第25話 私は、手早く片付ける
残り三日。
エーヴァルトは、眠っていた。
王宮の医務室。白い天井。石の壁。昨夜から変わらない光景。
私は彼の傍らに座り、その顔を見ていた。
包帯が右腕に巻かれている。
昨日の襲撃で、矢が貫いた傷。
庇われた。私を庇って、彼は傷を負った。
医術師は言った。「命に別状はありません。ただ、しばらくは剣を振れない」
しばらく。
だが、私には三日しかない。
私は握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。
手のひらに、エーヴァルトのハンカチが残っている。
端の小さな刺繍が、光を受けて白く光っていた。
(終わったら、答えを聞かせろ)
彼の言葉が、頭の中で繰り返される。
あの日、評議会の廊下で彼が言った言葉。
静かな声で、それでも目を離さずに言った言葉。
答えは、決まっていた。
ずっと、決まっていた。
だから私は、終わらせなければならない。
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「起きているか」
声がした。
低い、かすれた声。
私は顔を上げた。
エーヴァルトが目を開けていた。
「……目が覚めたんですか」
「ああ」
彼は天井を見たまま、動こうとして――眉をひそめた。
痛みで動けないのだと、すぐに分かる。
「動かないでください」
私は声を落とした。「医術師の指示です」
「何時間、寝ていた」
「半日ほどです」
エーヴァルトが長く息を吐いた。
「……残り、三日か」
「はい」
沈黙が落ちる。
私は彼の手の近くに、自分の手を置いた。触れるか触れないかの距離で。
「リディア」
「何ですか」
「どこへ行くつもりだ」
エーヴァルトの声は穏やかだが、目が鋭い。「お前の顔に、書いてある」
私は答えなかった。
正確に言えば、答えられなかった。
「……行くな」
エーヴァルトは静かに言った。「お前は、無茶をする」
「無茶じゃありません」
私はようやく口を開いた。「計画があります」
「俺がいない」
「分かってます」
「護衛がいない」
「王太子殿下が協力してくれます」
エーヴァルトの目が細くなる。
「……あの男を、信じるのか」
「完全には信じません」
私は答えた。「でも、使えます。あの方は、私に借りがある」
エーヴァルトが黙る。
長い沈黙。
「……戻ってこい」
彼は最後に、それだけ言った。
「行きます」
私は立ち上がり、彼を見下ろした。「でも、必ず戻ります」
エーヴァルトの目が揺れた。
そして彼は、傷をこらえながら腕を伸ばし、私の指先に触れた。
「……馬鹿のすることだ」
「知ってます」
私は小さく笑った。「でも、あなたが目を覚ましてくれたから、行けます」
「俺が眠ったままなら、行かなかったのか」
「……行っていたと思います」
私は正直に答えた。「でも、もっと怖かった」
エーヴァルトの指が、私の指を弱く握った。
その力は、いつもの半分もない。
それだけで、私の胸は痛かった。
「終わらせて来い」
彼は言った。「早く」
「はい」
私は頷いた。「手早く片付けます」
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廊下に出ると、王太子が待っていた。
以前の、傲慢な王太子ではない。
顔色は悪く、目の下に影がある。昨夜の戦闘の一報を受けてから、彼も眠れていないのだろう。
「……来てくれたんですか」
「当然だ」
王太子は私を見た。「俺にできることがあれば、何でも言え」
「ありがとうございます」
私は深く一礼した。「では、すぐに動きましょう」
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評議会への緊急招集には、評議員の三分の一以上の署名が必要だった。
私には、もともと評議員の信頼がない。
だが王太子には、ある。
借りを持つ貴族も、恐れる貴族も、彼の声には耳を傾ける。
「ここを、先に回ります」
私は評議員の名簿を広げ、名前に印をつけた。「この六名は、以前から長老の動きに疑問を持っていたはずです。契約記録で確認しました」
「どうして分かる」
「三年前、魔法院の予算を見直す提案を出して、却下されています。その後、議会での発言が急に減った」
王太子が眉をひそめる。
「……口封じされたのか」
「おそらく。でも今は、証拠があります。あの方々なら、動いてくれます」
王太子は名簿を見つめ、静かに言った。
「分かった。俺が直接、説得する」
私は頷いた。
この人には、今は信じてもいい、と思っていた。
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午前中いっぱいをかけて、七名の評議員の署名を集めた。
全員、最初は渋った。
長老の名前を出せば、皆、顔色が変わる。
だが証拠の写しを見せると、一人また一人と、ペンを取った。
「……これが、本当なら」
老齢の評議員が、羊皮紙を見て呟いた。「二十年も、騙されていたということか」
「はい」
私は静かに言った。「でも、あなた方は最初から疑っていた。三年前の提案が、それを証明しています」
評議員が私を見た。その目に、後悔と、怒りと、そして何か決意のようなものが混じっている。
「……若い娘が、よくここまでやった」
「やらなければならなかったので」
「騎士団長は?」
「療養中です」
評議員が短く頷き、署名した。
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昼過ぎ、私は王の執務室に向かった。
証拠の筒を抱えて。署名の集まった請願書を持って。
王は、話を聞き終えてから、しばらく窓の外を眺めていた。
「……アルノーを評議会に引き出す、か」
「はい。令状があれば、強制召喚できます」
「魔法院は独立機関だ。そこに王命を使うことへの反発が――」
「長老が二十年前に書き換えた協定の原本があります」
私は原本の写しを机に置いた。「この改竄により、魔法院は王家の監督から外れました。ですが、この改竄自体が無効であれば――魔法院は今も、王家の監督下にあります」
