第11話 白紙署名の牙――そして宰相が動く
翌朝、私の机には二つの物が置かれていた。
ひとつは赤い封筒。王太子府からの通告。
もうひとつは――昨夜、倉庫で拾った白紙署名の契約書。
私は封筒を開けずに、白紙契約を取り上げた。
署名欄には、確かに王太子の名がある。
だが契約の"本文"が空白。つまり、後からどんな命令でも書き足せる。
(これを誰が握っていたかが問題)
私は【契約監査】を起動し、契約書に染みついた痕跡を読む。
胸の奥に、冷たい要点が流れ込んだ。
(白紙契約、署名者は王太子、保管者は――聖女侍従長、使用目的は"監査官の処分")
背筋が凍る。
つまりこの契約書は、私を"合法的に"消すための伏線だった。
白紙に後から"追放""投獄""処刑"と書き足せば、王太子の署名付きで命令が成立する。
「……怖いもの作るわね」
私は呟き、契約書を机の引き出しに仕舞った。
証拠は大事。でも、握ったまま死んだら意味がない。
扉が開き、エーヴァルトが入ってくる。
今日も無言。けれど、私の机に置かれた封筒を一瞥しただけで全てを察したようだ。
「……読むな」
彼は短く言った。「罠だ」
「でも、読まないと次が見えません」
私は封筒を開ける。
中には一行だけ。
『臨時監査官リディア・アルベール。本日より監査活動を停止せよ。――宰相府命令』
私は目を細めた。
「……王太子府じゃなく、宰相府?」
「切り捨てた」
エーヴァルトが即答する。「王太子府は昨夜の失態で立場を失った。宰相が主導権を握った」
なるほど。権力の綱引き。
王太子が失墜すれば、宰相が全てを回収する。
そして私は、宰相府の管轄に置かれる――つまり、より強固な"檻"だ。
「でも、停止命令には従えません」
私は立ち上がる。「三十日の約束はまだ生きてる」
「宰相は約束を守らない」
エーヴァルトの声が低くなる。「あの男は"正しさ"を盾にする。法を捻じ曲げるのが得意だ」
私は微笑んだ。
「なら、捻じ曲げられない証拠を出すだけです」
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
複数。整然としている。
宰相府の兵だ。
扉が開き、宰相補佐ギルベルトが現れた。
今日は笑っていない。表情が固い。
「監査官殿。停止命令を受け取ったね?」
「受け取りました。でも、従いません」
「なら――」
ギルベルトが手を上げた瞬間、エーヴァルトが剣に手を置いた。
兵たちが一斉に後ずさる。
「団長。命令に逆らうのか」
「逆らってない」
エーヴァルトは淡々と言った。「俺の任務は監査官の生命保護。それは王命だ」
「では、王命と宰相府命令、どちらが上か試すか?」
ギルベルトの声が冷たくなる。
私は二人の間に割って入った。
「試す必要はありません。ギルベルト様、取引しましょう」
「……取引?」
「私が監査を続ける代わりに、宰相府に"利益"を渡します」
ギルベルトの目が細くなる。
「何を渡せる」
「王太子府の不正記録」
私は即答した。「聖油契約の偽装、白紙署名の濫用、結界契約の証拠。全部まとめて」
ギルベルトが一瞬だけ黙る。
そして、笑った。
「……面白い。だが、それは宰相府にとって"証拠"にもなる」
「ええ。だから取引です。証拠を渡す代わりに、私の監査を邪魔しない」
ギルベルトは腕を組み、私を見下ろした。
「お前は本当に、賢すぎる」
「賢くないと生き残れないので」
私は微笑む。「それに、宰相府も聖女も王太子も――全員、契約記録に名前が残ってます。
私が死んだら、記録は消えません。むしろ誰かが拾います」
エーヴァルトが低く言った。
「……俺が拾う」
ギルベルトの笑みが消えた。
彼は長い沈黙の後、ため息をついた。
「分かった。取引を受ける。
ただし条件がある」
「どうぞ」
「お前の監査は、"宰相府の監視下"で行う。
報告は毎日。隠し事は許さない」
私は頷いた。
「それで構いません。隠す気もないので」
ギルベルトは兵たちに撤退を命じ、扉の前で振り返った。
「監査官殿。お前は本当に――三十日で終わらせるつもりか?」
「ええ」
私は即答した。「早く片付けて、静かに休みたいので」
ギルベルトは小さく笑い、去っていった。
扉が閉まると同時に、エーヴァルトが私の肩を掴んだ。
「……危険だ」
「分かってます」
「分かってない」
彼の声が、いつもより低い。
「宰相府の監視下に入れば、逃げ場がなくなる」
「逃げ場は最初からありません」
私は彼の手を見上げた。「だから、あなたが必要なんです」
エーヴァルトの目が揺れた。
そして、静かに言った。
「……俺は、お前を守る。
でも――お前が俺を信じるかは、別だ」
「信じてます」
私は即答した。「あなたの契約糸は、嘘をついてない」
エーヴァルトの手が、わずかに震えた。
そして彼は、私の手を取った。
「なら――離れるな」
その夜、宰相府から最初の監視員が送られてきた。
書記官風の男。眼鏡をかけ、ペンを握っている。
「監査官殿の報告を記録します」
彼は淡々と言った。
私は頷き、今日の成果を口にした。
「王太子府の聖油契約、偽装確認。白紙署名、回収完了」
書記官がペンを走らせる。
だが彼の背後で、契約糸がわずかに揺れた。
(この書記官……宰相府だけじゃない。聖女側とも契約がある)
私は心の中で警戒しながら、穏やかに続けた。
「明日は、神殿の寄付金の"最終受領者"を特定します」
書記官のペンが止まった。
ほんの一瞬。
でもその一瞬で、私は確信した。
(聖女側が、慌て始めた)
報告を終え、書記官が去った後。
エーヴァルトが私の部屋に来た。
「今の書記官、二重契約だ」
私が言うと、彼は頷いた。
「分かっていた」
「なら――」
「だから、お前の部屋の隣にいる」
エーヴァルトは壁を指差した。
「壁一枚。声が聞こえる距離だ」
私は少しだけ、安堵した。
そして同時に、胸の奥が温かくなる。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
エーヴァルトは短く言った。「俺の責任だ」
責任。
その言葉の裏に、何が隠れているのか――私にはまだ分からない。
でも、確実に言えることがひとつある。
この氷の騎士団長は、本当に離してくれない。
そして私は――もう逃げたくない。
翌朝、私の机に新しい封筒が置かれていた。
今度は黒い蝋。
宰相の私印。
中には一枚の紙。
そこにはこう書かれていた。
『寄付金の最終受領者を特定せよ。
ただし――その先に何があっても、宰相府は責任を負わない』




