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第24話 氷の騎士団長、倒れる

 翌朝、私の目は乾いていた。


 昨夜、長老との対峙から戻って以来、ほとんど眠れなかった。

 昨日の聴取会で長老は証言を約束したが、正式な断罪には評議会全体の承認が要る。

 証拠の筒は手元にある。王への報告も済ませた。評議会の緊急招集を求める書状も、すでに宰相府へ届けてある。

 それでも――眠れなかった。


 エーヴァルトの声が、頭の中で繰り返されている。


(終わったら、答えを聞かせろ)


 あの言葉を、私はまだ処理できていない。

 処理する余裕がない、というほうが正確だ。


 残り四日。

 長老を断罪するには、まだ足りない。改竄の物証はある。だが、評議会を動かすには――政治が要る。


 私は窓の外を見た。

 王都の朝。石畳に馬の蹄音。遠くで鐘が鳴っている。


 扉がノックされた。

「入っていいか」


 エーヴァルトの声。

「どうぞ」


 扉が開き、エーヴァルトが入ってきた。今日も黒銀の制服。眠っていなさそうな顔。だが、そのことについては何も言わない。


「王太子府から使者が来た」

 彼は言った。「評議会の緊急招集に賛同するらしい。今日の午後、王太子が直接評議会へ動く」


「早いですね」

「昨夜のうちに動いたんだろう。――王太子は本気だ」


 私は頷いた。

 王太子は、ギルベルト断罪の一件以来、協力者として動いてくれている。かつての敵が、今は味方だ。人は変わる。


「では、私も準備します」

 私は立ち上がった。「評議会で証拠を提示するための書面を作らないと。改竄前後の差異を、言葉で説明できるように――」


「待て」


 エーヴァルトが私の腕を掴んだ。


「何ですか」

「魔法院から、昨夜のうちに院生が複数名出た。行き先は不明」


 私の動きが止まった。


「……刺客ですか」

「分からない。だが、油断するな」


 エーヴァルトは私を見た。

 その目に、昨夜とは違う緊張がある。


「評議会へ行く前に、証拠の写しを別の場所に預けたい。本物が奪われても、別の経路で提出できるように」


「賢い判断です」

「お前が考えることだ」

「いいえ」


 私は彼を見上げた。

「あなたが考えてくれたんです。ありがとう」


 エーヴァルトが黙る。


「……早く動け」

 彼は短く言った。「時間がない」


 そうだ。感謝を口にしている場合ではない。

 私は机に向かい、証拠の写しを作り始めた。


---


 午前の王宮は慌ただしかった。


 評議会の緊急招集の知らせは、すでに貴族たちの間に広まっている。

 魔法院が標的になるかもしれない――そう囁かれているらしく、廊下で顔を合わせる貴族たちは、露骨に視線を逸らすか、あるいは値踏みするような目で私を見る。


「監査官殿」

 宰相府の書記官が近づいてきた。「評議会への出席、宰相から許可が下りました。ただし――」


「条件がありますね」

「はい。証拠の写しを、事前に宰相府へも提出するよう」


 私は少し考えた。

 宰相府も、情報を先に握りたい。これは警戒のサインでもあるが、協力のサインでもある。


「分かりました」

 私は写しの一部を書記官に渡した。「ただし、これは概要のみです。詳細は評議会の場で提示します」


 書記官が頷き、去っていく。


 エーヴァルトが私の隣で低く言った。

「宰相府が動いた」

「ええ」

「敵か、味方か」

