第20話 魔法院への招待
魔法院からの招待状を開いてから、一夜が明けた。
残り八日。
私は窓の外を見ながら、今日の計画を整理していた。
魔法院。契約の原本を握る機関。
そして――真の黒幕がいる場所。
招待状には「本日正午、魔法院にてお待ちしております」とだけ書かれていた。
差出人の名はない。ただ「魔法院より」の一言。
「……罠だと分かっていて、行くのか」
エーヴァルトが後ろから言った。
「罠じゃないかもしれません」
私は振り返った。「向こうも、私を観察したいのかもしれない」
「どちらにせよ、危険だ」
エーヴァルトの声が低い。
「分かってます」
私は微笑んだ。「だから、あなたが一緒に来てくれるんでしょう?」
エーヴァルトが黙る。
そして、静かに言った。
「……当然だ」
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正午前、私たちは王宮を出た。
魔法院は王都の東端、古い街区の奥にある。
馬車で三十分ほどの距離だ。
馬車の中で、私は聖女から聞いた情報を思い返していた。
(白い髭の老人。穏やかな顔。だが、目だけは冷たい)
ギルベルトの言葉も、頭に浮かぶ。
(契約の原本を握っている。書き換えられる。私が出した証拠も、消される可能性がある)
私の胸の奥で、不安が渦巻く。
今まで戦ってきた相手とは、次元が違う。
エーヴァルトが私の手を取った。
「……震えてるぞ」
「緊張してるだけです」
私は即答した。
「嘘だ」
エーヴァルトの目が、私を見つめる。「怖いなら、言え」
私は息を吐いた。
「……少しだけ」
「少しだけ?」
「はい。少しだけ、怖いです」
エーヴァルトが私の手を強く握る。
「俺がいる」
「分かってます」
「だから、怖がるな」
彼の手は温かい。
その温もりが、私の不安を少しだけ溶かしてくれる。
「……ありがとう」
私は小さく言った。
エーヴァルトは何も答えず、ただ私の手を握り続けた。
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馬車が止まった。
窓の外に、古い石造りの建物が見えた。
魔法院。
王宮のような華やかさはない。重厚で、暗い。
まるで、秘密を押し込めた箱のようだ。
私たちは馬車を降り、正門へ向かった。
門番が私たちを見て、恭しく頭を下げる。
「監査官リディア・アルベール殿ですね。お待ちしておりました」
門が開き、私たちは中へ入った。
中庭は静かだった。
石畳の上を歩くと、靴音だけが響く。
周囲には誰もいない。不気味なほど静かだ。
案内役の男が現れた。
黒いローブを纏い、フードを深く被っている。
「こちらへ。長老がお待ちです」
私たちは案内役について、奥へ進んだ。
廊下は長く、壁には古い契約書が額に入れて飾られている。
私は【契約監査】を起動し、周囲の契約糸を読んだ。
糸が至る所に張り巡らされている。複雑で、濃密で、古い。
(……この建物全体が、契約で守られている)
そして、奥へ進むほど――糸が太くなる。
どこかに、膨大な契約の塊がある。
エーヴァルトが小声で言った。
「感じるか」
「はい」
私は頷いた。「この先に、何かある」
「何だ」
「分かりません。でも――大きい」
案内役が足を止めた。
大きな扉の前。
「こちらです。どうぞ」
扉が開き、私たちは中へ入った。
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部屋は書斎だった。
壁一面に書架が並び、古い書物が所狭しと並んでいる。
奥に大きな机があり、その向こうに――
老人が座っていた。
白い髭。穏やかな顔。
聖女が言った通りの人物。
だが、目が違う。
穏やかな表情の奥に、冷たい光が宿っている。
全てを見透かすような、深い冷たさ。
「よく来てくれた」
老人は微笑んだ。「監査官リディア・アルベール殿」
「招待、ありがとうございます」
私は一礼した。「長老様、でしょうか」
「そう呼ばれている」
老人は椅子から立ち上がった。「私の名は、アルノー・ヴェルデ。魔法院の長老だ」
アルノー。
私は名前を胸に刻んだ。
「お座りなさい」
アルノーは机の前の椅子を指した。「護衛の方も、どうぞ」
私とエーヴァルトは椅子に座った。
エーヴァルトは私の斜め後ろ、いつでも動ける位置だ。
「さて」
