第21話 長老の"正しさ"という名の檻
残り七日。
私は王宮の書庫にいた。
王から令状を受け取った翌朝。原本保管庫に潜入する前に、もう一つ調べておきたいことがあった。
アルノー・ヴェルデ。
魔法院の長老。契約の原本を握る男。
彼は昨日、「五十年以上、この魔法院で」と言った。
五十年。それだけの時間をかけて、彼は何を築いてきたのか。
「……見つけた」
私は古い記録を引き出した。
魔法院の設立に関する公文書。
百年以上前の、黄ばんだ紙。
そこに、「ヴェルデ家」の名前があった。
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エーヴァルトが書庫に入ってきた。
「何を調べている」
「長老の過去です」
私は記録を広げた。「ヴェルデ家は、魔法院の創設に関わった一族のようです」
エーヴァルトが私の隣に立ち、記録を覗き込む。
「魔法院は、百二十年前に設立された」
私は読み上げた。「契約魔法の乱用を防ぐため、王家と貴族院の合意で作られた機関」
「乱用?」
「この国には、かつて『契約戦争』と呼ばれる時代があったそうです」
私は別の記録を指差した。「貴族同士が契約魔法を使って、互いを縛り合い、陥れ合った」
エーヴァルトの目が細くなる。
「聞いたことがある。だが、詳しくは知らない」
「私も、名前だけでした」
私は記録を読み続けた。「契約戦争の結果、多くの貴族家が滅び、民も巻き込まれて死んだ。それを終わらせるために――」
「魔法院が作られた」
「はい」
私は頷いた。「そして、その設立に中心的な役割を果たしたのが、ヴェルデ家」
記録には、こう書かれていた。
『契約魔法を正しく運用し、二度と悲劇を繰り返さないために。ヴェルデ家は、契約の番人としてこの責務を担う』
私は息を吐いた。
「……アルノーは、その末裔なんですね」
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さらに調べていくと、別の記録が見つかった。
四十年前の事件報告書。
「これは……」
私は目を見開いた。
『魔法院火災報告。死者三十七名。負傷者百二十名。原因:契約魔法の暴走』
エーヴァルトが眉をひそめる。
「火災?」
「四十年前、魔法院で大きな事故があったようです」
私は報告書を読んだ。「契約の実験中に、魔法が暴走した。多くの院生と教授が死んでいます」
報告書の末尾に、生存者の名前が並んでいた。
その中に――アルノー・ヴェルデの名前があった。
「アルノーは、この事故の生存者……」
私は呟いた。
さらに読み進めると、別の資料が出てきた。
事故後の魔法院再建に関する記録。
『再建責任者:アルノー・ヴェルデ。事故の原因となった契約魔法の運用規則を全面改定。より厳格な管理体制を確立』
私は記録を閉じた。
全ての断片が、繋がっていく。
「……分かった気がします」
私は呟いた。
「何がだ」
エーヴァルトが問う。
「アルノーが、なぜあそこまで『秩序』に執着するのか」
私は窓の外を見た。「彼は、契約魔法の恐ろしさを知っている。暴走すれば、人が死ぬことを」
「だから、管理しようとしている」
「はい」
私は振り返った。「彼にとって、契約魔法は『正しく運用しなければならないもの』。そのためなら、どんな手段も正当化される」
エーヴァルトが黙る。
「彼の言葉は、嘘じゃなかった」
私は続けた。「本当に、この国のためを思っている。契約戦争のような悲劇を、二度と起こさないために」
「だが、やり方が間違っている」
エーヴァルトの声が低い。
「……そうですね」
私は記録を手に取った。「でも――」
言葉が詰まる。
「でも?」
「……彼の言うことにも、一理あるんです」
私は正直に言った。
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私はエーヴァルトと共に、中庭を歩いていた。
書庫で見つけた記録が、頭から離れない。
「契約魔法は、確かに危険です」
私は呟いた。「聖女も、ギルベルトも、みんな契約を悪用した」
「そうだ」
「もし、誰かがしっかり管理していれば……」
私は足を止めた。「あの不正は、起きなかったかもしれない」
エーヴァルトが私を見る。
「……何を言いたい」
「分からなくなってきたんです」
私は彼を見上げた。「私がやっていることは、正しいのか」
エーヴァルトが眉をひそめる。
「アルノーは、契約魔法を『正しく運用』しようとしている」
私は続けた。「私は、それを止めようとしている。でも――」
「でも?」
「私が止めたら、どうなるんでしょう」
私の声が震える。「また、契約が悪用されるかもしれない。また、誰かが傷つくかもしれない」
私は拳を握りしめた。
「アルノーのやり方は間違っている。それは分かる」
私は言った。「でも、彼がいなくなったら、この国の契約魔法は誰が守るんですか」
エーヴァルトが黙る。
長い沈黙。
私は俯いた。
「……すみません。変なことを言いました」
「変じゃない」
エーヴァルトが言った。
私は顔を上げた。
「お前は、考えている」
エーヴァルトは私を真っ直ぐ見た。「自分の行動の結果を。それは、正しいことだ」
「でも――」
「聞け」
エーヴァルトが私の肩に手を置いた。「お前の迷いは、分かる。だが、一つ聞きたい」
「何ですか」
「アルノーのやり方で、お前は救われたか」
私は息を止めた。