「まだ分かりません」


 私は廊下を歩き出した。

「でも、評議会に出席させてくれるなら、今は味方として扱います」


---


 正門を出たのは、昼前だった。


 評議会は王宮の別棟にある。正門から馬車で五分。だが今日は馬車ではなく、歩いて向かうことにした。

 証拠の写しを複数名に渡してある。写しの一部は王太子府へ、一部は宰相府へ、そして王直属の書記官にも。

 本物は、私が持つ。


 石畳の広場を横切るとき、私は立ち止まった。


 【契約監査】が、反応している。


 糸が見える。

 広場の東側、噴水の陰に三本の糸。同一の雇用者に繋がる、短い契約糸。

 使い捨ての暗殺契約だ。


「エーヴァルト」

 私は静かに言った。「東側。三人います」


 エーヴァルトの体が、すでに動いていた。

 剣の柄に手をかけ、私の一歩前に出る。


「分かった。走るな」

「走りません」


「護衛の二人に合図する」

「はい」


 エーヴァルトが後ろの近衛二名に目配せした。


 次の瞬間、東側から人影が飛び出した。

 黒装束。覆面。手に短剣。


 エーヴァルトが前に出る。


 剣が閃く。

 一撃目で黒装束の短剣を弾き、二撃目で体勢を崩す。三撃目は峰で押さえつける。

 一人、地に伏した。


 後ろの近衛が二人目と組み合っている。


 だが――


 私は糸を読んでいた。

 四本目の糸が、上から来る。


「上!」


 私が叫んだとき、エーヴァルトはすでに動いていた。

 私の体を横へ突き飛ばし――


 鈍い音がした。


 私は石畳に転がりながら、振り返った。


 エーヴァルトが、立っている。

 右腕を押さえている。


 赤い。


「エーヴァルト――」


 屋根の上から飛び降りてきた黒装束が、弓を持っていた。距離が近すぎて剣が間に合わなかった。矢は私ではなく、エーヴァルトの右腕を貫いていた。


 庇ったのだ。私を。


「大丈夫だ」

 エーヴァルトは言った。声は変わらない。冷静だ。だが顔色が違う。


「大丈夫じゃない――」

「左手がある」


 エーヴァルトは左手で剣を持ち替え、屋根の上の黒装束へ向かった。

 近衛の二人が追う。


 私は立ち上がり、駆け寄った。


「矢を抜かないでください」

「分かっている」


「どれくらい深い――」

「貫通している。骨は大丈夫だ」


 彼の声は落ち着いている。だが、右腕から血が滴っている。


「エーヴァルト」

 私の声が震えた。


 彼が私を見た。


「……大丈夫だ」

 もう一度、言った。


 私はその顔を見た。

 痛いはずだ。痛いのに、表情を崩さない。

 この人はいつも、そうだ。どんなときも、崩さない。


「私のせいで」

「違う」


「でも――」

「違う、と言った」


 エーヴァルトは私を見た。

 真剣な目。怒っているわけではない。ただ、真剣だ。


「お前を守るのが俺の仕事だ。怪我をするなら、俺がするべきだ」


「そんな言い方――」


「リディア」


 名前を呼ばれた。

 私の言葉が止まる。


「お前が傷つくより、俺が傷つくほうがいい。それだけだ」


 広場に沈黙が落ちた。


 近衛の二人が黒装束を全員拘束した。屋根の一人も捕まえたらしく、縛り上げて連れてきている。


 私は【契約監査】を起動し、黒装束たちの契約糸を確認した。

 胸の奥に、要点が流れ込む。


(暗殺契約あり、対価は金貨三十枚、期限は本日中、雇用者は――魔法院 署名あり)