アルノーは再び座り、私を見た。「君のことは、よく聞いている」
「光栄です」
「聖女を断罪し、宰相補佐を落とした」
アルノーの声は穏やかだ。「短期間で、見事な働きだ」
「ありがとうございます」
私は淡々と答えた。
「特に興味深いのは――」
アルノーが身を乗り出す。「君の能力だ」
私は黙った。
「【契約監査】。契約の真実を読む力」
アルノーの目が光る。「珍しい能力だ。いや、極めて稀だ」
「……ご存知なんですね」
「当然だ」
アルノーは微笑んだ。「私は契約魔法の研究者だ。君のような能力は、文献にしか存在しなかった」
私は警戒を強めた。
この老人は、私の能力を知っている。そして――興味を持っている。
「長老様」
私は切り出した。「なぜ、私を招いたのですか」
「話がしたかった」
アルノーは肩をすくめた。「それだけだ」
「それだけ?」
「そうだ。君のような逸材と、一度話してみたかった」
私は老人を見つめた。
嘘の気配はない。だが――全てを語っているわけでもない。
「長老様」
私は続けた。「ギルベルトは、あなたの名前を出しました」
アルノーの笑みが、一瞬だけ止まった。
「『魔法院の長老が、契約の原本を握っている』と」
私は静かに言った。「それは、本当ですか」
長い沈黙。
アルノーは静かに笑った。
「……ギルベルトは、よく喋るね」
「答えてください」
「答える前に、一つ聞いていいかな」
アルノーが私を見た。「君は、契約魔法をどう思う?」
唐突な質問だった。
私は少し考えてから答えた。
「道具です。正しく使えば有用。悪用すれば害になる」
「正しく使う。悪用する」
アルノーが繰り返す。「では、何が"正しい"のかね?」
「契約者双方の同意。公正な対価。透明な条項」
私は即答した。
「素晴らしい」
アルノーは手を叩いた。「教科書通りの答えだ」
「お気に召しませんか」
「いや、気に入ったよ」
アルノーは立ち上がり、窓へ向かった。「だが――現実は違う」
彼は窓の外を見つめる。
「契約魔法は、この国の根幹だ。取引、婚姻、任命、誓約。全てが契約で成り立っている」
「はい」
「だが、契約は悪用される」
アルノーが振り返った。「君が暴いた通り。聖女も、ギルベルトも、王太子も――契約を歪めた」
私は黙った。
「なぜだと思う?」
アルノーが問う。
「……欲のため」
「それだけか?」
私は考えた。
「監視が足りないから。不正を見抜く仕組みがないから」
「その通り」
アルノーが頷く。「だから、私がいる」
私は息を呑んだ。
「魔法院は、契約の番人だ」
アルノーは静かに言った。「全ての契約を記録し、保管し、必要なら――正す」
「正す?」
私の声が鋭くなった。「それは、改竄と同じではありませんか」
アルノーが笑った。
穏やかな、だが冷たい笑み。
「改竄と呼ぶか、修正と呼ぶか。それは立場の問題だ」
「違います」
私は立ち上がった。「契約は、当事者の同意で成り立つもの。第三者が勝手に変えることは許されません」
「たとえ、その契約が悪用されていても?」
「それでも」
私はアルノーを真っ直ぐ見た。
「悪用を正すなら、正当な手続きで行うべきです。暴くのは監査官。裁くのは評議会。それが――正しい道です」
アルノーの目が、わずかに細くなった。
「……面白い」
彼は呟いた。「君は、本当に面白い」
「褒め言葉として受け取っていいですか」
「好きに受け取りなさい」
アルノーは机に戻り、座った。
「さて、質問に答えよう」
彼は言った。「ギルベルトの言った通り、私は契約の原本を管理している」
私の胸が、どくんと跳ねた。
「全ての契約は、写しが魔法院に送られる。そして私だけが、原本に触れる権限を持つ」
「では――」
私は言葉を選んだ。「ギルベルトの契約も、ここにあるのですか」
「ある」
アルノーは即答した。
「見せてください」
「それはできない」
アルノーは首を振った。「原本は、魔法院の最深部にある。許可なく立ち入ることはできない」
「では、許可をください」
「それも、できない」
アルノーは穏やかに言った。
「原本保管庫は、私以外の立ち入りを禁じている。たとえ王命があっても、だ」
私は拳を握りしめた。
この老人は、契約の全てを握っている。
そして――誰の手も届かない場所に隠している。
「長老様」
私は静かに言った。「ギルベルトは、あなたに利用されていたと言いました」
「利用?」
