第23話 契約監査vs契約改竄
「監査官リディア・アルベール。あなたが持ち出した資料は、魔法院の管轄物であり、王命の令状によってもその保全権は魔法院に帰属する――」
評議会の書記官が読み上げる声は、抑揚がなかった。
私はその声を聞きながら、机の上に置かれた書類を見ていた。
魔法院が提出した「証拠無効申立書」。
昨夜のうちに、評議会全員に送り届けられていた。
「……速い」
私は呟いた。
隣でエーヴァルトが低く言う。
「準備していたのだろう。我々が保管庫に入った時点で」
「ええ」
私は頷いた。「長老は、私たちが証拠を持ち出すことを計算していた」
評議会の議場は、重苦しい空気に満ちていた。
議員たちは一様に難しい顔をしている。
改竄の証拠を突きつけられる側と、法的な手続きの瑕疵を楯にする側。
どちらに傾くかは――まだ見えない。
宰相が咳払いをした。
「監査官。申立書の内容を認めるか」
「認めません」
私は即答した。「原本の改竄は、私が直接読み取りました。証拠として有効です」
「しかし、魔法院の見解では――」
「魔法院の見解より、原本に残った歪みのほうが正確です」
私は一歩前へ出た。「証拠を無効にしたいなら、まず長老に原本の改竄がなかったことを証明させてください。私は逆に証明してみせます」
議場がざわめく。
宰相が眉をひそめる。
「それは――」
「長老を、ここに呼んでください」
私は静かに、しかし明確に言った。「直接、やりとりをします」
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しばらく待った後、アルノー・ヴェルデが議場に入ってきた。
穏やかな老人の顔だった。
昨日、保管庫で対峙した時と同じ、疲れを知った目。
だがその目の奥に、揺れるものがある。
「監査官殿」
アルノーは私の前に立った。「昨夜はご無理をさせてしまいましたね」
「いいえ」
私は彼を見た。「長老こそ、ずいぶんお急ぎでしたね。昨夜のうちに申立書をお出しになったとは」
アルノーは微かに笑った。
「証拠を守るのも、私の責務ですから」
「証拠を守る、ではなく――証拠を消す、ではないですか」
議場の空気が、張りつめた。
アルノーは笑みを崩さなかった。
「監査官殿。あなたは改竄とおっしゃいますが、私が行ったのは契約の"補正"です」
「補正?」
私は眉をひそめた。
「原本の記録は、時に齟齬が生じます」
アルノーは静かに言った。「管理者として、それを正す権限が私にはある。魔法院の設立契約に、明記されています」
私は【契約監査】を微かに起動した。
アルノーの言葉の糸を読む。
嘘ではない。
確かに、「補正権限」の条項は存在する。
(……ただし)
「長老」
私は言った。「その補正権限は、誤記や記録の劣化に対するものですね」
「その通りです」
アルノーが頷く。
「では、聖油調達契約の対価欄を変えたのは、何の誤記に対する補正ですか」
アルノーが、ほんの一瞬、黙った。
「原本には元々の記録が残っています」
私は続けた。「補正が必要な誤記があったなら、補正前の記録と補正後の記録を両方残すはずです。しかし長老が行ったのは、元の記録を消すことでした」
「劣化により、元の記録が読めなくなっていたため――」
「嘘です」
私は静かに言った。「私には読めます。消されたはずの痕跡が、まだそこに残っている」
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アルノーの目が細くなった。
「……そうですか」
その声から、穏やかさが消えた。「では、実際に読んでみていただきましょうか」
アルノーが袖から一枚の羊皮紙を取り出した。
私が昨日持ち出した原本のひとつではなく――別の契約書だった。
「これは先ほど保管庫から持参しました。正式な手続きで」
アルノーは羊皮紙を私の前に置いた。「この契約書に、私が補正を加えます。それを読んでいただきましょう」
議場がざわめく。
「公開の場で、監査能力の実演を求める気ですか」
エーヴァルトが私の隣で低く言った。警戒の声だ。
「……構いません」
私は一歩前へ出た。「やってみせます」
アルノーは羊皮紙を手に取った。
その指が、静かに動く。
私には見えた。
契約の糸が、細く、鋭く動く様子が。
老人の指先から、わずかな魔力が滲み出している。
(改竄だ。今、やっている)
私は全力で【契約監査】を起動した。
胸の奥に、要点が流れ込む。
(元の記録:神殿への奉仕契約、対価は金貨十枚、期間は一年)
糸が揺れる。
ぐにゃりと、歪む。
(書き換え後:……読めない)
私は眉をひそめた。
珍しい感覚だ。
歪みは感じるのに、書き換え後の内容が掴めない。
「どうですか、監査官殿」
アルノーが羊皮紙を差し出した。「読めますか」
私は羊皮紙を受け取った。
契約の糸を、全力で辿る。
元の記録は見える。
だが、上書きされた記録が――霧の中にあるように、輪郭が掴めない。
「……何をしましたか」
私は顔を上げた。
「多重補正をかけました」
アルノーは静かに言った。「一つの箇所に、十層の補正を重ねる。読むためには、十層全てを逆順に解かなければなりません」
なるほど。
これが、長老の「改竄」だ。