「魔法院の直接依頼です」

 私は言った。「長老が動いた。評議会への出席を妨害するために」


 エーヴァルトが頷く。


 そのとき、馬蹄の音が近づいてきた。

 王宮の方角から、騎馬が三頭。


 先頭の騎士が叫ぶ。

「監査官殿! 無事ですか!」


 王の近衛だ。

 おそらく、正門で私たちが出たのを見ていたか、誰かが連絡したか。


「援軍が来ました」

 私は言った。「少し早い」


「早くはない」

 エーヴァルトが呟いた。「ちょうどいい」


 彼の右腕から、まだ血が流れている。


 私は近衛に声をかけた。

「すぐに治癒師を呼んでください。騎士団長が負傷しています」


「私は大丈夫だ」

 エーヴァルトが言った。


「大丈夫ではありません」


「評議会――」

「評議会は、あなたなしでも行けます。今は治癒が先です」


 エーヴァルトが私を見た。


「私を止めないでください、と言いたいですか」

 私は先手を打った。「言わないでください。今日だけは、あなたが先です」


 エーヴァルトが黙る。


 私は彼の傷を見た。

 矢が右腕を貫いている。早く抜いて、処置しなければ。


「……行くぞ」

 エーヴァルトは言った。「評議会へ」


「無理です」


「左手がある、と言った」


「言いましたけど――」


「リディア」


 また名前を呼んだ。


「俺は、お前の隣にいる」

 エーヴァルトは静かに言った。「評議会でも。今日も。どんな状況でも」


 その目は、真剣だった。

 昨夜の「終わったら、答えを聞かせろ」という言葉と、同じ目だ。


 私は息を吐いた。


「……治癒師を呼びます。処置してから、評議会へ行きます。それが条件です」


「……分かった」


 エーヴァルトが珍しく折れた。

 顔色が少し悪い。本当に痛いのだろう。それでも、顔には出さない。


 近衛が馬車を呼んだ。

 私たちは一時撤退することにした。


---


 王宮の治癒室は、静かだった。


 治癒師が矢を抜き、傷を塞ぐ。魔法と包帯を使った処置で、血は止まった。


「骨に異常はありません」

 治癒師が言った。「ただし、今日は腕を使わないでください。激しく動けば、傷が開く」


「分かった」

 エーヴァルトは淡々と頷いた。


「分かった、ではありません」

 私は言った。「今日は安静にしてください」


「評議会――」

「私が行きます。あなたはここにいてください」


 エーヴァルトが私を見た。


「一人で行くのか」


「近衛が四人います。それに王太子府からの護衛もある」

 私は続けた。「大丈夫です。今日の評議会は、戦いではなく手続きです。証拠を提示して、緊急調査を承認させるだけ」


「長老がまた動く可能性がある」


「可能性はあります。でも――」

 私はエーヴァルトを見た。「あなたが安全でいてくれる方が、私は落ち着いて動けます」


 エーヴァルトが黙った。


 治癒師が包帯を巻き終え、退室する。

 治癒室には私たちだけになった。


 エーヴァルトは包帯を巻いた右腕を見ている。


「……怖かったか」

 彼が言った。


「何ですか」


「俺が倒れる瞬間、怖かったか」


 私は少し驚いた。

 エーヴァルトが、感情の話をするのは珍しい。


「……怖かったです」

 私は正直に言った。「とても」


「そうか」


「叫んでしまいました。みっともなく」


「みっともなくない」

 エーヴァルトは言った。「お前が叫ぶのを、初めて聞いた」


「……そうですね」


 私はいつも叫ばない。泣かない。感情で騒がない。

 でも、あの瞬間だけは声が出た。

 止められなかった。


(死なないで、と、心の中だけではなく口に出た)


 私は視線を落とした。


「エーヴァルト」

「何だ」


「……答えを」

 私は言いかけて、止めた。


 今は、まだ。

 全て終わってから、と決めたはずだ。


「今日は安静にしていてください」

 私は言い直した。「評議会から戻ったら、報告します」


 エーヴァルトが私を見た。

 何かを察したような目。だが、追及しない。


「……行ってこい」

 彼は静かに言った。「無事で帰れ」


「はい」


 私は立ち上がり、扉へ向かった。


 扉の前で、少しだけ振り返った。


 エーヴァルトは椅子に座ったまま、私を見ている。

 包帯を巻いた右腕。疲れた顔。だが、目は落ち着いている。


 この人が倒れる場面を、私はもう見たくない。

 そのために――早く、終わらせなければ。


(残り四日)