「聖女に断罪された時、アルノーは何もしなかった」
エーヴァルトの声が低い。「ギルベルトが暴れた時も、見ていただけだ」
「それは……」
「『秩序のため』と言って、不正を放置した」
エーヴァルトは続けた。「お前を追放させた。ギルベルトを泳がせた。全て、『秩序』の名の下に」
私は何も言えなかった。
「アルノーの『正しさ』は、誰も救わない」
エーヴァルトは言った。「お前を救ったのは、お前自身だ」
私の目が、熱くなる。
「お前は、自分の力で不正を暴いた。証拠を集めて、正当な手続きで戦った」
エーヴァルトは私の目を見た。「それが、本当の正しさだ」
「……エーヴァルト」
「アルノーは、上から契約を管理しようとしている」
エーヴァルトは続けた。「だが、お前は違う。お前は、下から不正を暴いている」
私は彼を見上げた。
「どちらが正しいか、俺には分からない」
エーヴァルトは静かに言った。「だが、どちらが人を救えるかは、分かる」
「私の、やり方が……?」
「ああ」
エーヴァルトが頷く。「お前のやり方は、人を救う。聖女の被害者を。ギルベルトに利用された者を。そして――」
彼は言葉を切った。
「そして?」
「……俺も、だ」
私は息を呑んだ。
「俺は、お前に出会う前、何も見えていなかった」
エーヴァルトの声が、少しだけ震える。「ただ命令に従い、ただ護衛をしていた」
「エーヴァルト……」
「お前は、俺に見せてくれた」
彼は私を見つめた。「正しさとは何か。守るとは何か」
私の胸が、熱くなる。
「だから――」
エーヴァルトは私の肩を強く握った。「お前は、正しい」
その言葉が、私の中に染みていく。
迷いが、少しずつ溶けていく。
「……ありがとう」
私は小さく言った。
そして――気づいたら、涙が頬を伝っていた。
「……泣いてるぞ」
エーヴァルトが驚いたように言った。
「分かってます」
私は涙を拭った。「でも、止まらないんです」
エーヴァルトが黙る。
そして、彼の腕が私を包んだ。
「……今だけだ」
彼の声が、耳元で聞こえる。「今だけ、泣け」
私はエーヴァルトの胸に顔を埋めた。
彼の心臓の音が聞こえる。強く、確かに。
私は、ずっと一人で戦ってきた。
断罪されて、追放されて、それでも泣かなかった。
泣いている暇がなかったから。弱さを見せる余裕がなかったから。
でも今、この人の腕の中で――
初めて、弱くなれる気がした。
「……ごめんなさい」
私は彼の胸に顔を押し当てたまま言った。
「何がだ」
「こんな姿、見せたくなかった」
「俺は、見たかった」
エーヴァルトの腕が、少しだけ強くなる。「お前の、こういう顔」
私は顔を上げた。
エーヴァルトの目が、いつもより優しい。
「お前はいつも、強がっている」
彼は言った。「だから、たまには弱くなれ」
「……弱くなったら、潰されます」
「俺がいる」
エーヴァルトは即答した。「お前が弱い時は、俺が守る」
私の胸が、どくんと跳ねた。
「だから、遠慮するな」
エーヴァルトは私を見つめた。「俺に、頼れ」
私は彼を見上げた。
氷の騎士団長。寡黙で、冷徹で、無表情で。
でも今、この人の目は温かい。
「……分かりました」
私は小さく笑った。「頼ります」
エーヴァルトの腕が、ゆっくりと離れる。
だが、彼の手は私の手を握ったままだった。
「涙、拭け」
「はい」
私は袖で涙を拭った。
エーヴァルトがハンカチを差し出す。
「これ……」
「使え」
私はハンカチを受け取り、顔を拭いた。
清潔な、白いハンカチ。端に、小さな刺繍がある。
「……返します」
「いらない」
「でも……」
「いらない」
エーヴァルトは繰り返した。「持ってろ」
私はハンカチを握りしめた。
彼の優しさが、手のひらに伝わってくる。
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その夜、私は自室で潜入の準備をしていた。
明日、原本保管庫に入る。
アルノーの不正の証拠を掴む。
机の上に、エーヴァルトのハンカチがある。
私はそれを手に取り、小さく笑った。
(お前は、正しい)
彼の言葉が、胸の中で響いている。
迷いは消えていない。でも、前に進める。
私は窓の外を見た。
月が雲に隠れている。明日は、曇りだろう。
アルノーの『正しさ』は、人を檻に入れる。
私の『正しさ』は、人を檻から出す。
どちらが本当に正しいかは、分からない。
でも、私は自分の道を信じる。
(必ず、終わらせる)
私は静かに決意した。
そして、ハンカチを胸に当てた。
エーヴァルトの温もりが、まだ残っている気がした。
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翌朝。
私とエーヴァルトは、魔法院に向かった。
馬車の中で、私は見取り図を確認していた。
原本保管庫は、地下の最深部。入口は一つ。
「緊張しているか」
エーヴァルトが聞いた。
「……少しだけ」
私は正直に答えた。
「昨日と同じか」
「はい」
私は彼を見た。「でも、今日は違います」
「何が違う」
「あなたがいますから」
私は微笑んだ。
エーヴァルトが黙る。
そして、静かに言った。
「……当然だ」
馬車が止まった。
魔法院の門が、目の前に立ちはだかっている。
私は令状を握りしめた。
王の印。これがあれば、原本保管庫に入れる。
「行きましょう」
私は言った。
エーヴァルトが頷く。
私たちは馬車を降り、門へ向かった。
戦いの、始まりだ。




