれば動きます。伯爵家の令嬢として大人しくしている気は、ありません」
エーヴァルトが頷く。「知っている」
「面倒なことに、巻き込むかもしれません」
「今さらだ」
「……ずっと、傍にいることになるかもしれませんよ」
エーヴァルトの目が、静かに細くなった。
「それの、何が困る」
私は息を吐いた。
長い、深い息。
「……困りません」
私は小さく言った。「私も、あなたの隣がいい」
沈黙。
エーヴァルトは何も言わなかった。
言葉ではなく、左手を伸ばした。
そして、私の頬に触れた。
冷たい手。
でも、すぐに温かくなる。
「お前の答えを待っていた」
彼は静かに言った。「ずっと」
「……長かったですか」
「ああ」
エーヴァルトの目が、今まで見たことのない色をしている。
無表情の奥にあった何かが、ようやく表面に出てきたような。
「でも」
彼は続けた。「急かすつもりはない。お前が帰るなら、待つ。答えを持って帰ってくるなら、その時でいい」
「もう答えています」
「正式な答えじゃない」
エーヴァルトは首を振った。「伯爵家に帰り、父君に話を通してからでいい。俺には時間がある」
私は彼を見上げた。
お前の答えを待つ。
その言葉が、胸に落ちる。
急かさず、押しつけず、ただ待つと言う。
この人は、ずっとこうだ。
守るが、縛らない。傍にいるが、囲わない。
「……分かりました」
私は言った。「伯爵家に帰ったら、父と話します。それから、正式な答えを持って来ます」
「ああ」
「時間はかかりません。手早く片付けます」
エーヴァルトの目が、細くなった。
笑うには至らない、でも確かに柔らかい表情。
「お前らしい答えだ」
「褒めていますか」
「当然だ」
彼の手が、私の頭に移った。
右腕は使えないから、左手だけ。
それでも、その手は温かい。
「行くのか」
エーヴァルトが言った。「明日の朝」
「はい」
「護衛をつける」
「一人で大丈夫です」
「俺が行く」
私は顔を上げた。
「腕が治っていないのに」
「馬に乗るのに、右腕は要らない」
彼は静かに言った。「それに、お前を一人で帰す気はない」
私は少し考えた。
断っても、聞かないだろう。
この人は、そういう人だ。
「……分かりました。伯爵の門まで」
「正式な答えを聞くまで、門から離れない」
「脅しですか」
「事実だ」
私は息を吐いた。
それから、小さく笑った。
「相変わらず、離してくれないんですね」
「最初からそう言っている」
エーヴァルトは短く言った。「お前が、気づかなかっただけだ」
---
夕方、私は監査局の部屋をもう一度見渡した。
机は片付いた。書類は全て提出済み。私物は小さな鞄一つにまとまっている。
三十日前と同じ、空っぽの部屋。
でも、何かが違う。
私がここに立った最初の日、この部屋は「墓場」だった。
今は、出発点に見える。
窓の外で、夕日が石畳を赤く染めている。
三十日の期限が、今日で終わる。
聖女の嘘から始まった全ての不正が、暴かれた。
私の冤罪は晴れた。父への手紙も、王の筆で書かれた。
でも、本当に終わったわけではない。
王宮に不正の種は残るだろう。
長老がいなくなっても、魔法院の課題は続く。
ギルベルトが断罪されても、権力に群がる者たちは消えない。
だから、正式な監査官の仕事は続く。
これからも、証拠で戦う。
それが、私にできることだから。
廊下から足音がした。
エーヴァルトではない。軽い足音。
扉が開き、王太子が顔を出した。
「いるか」
「殿下」
私は頭を下げた。「何か」
「別に」
王太子は肩をすくめた。「明日、帰ると聞いたから」
「はい」
「……礼を言いに来た」
私は少し驚いて、王太子を見た。
彼は少し居心地悪そうに、壁に寄りかかっている。
「俺のせいで、お前は断罪された」
王太子は言った。「その事実は、変わらない」
「殿下も利用されていました」
「だとしても、俺が署名した。俺が承認した」
彼は首を振った。「言い訳はしない。ただ――今回のことで、少し分かった」
「何が、ですか」