「行ってきます」

 私は言った。


 エーヴァルトが、静かに頷いた。


---


 評議会の廊下は、冷たかった。


 王太子はすでに到着していた。宰相府の評議員たちも席に着いている。

 長老の姿はない。魔法院からの代理人が、隅に座っている。


 私は証拠の筒を抱え、正面の席に立った。


「監査官リディア・アルベール。発言の許可を求めます」


 評議会の議長が頷く。


「本日、魔法院が雇用した暗殺者に襲撃されました」

 私は静かに言った。「証人として、拘束した実行犯がいます。彼らの契約糸は、魔法院の直接依頼を示しています」


 廊下が静まり返る。


「また、こちらに原本保管庫から保全した証拠があります」

 私は筒を掲げた。「七件の改竄契約と、王家協定の改竄原本です。改竄前の記録の痕跡は、私が読み取りました。評議会の承認があれば、鑑定人による確認も可能です」


 魔法院の代理人が立ち上がった。

「それは正当な手続きによる証拠ですか。無断で保管庫から持ち出した――」


「王命の令状があります」

 私は静かに遮った。「証拠として保全したことも、すでに王に報告しています」


 議長が確認する。

「王からの書状を見せなさい」


 私は準備していた書状を提出した。


 議長が読む。評議員が確認する。


 長い沈黙の後、議長が言った。

「緊急調査の動議を採決します」


---


 評議会の帰り道、馬車の中で私は息を吐いた。


 動議は可決された。

 魔法院への正式調査が、明日から開始される。長老アルノー・ヴェルデの身柄は、評議会の決定が出るまで魔法院内で拘束する。


 残り四日で、これができた。


 私は窓の外を見た。

 夕暮れの王都。石畳に橙色の光が落ちている。


 エーヴァルトのことを思った。


 彼は今、治癒室で待っている。

 あの人が待っている。


(お前が傷つくより、俺が傷つくほうがいい)


 その言葉は、仕事の言葉ではない。

 護衛の論理でもない。


 私にはもう、分かっている。


 でも、全てが終わるまでは言えない。

 言ってしまったら――前に進めなくなる気がして。


(答えを、聞かせろ)


 私は窓の外を見続けた。


 夕暮れが、深くなっていく。


---


 治癒室の扉を開けると、エーヴァルトは椅子に座ったまま目を閉じていた。


 眠っているのかと思って足を止めると、彼の目が開いた。


「戻ったか」


「はい」

 私は彼の隣に座った。「動議が通りました。明日から正式調査が始まります」


「……そうか」


「長老の身柄は、魔法院内で拘束されます」


 エーヴァルトが頷く。


「腕は?」

 私は聞いた。


「問題ない」


「本当ですか」


「治癒師が言った通りだ。骨は大丈夫だ」


 私は包帯を見た。

 血は滲んでいない。処置は上手くいっている。


「……明日、動けますか」


「動く」


「治癒師は安静にと言いました」


「俺が決める」


 私は小さく笑った。


「なぜ笑う」

「あなたが頑固なのが、少し安心しました」


 エーヴァルトが私を見た。


「頑固なら、死なないと思いまして」


 エーヴァルトの口元が、わずかに動いた。

 笑ったのか、笑わなかったのか。


「……死なない」

 彼は静かに言った。「死ぬ前に、やることがある」


「やることとは」


 エーヴァルトが私を見た。

 真剣な目。昨夜の、求愛の目。


「分かっているだろう」


「……はい」

 私は視線を落とした。「分かっています」


「急がない」

 エーヴァルトは言った。「終わってから聞く」


「はい」


「だが――」

 彼は続けた。「今日、俺が倒れたとき。お前が叫んだ」


「……はい」


「それだけで、十分だ」


 私は顔を上げた。


 エーヴァルトは窓の外を見ている。夕暮れの光が、横顔に当たっている。


「俺はお前のそばにいる」

 彼は静かに言った。「残り四日も。その後も。お前が許す限り」


 私の胸が、どくんと跳ねた。


「……許します」

 私は言った。


 エーヴァルトが私を見た。


「全部終わってから、もう一度言ってください」

 私は続けた。「今は――その言葉を、大事に持っていきます」


 エーヴァルトが黙る。

 そして、右腕ではなく左手を伸ばし、私の手を取った。


 包帯を巻いていない、左手。


「……怪我をするな」

 彼は言った。「明日も、その先も」


「あなたもです」


 エーヴァルトが、静かに頷いた。


 窓の外で、鐘が鳴った。

 夜が始まる音。


 残り四日。

 長老を断罪するまで、あと少し。


 そして――その先に、答えがある。

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