消すのではなく、積み重ねる。
膨大な補正の層で、元の記録を見えなくする。
「読めませんでした、と言いますか」
アルノーの声に、初めてわずかな優しさが滲んだ。「若い能力には、限界があります。それは恥ずかしいことではない」
議員たちが囁き合う。
監査官が読めなかった、という空気が広がっている。
私は羊皮紙を見つめた。
十層の補正。
全部逆から辿る。
(できる。時間がかかるだけで、できないわけじゃない)
私は目を閉じた。
【契約監査】を、これまでで最も深く起動する。
糸を一本ずつ辿る。
一番外側の補正を感じる。それを読んで、次の層へ。
また読む。また次へ。
頭の中が熱くなる。
こんなに深く潜ったことはない。
(七層目。八層目。九層目――)
背後でエーヴァルトの気配が変わったのが分かった。
私が限界に近づいているのを、感じているのだろう。
でも、もう一層だけ。
(十層目)
胸の奥に、最後の要点が流れ込んだ。
「神殿への奉仕契約。対価は金貨十枚。期間は一年」
私は目を開けた。「元の記録、読めました」
議場が、静まりかえった。
アルノーが、初めて表情を崩した。
「……読んだのですか。十層を」
「読めました」
私は羊皮紙を机に戻した。「時間はかかりましたが」
アルノーが長く息を吐いた。
「そうですか」
その声は、静かだった。怒りではなく――何か、別の感情が滲んでいる。
「では、昨日の原本についても、同様に読めると」
「読んでみせます」
私は頷いた。「評議会の前で。全件」
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議場に、また重い空気が満ちた。
アルノーはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「監査官殿。少し、お時間をいただけますか」
「時間ですか」
「二時間だけ」
アルノーの目が、私を見た。「あなたと、二人で話をしたい」
エーヴァルトが即座に言った。
「断る。監査官を単独で渡す理由はない」
「騎士団長殿も、ご一緒で構いません」
アルノーは静かに言った。「ただ、私にも――言わなければならないことがある」
私はエーヴァルトを見た。
彼は短く頷く。
「分かりました」
私は言った。「二時間、お時間をいただきます」
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評議会の小部屋は狭かった。
長机を挟んで、アルノーと私が向かい合う。
エーヴァルトは扉の近くに立っていた。
アルノーが、手を組んだ。
「監査官殿。あなたは正しい」
私は驚いた。
「改竄は、私が行いました。ギルベルトに資金を回したのも、聖女の不正を黙認したのも、全て事実です」
アルノーは続けた。「否定しません」
「では、なぜ申立書を――」
「時間を稼ぎたかった」
アルノーは静かに言った。「それだけです」
「何のために」
アルノーは窓の外を見た。
「魔法院が解体されれば、次の契約戦争が来る。それだけは、阻止しなければならない」
「魔法院は解体しません」
私は言った。「私が求めているのは、長老の不正の断罪です。魔法院の存在を否定しているわけではない」
アルノーが私を見た。
「長老がいなくなれば、魔法院は機能しますか」
私は続けた。「後継者はいます。改竄のない、正しい管理者が。それで十分ではないですか」
アルノーが長く黙った。
「……あなたは、私を殺すつもりはないのですか」
「断罪を求めます。ただし、死刑ではなく」
私は真っ直ぐ彼を見た。「長老には、生きて証言していただく必要があります」
アルノーは、何かを考えるように目を閉じた。
長い沈黙。
そして、静かに言った。
「……分かりました」
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小部屋を出ると、廊下は静かだった。
評議員たちは別室で待っている。
私は壁に手をついた。
少し、足が震えていた。
「リディア」
エーヴァルトが、いつもより柔らかい声で言った。
「大丈夫です」
私は顔を上げた。「少しだけ、限界まで使いました。十層の読み取りは――さすがに」
エーヴァルトが、私の肩を掴む。
その手が、温かい。
「無理をするな」
「でも、やらなければ向こうに逃げ場を与えてしまいます」
「分かっている」
エーヴァルトは静かに言った。「だから俺は止めなかった。だが」
彼の目が私を見る。
いつもの冷静な目だが――その奥に、何かがある。
「終わったら、答えを聞かせろ」
「……答えを」
「俺の言っていることが分かるだろう」
エーヴァルトは短く言った。「今は言わない。邪魔になる」
私は彼を見上げた。
騎士団長の、いつも通りの無表情。
でも耳が、わずかに赤い。
「……はい」
私はゆっくり頷いた。「全部片付けたら、答えます」
エーヴァルトが頷く。
それから前を向いた。
「行くぞ」
「はい」
廊下の先で、評議会が待っている。
長老が証言を決意した。
だが、まだ終わっていない。
残り五日。
全ての不正を、証拠ごと裁判に持ち込む。
私は歩き出した。
エーヴァルトの言葉を、胸の奥にそっとしまいながら。