アルノーは首を傾げた。「彼が勝手に不正を働いただけだ」
「本当ですか」
「本当だ」
アルノーは微笑んだ。「私は、ただ見ていただけだ。そして――必要なら、正す準備をしていた」
「正す?」
「ギルベルトが暴走したら、私が止める」
アルノーの声が冷たくなる。「それが、契約の番人の役目だ」
私はアルノーを見つめた。
この老人は、嘘をついていない。
だが――真実の全てを語ってもいない。
「長老様」
私は最後の質問をした。「あなたは、何を望んでいるのですか」
アルノーが私を見た。
長い沈黙。
そして、彼は静かに言った。
「秩序だ」
「秩序?」
「この国を、契約で正しく運営する」
アルノーの目が、冷たく光る。「王も、貴族も、民も。全てが契約を守る世界」
「それは――」
私の背筋が凍った。「支配と、何が違うのですか」
「支配ではない」
アルノーは首を振った。「保護だ」
彼は立ち上がり、私に近づいた。
「契約魔法を正しく運用すれば、不正は消える。争いは減る。この国は、平和になる」
「でも――」
「私は、そのために全てを捧げてきた」
アルノーの声が、静かに響く。「五十年以上、この魔法院で」
私は老人を見上げた。
彼の目には、狂信的な光がある。
正しさを信じすぎた者の、歪んだ光。
「長老様」
私は一歩下がった。「あなたの理想は分かりました。でも――」
「でも?」
「私には、同意できません」
私は真っ直ぐ言った。「契約は、人を縛る道具じゃない。人を守る約束です」
アルノーが黙った。
「あなたの"秩序"は、人を檻に入れるだけです」
私は続けた。「それは、私が戦ってきたものと同じです」
アルノーの目が、わずかに揺れた。
そして――彼は笑った。
「……素晴らしい」
彼は呟いた。「君は、本当に素晴らしい」
「褒めても、何も出ません」
「褒めてるのではない」
アルノーは背を向けた。「ただ、惜しいと思っている」
「惜しい?」
「君のような人間が、私の側にいれば――」
アルノーは窓の外を見た。「この国は、もっと早く変われた」
「お断りします」
私は即答した。
アルノーが振り返り、微笑んだ。
「だろうね」
彼は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「これを渡しておこう」
「何ですか」
「魔法院の見取り図だ」
アルノーは紙を私に差し出した。「君は、いずれこの建物を調べに来るだろう」
私は驚いて、紙を受け取った。
「……なぜ」
「言っただろう。君に興味がある」
アルノーの目が、冷たく光る。「君がどこまでやれるか、見てみたい」
私は見取り図を見た。
魔法院の構造が、詳細に描かれている。
そして――「原本保管庫」と書かれた場所が、地下の最深部にあった。
「原本保管庫には、私の許可なく入れない」
アルノーが言った。「だが――許可を得る方法はある」
「どんな方法ですか」
「王の令状だ」
アルノーは微笑んだ。「王が直接命じれば、私も逆らえない」
私は見取り図を握りしめた。
「君がどうするか、楽しみにしている」
アルノーは扉を指した。「今日は、ここまでだ」
---
魔法院を出ると、空は曇っていた。
私とエーヴァルトは、馬車へ向かって歩いた。
「どう思う」
エーヴァルトが聞いた。
「……危険な人です」
私は正直に答えた。
「同感だ」
エーヴァルトの声が低い。「あの老人は、自分の正しさを信じすぎている」
「でも、嘘はついていなかった」
私は見取り図を見た。「だから、余計に厄介です」
馬車に乗り込み、私は窓の外を見た。
魔法院の建物が、遠ざかっていく。
「あの老人は、私を試している」
私は呟いた。
「試す?」
「原本保管庫の場所を教えた。王の令状で入れると言った」
私はエーヴァルトを見た。「つまり、私がどう動くか見ている」
「罠か」
「分かりません」
私は見取り図を握りしめた。
「でも――原本保管庫には、行かないといけない」
「危険だ」
「分かってます」
「ギルベルトとは、次元が違う」
エーヴァルトの声が鋭くなる。「あの老人は、契約の全てを握っている」
「だからこそ、です」
私は彼を見上げた。「あの老人を野放しにしたら、私が暴いた全てが無意味になる」
エーヴァルトが黙る。
「契約の原本を書き換えられたら、証拠は消える」
私は続けた。「聖女も、ギルベルトも、王太子も――全員、無罪になる」
「……分かった」