王が写しを見る。
長い沈黙。
「……確かなのか」
「私が読み取りました。改竄前の記録の痕跡が残っています。専門の鑑定人に依頼すれば、証明できます」
王は目を閉じた。
何かを、心の中で決断しているのだと分かった。
「……分かった」
王は目を開き、羽ペンを取った。「令状を出す」
「ありがとうございます」
「だが、条件がある」
王は私を見た。「評議会での対決は、正式な場で行え。証拠は全て提示し、アルノーにも反論の機会を与える。それが、この国の手続きだ」
「もちろんです」
私は頷いた。「証拠で勝ちます。それ以外の方法は、取りません」
王が小さく笑った。
「お前は、本当に監査官だな」
「はい」
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夕方、私は最後の作業に入った。
保管庫から持ち出した証拠に加え、今日一日で追加の証拠を集めていた。
評議員の証言。
長老の使者が評議会に送った根回し文書の写し(王太子の伝手で手に入れた)。
そして――ギルベルトの独房訪問。
ギルベルトは最初、黙っていた。
だが私が原本の写しを見せると、彼の顔が変わった。
「……知っていたか? 長老が、お前の動きを全て把握していたことを」
「……何」
「あなたが不正をしやすいように、魔法院が動線を作っていた。聖女への資金援助、王太子府との仲介――全部、長老が糸を引いていた」
ギルベルトが黙り込む。
その目に、初めて本物の怒りが浮かんだ。
「……俺は、駒だったのか」
「はい。でも、駒だったことを証言すれば、あなたへの判決は軽くなる可能性があります」
長い沈黙の後、ギルベルトは口を開いた。
「……証言する。何が必要だ」
私は誓約書を取り出した。
「この契約に署名してください。虚偽なく証言する、という誓い契約です」
ギルベルトは一息ついて、ペンを取った。
(契約魔法を偽ってきた男が、契約魔法に縛られる。これが、正当な使い道というものだ)
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夜、私は医務室に戻った。
エーヴァルトは目を覚ましていた。
枕に頭を乗せたまま、扉が開くのを待っていたように、すぐに私を見た。
「終わったか」
「評議会の招集はできました」
私は椅子に腰を下ろした。「明日、長老を呼び出します」
「証拠は揃ったのか」
「十分です」
私は証拠の束を見た。「改竄原本。評議員の証言。ギルベルトの誓約証言。そして私の監査記録」
エーヴァルトが息を吐いた。
安堵か、疲労か、その両方か。
「……無茶をしなかったか」
「しませんでした。ほとんど」
「ほとんど?」
「ギルベルトの独房に、あなた抜きで行きました」
エーヴァルトが眉をひそめる。
「でも護衛付きでしたし、鍵もかかっていましたし、問題はありませんでした」
私は続けた。「彼はもう、戦う気力がありませんでしたから」
「……次からは事前に言え」
「次があれば」
エーヴァルトが私を見た。
その目が、何かを聞こうとして、止まる。
「……傷は、痛みましたか」
私は先に聞いた。
「医術師が来た」
「そうじゃなくて」
「……痛む」
エーヴァルトは素直に言った。「お前が出ていった後、少し」
私の胸が、じんとした。
この人が「痛む」と言うのは、よほどのことだ。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
エーヴァルトは即答した。「お前がやるべきことを、やっただけだ」
「でも」
「俺も」
エーヴァルトが続けた。「俺も、守るべきことを守っただけだ」
沈黙が落ちた。
穏やかな、温かい沈黙。
私は少しだけ迷って、彼の手に触れた。
傷のない左手。いつも剣を握る手。
エーヴァルトは何も言わなかった。
ただ、私の手を、弱く握り返した。
「……あと二日だ」
彼は静かに言った。
「はい」
「俺も、できるだけ早く動けるようにする」
「無理しないでください」
「お前には言われたくない」
私は苦笑した。
エーヴァルトの口元が、わずかに動く。
「終わったら――」
彼は言いかけて、止めた。
「終わったら、ゆっくり話しましょう」
私が先に言うと、エーヴァルトが私を見た。
「……知ってるのか」
「何を聞くつもりだったか?」
「ああ」
「だいたい」
私は彼の手を握りしめた。「だから、終わらせます。手早く」
エーヴァルトが小さく笑った。
本物の、柔らかい笑み。
「……頼む」
彼は言った。「生きて戻れ」
「戻ります」
私は頷いた。「契約します。必ず、あなたのところに戻ると」
エーヴァルトの目が、揺れた。
そして、静かに言った。
「……契約には、対価が要る」
「知ってます」
「お前は何を払う」
私は一息置いて、答えた。
「答えを」
エーヴァルトが黙る。
長い、長い沈黙。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……待つ」
彼は言った。「終わるまで」
私は頷いた。
言葉はもういらなかった。
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夜の医務室は静かだった。
私はしばらく、エーヴァルトの寝顔を見ていた。
目を閉じると、顔の線が少しだけ柔らかくなる。
普段の、氷のような鋭さが取れて――ただの、一人の人間に見える。
(この人は、ずっと私の隣にいた)
断罪の日から。
墓場の部署から。
暗殺の矢から。
倉庫の催涙魔法から。
長老の部下の矢から。
全部、この人が傍にいた。
(終わったら、ちゃんと言う)
私は立ち上がり、静かに部屋を出た。
廊下の窓から、夜空が見える。
残り二日。
アルノー・ヴェルデは、明日、評議会に呼び出される。
証拠は揃っている。証言もある。
後は、対決するだけだ。
私は窓の外の星を見た。
細い月。深い夜。
(手早く片付ける)
それが、私のやり方だ。
それが、私にできる最善だ。
そして――全部終わった後、私は答えを持って戻る。
契約は、嘘をつかない。
だから私の誓いも、嘘をつかない。