「権力は、正しく使わないと人を殺す」
王太子の声は低い。「俺はそれを、お前から学んだ」
私は彼を見た。
かつて評議会で私を断罪した王太子。
今は、別人のように見える。
「長老が言っていました」
私は言った。「権力は道具だ、と。正しく使えば有用、悪用すれば害になる」
「長老の言葉を使うのか」
「正しいことは、誰が言っても正しいので」
王太子が小さく笑った。
珍しい表情だった。
「……お前は本当に、面倒な女だ」
「よく言われます」
「だが」
王太子は私を見た。「王国には、必要な面倒だった」
その言葉は、意外なほど真っ直ぐに届いた。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
王太子は頷き、踵を返した。扉のところで立ち止まり、振り返る。
「監査官。伯爵家に戻っても、必要な時は呼ぶ」
「はい」
「断るな」
「……状況次第で、手早く片付けます」
王太子は短く笑い、廊下へ消えた。
---
日が暮れた。
私は部屋の窓際に立ち、夜の王都を見ていた。
灯りが、一つ一つ灯っていく。
三十日前の夜、初めてこの部屋から外を見た時、あの灯りは遠かった。
今は、近い。
ここに住む人たちの生活が、少しだけ守られた。
長老の支配から解放された契約が、正しく動き始める。
全部が正しくなったわけではない。
でも、一歩だけ、良い方へ動いた。
扉がノックされた。
「入っていいか」
エーヴァルトの声。
「どうぞ」
扉が開き、エーヴァルトが入ってきた。右腕の包帯は、今日も白い。
「夕食を持ってきた」
彼は言った。左手に、布で包まれた包みを持っている。「一人で食べるつもりだったんだろう」
「正直に言えば」
私は受け取った。「荷物の整理をしながら、忘れるところでした」
「お前は、食事を飛ばす」
エーヴァルトは短く言った。「悪い癖だ」
「知っています」
「それも、直せ」
私は布を解きながら、顔を上げた。
「なぜ、そんなことを知っているんですか」
「三十日、隣にいたから」
エーヴァルトは淡々と答えた。「だいたい分かる」
私は少し黙った。
三十日間。
この人は、私の隣にいた。
怒っている時も、疲れている時も、諦めかけた瞬間も。
ずっと、そこにいた。
「……エーヴァルト」
「何だ」
「ありがとうございます」
エーヴァルトが私を見た。
「今更か」
「今更です」
私は素直に言った。「でも、言いたくなりました」
エーヴァルトは少し黙り、窓の外を見た。
その横顔が、灯りを受けて柔らかく見える。
「礼はいい」
彼は言った。「その分、正式な答えを持って帰ってこい」
「しつこいですね」
「お前の答えを待つと言った」
エーヴァルトは私を向いた。「それは本気だ」
その目は、真っ直ぐだ。
揺れない。
私は彼を見ていた。
胸の奥が、温かい。
「……分かりました」
私はゆっくり頷いた。「手早く片付けて、戻ります」
「ああ」
「待っていてください」
エーヴァルトは何も言わなかった。
ただ、頷いた。
その一つの動作が、何よりも確かな約束に見えた。
---
夜が深まる。
私は窓を閉め、部屋の灯りを落とす前に、もう一度机を見た。
空っぽの机。空っぽの部屋。
三十日間のことが、一枚一枚めくるように浮かぶ。
聖堂の書類。倉庫の罠。評議会の廊下。王との謁見。魔法院の原本保管庫。そして、長老の静かな声。
全部が、今の私を作った。
契約は、嘘をつかない。
だから私は――この人を、信じられる。
私は灯りを消した。
明日の朝、伯爵家へ帰る。
父に話す。全部、正直に。
そして、正式な答えを持って戻ってくる。
それが、私の次の仕事だ。
一番、手早く片付けなければならない仕事。
目を閉じると、月明かりの中のエーヴァルトの横顔が浮かんだ。
昨夜の、指と指が絡んだ温度。
早く、帰ってこよう。
三十日間で証拠を積み上げたのだ。
答えを一つ届けることくらい、難しくない。
難しくない、はずだ。
私はそう自分に言い聞かせながら、目を閉じた。