エーヴァルトは静かに言った。「俺も行く」
「当然です」
私は微笑んだ。「あなたがいないと、困りますから」
エーヴァルトが私の手を取った。
強く、握りしめる。
「お前を失うくらいなら、あの老人を斬る」
私は息を呑んだ。
「……エーヴァルト」
「冗談じゃない」
エーヴァルトは私の目を見た。「本気だ」
彼の目は、真剣だった。
氷のような冷たさの奥に、熱い光がある。
「……分からないわけじゃない」
私は小さく言った。「あなたの気持ち」
エーヴァルトの手が、わずかに震えた。
「でも、まだ言わないで」
私は続けた。「全部終わってから、聞かせて」
エーヴァルトが黙る。
長い沈黙。
そして、彼は静かに言った。
「……分かった」
その声は、温かかった。
---
王宮に戻ると、王が私を呼んだ。
執務室で、私は今日の報告をした。
魔法院の長老、アルノー・ヴェルデ。
契約の原本を管理する男。
そして、「秩序」という名の支配を望む者。
王は長く黙り、そして言った。
「……アルノーか。彼は、私より長くこの国にいる」
「ご存知だったのですか」
「知ってはいた。だが、手が出せなかった」
王は疲れた顔で言った。「魔法院は、王家の管轄外だ。独立した機関として、ずっと存在してきた」
「でも、王命があれば――」
「ああ」
王は頷いた。「王命があれば、原本保管庫に入れる」
私の胸が高鳴った。
「令状を、いただけますか」
王は私を見た。
長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「……監査官殿。お前は、どこまでやるつもりだ」
「全てを終わらせるまでです」
私は即答した。
王が小さく笑った。
「お前は、本当に休まないな」
「休んだら、潰されますから」
私は微笑んだ。
王は机の引き出しから、紙を取り出した。
王の印が捺された、令状。
「これで、原本保管庫に入れる」
王は令状を私に渡した。「だが、気をつけろ」
「はい」
「アルノーは、五十年以上あの場所にいる」
王の声が低くなる。「何を仕掛けてくるか、分からない」
私は令状を受け取り、一礼した。
「必ず、真実を暴きます」
---
その夜、私は自室で計画を立てていた。
原本保管庫への潜入。
アルノーの不正の証拠を掴む。
残り七日。
時間はない。
扉がノックされた。
「入っていいか」
エーヴァルトの声。
「どうぞ」
扉が開き、エーヴァルトが入ってきた。
「……何を考えている」
「明日の計画です」
私は見取り図を見せた。「原本保管庫は、地下の最深部。入口は一つ」
「罠だらけだろう」
「でしょうね」
「それでも行くのか」
「はい」
エーヴァルトが私の隣に座った。
「……俺は、お前を止められない」
「止めないでください」
私は彼を見た。「一緒に来てください」
エーヴァルトの目が、わずかに揺れた。
「お前は……」
「何ですか」
「本当に、手強い」
エーヴァルトは小さく笑った。
私は少し驚いた。
氷の騎士団長が、笑っている。
「……エーヴァルト」
「何だ」
「笑うと、怖くないですね」
エーヴァルトの笑みが消えた。
「怖くないと困る」
「困りませんよ」
私は微笑んだ。「私は、あなたの本当の顔が好きです」
エーヴァルトが黙った。
その目が、私を見つめている。
「……俺の本当の顔?」
「はい」
私は頷いた。「氷の騎士団長じゃなく、ただのあなた」
エーヴァルトの手が、私の頬に触れた。
温かい。
「お前は……」
彼は言葉を切った。「いや、今は言わない」
「待ちます」
私は彼の手に、自分の手を重ねた。「全部終わってから」
エーヴァルトが頷いた。
そして、立ち上がる。
「明日、早い。休め」
「はい」
「俺は、扉の前にいる」
「……ありがとう」
エーヴァルトは扉を開け、振り返った。
「リディア」
名前を呼ばれた。
いつも「お前」と呼ぶ人が、私の名前を。
「何ですか」
「……生き延びろ」
そして、扉が閉まった。
私は閉まった扉を見つめた。
彼の声が、頭の中で繰り返される。
(リディア)
初めて、名前で呼ばれた。
それだけで、胸が熱くなる。
(……全部終わったら)
私は窓の外を見た。
月が細い。明日は、曇りかもしれない。
残り七日。
原本保管庫への潜入。
真の黒幕との、本当の戦い。
私は静かに決意した。
必ず、生き延びる。
そして――エーヴァルトに、答えを出す。




