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感電

作者: 埴輪庭

 ◆


 夕方の駅前は帰宅を急ぐ人間たちで溢れていた。


 藤巻俊一は作業服のまま、缶コーヒーを握りしめてベンチに座っている。五十三歳。顔には深い皺が刻まれ、日焼けした肌は革のように乾いていた。第二種電気工事士の資格を取ってから三十年、高圧線の下で生きてきた男の肌である。


 缶コーヒーはすでに冷めていたが藤巻は気にしなかった。視線は雑踏の中を泳いでいる。


 人の流れには電流と同じ法則がある──藤巻はそう確信していた。抵抗の少ない道を選び、合流し、分岐し、やがてどこかへ流れ着く。そして時折、その流れから外れようとする者が現れる。


 藤巻の目が一人の女を捉えた。


 二十代半ばだろうか。紺のスーツを着た、どこにでもいるような会社員の女だった。だが歩き方がおかしい。人混みの中を歩いているのに誰ともぶつからないように、まるで自分の存在を消そうとするかのように肩を縮めて進んでいる。


 藤巻は缶コーヒーを捨て、立ち上がった。


 女は駅のホームへ向かっていた。階段を下りる足取りに迷いがない。けれども、その迷いのなさこそが藤巻の経験則に引っかかった。


 電気工事の現場で何度か見てきた光景がある。感電した人間は最初、自分が感電していることに気づかない。筋肉が収縮し、電源を握りしめたまま離せなくなる。意識ははっきりしているのに体が言うことを聞かない。そして助けを求める声すら出せないまま心臓が止まる。


 不幸というやつも同じだと藤巻は思う。


 人は不幸の中にいるとき、それを手放せない。握りしめたまま、じわじわと焼かれていく。本人にはどうすることもできない。だから外から力を加えて、引き剥がしてやる必要があるのだ。


 藤巻はホームに降りた。


 女は黄色い点字ブロックの手前で立ち止まっている。電光掲示板をちらと見ると電車が来るまであと三分だった。


 ・

 ・

 ・


 藤巻は知らぬ事だが、女には色々とあった。そう、()()とだ。入社三年目の営業事務。今朝、上司から呼び出され、来月からの異動を告げられた。地方の支店への左遷だった。理由は説明されなかったがわかっている。先月、取引先への請求書に記載ミスがあった。百万円単位の金額を一桁間違えて送ってしまった。


 それだけではない。


 恋人からは先週、別れを切り出された。八年付き合った相手だった。結婚を考えていた相手に「君といると息が詰まる」と言われた。女にはその意味がわからなかった。


 ホームの端に立ち、線路を見下ろす。


 銀色のレールが夕日を受けて光っている。あと二分。女は自分がここに立っていることを不思議に思わなかった。計画したわけではない。ただ、足がここへ向かっただけだ。体がもう疲れたと言っている気がした。


 藤巻は女の斜め後ろに立った。


 距離は約二メートル。肩の角度、首の傾き、両手の位置。すべてを観察する。感電した人間を助けるとき、最も重要なのはタイミングだ。電源を切るか、絶縁物で引き離すか、それとも思い切り蹴り飛ばすか。状況によって判断が変わる。


 電車が近づいてくる音が聞こえた。


 女の体がわずかに前傾した。


 瞬間、藤巻は動いた。


「おっと」


 低い声と同時に藤巻の右肩が女の左肩に激突する。体重七十八キロの男が全力で歩いてきたときの運動エネルギーである。女の体は簡単に弾き飛ばされ、二、三歩よろめいて後退った。


「もうしわけない」


 藤巻は軽く頭を下げて、何事もなかったかのようにそのまま歩き去ろうとする。電車が轟音を立ててホームに滑り込んできた。


「待って」


 女の声が藤巻の背中を呼び止めた。


 振り返ると女は手すりに掴まったまま、こちらを見ていた。目が赤い。泣いているのか怒っているのか、藤巻には判別がつかない。


「わざとですか」


「ああ」


 藤巻は素直に認めた。


「なん、で」


 女の声が震えている。


「感電してたからな」


「は?」


「あんた、感電してた。握りしめてた。離せなくなってた。だからぶっ飛ばしたんだ」


 女は藤巻の言葉の意味がわからないという顔をした。当然だろう。藤巻自身、この理屈を本当に理解しているとは言えないのだから。


「電気工事やってるとな、感電した奴を助けることがある。電気が流れてる状態で触るとこっちも感電する。だから蹴り飛ばすか、木の棒で引き離すかしかない」


「それと私と何の関係が」


「同じだよ。不幸ってのは電気と同じだ。流れ込んできて、握りしめて、離せなくなる。自分では止められない。だから外から力を加えて、引き剥がす」


 女は黙っていた。


 電車のドアが開き、人々が降りてくる。


「あんた、何かに捕まってただろう。俺には見える。電気に焼かれてる人間の顔ってのは独特なんだ。目が据わってて、どこも見てない。今のあんたと同じ顔だった」


 女は何も言えなかった。


 この男の言っていることは明らかにおかしい。電気と不幸が同じだなんて、どう考えても狂人の論理だ。けれど、肩を殴られた衝撃がまだ体に残っている。痛い。確かに痛い。そしてその痛みだけが今、現実として感じられる。


 八年付き合った恋人に息が詰まると言われた。仕事でミスをして、地方に飛ばされることになった。それらの出来事がなぜか遠くに感じられる。肩の痛みだけが近い。


「次の電車、あと四分だ」


 藤巻はそう言って、歩き去った。


 女はその背中を見送った。


 作業服の背中が人混みに消えていく。汚れた布地に会社のロゴが入っていた。


「関東電工サービス」──どこかの電気工事会社だろう。頭のおかしい電気工事士が見知らぬ女を突き飛ばして、意味不明な説教をして去っていった。それだけのことだ。


 なのになぜだろう。


 女は自分が線路を見下ろしていたことを思い出した。あと少しで電車が来る、と思っていた。それをこの男に見抜かれていた。


「離せなくなってた」


 その言葉が妙に腑に落ちた。


 確かに離せなくなっていたのかもしれない。失恋の痛みを仕事の失敗を自分の無価値さを。手放せばいいとわかっているのに握りしめて、そこに電気が流れ続けていた。焼かれていることにすら気づかないまま。


 電車が発車のベルを鳴らした。


 女はベンチに座り、次の電車を見送った。


 その次も、見送った。


 肩がまだ痛い。


 そして数十分後。


「……え、ほんとに痛いんだけど。強くぶつかりすぎでしょあのおじさん」


 女はむっとした表情を浮かべる。


 だがすぐにふわりと笑って駅から去って行った。


 ◆


 藤巻が「ぶつかりおじさん」を始めたのは三年前のことだった。


 現場で二十二歳の若い電工が感電した。高圧線の接続作業中、絶縁手袋に穴が開いていることに気づかなかった。六千六百ボルトの電流が若者の体を貫いた。


 藤巻はとっさに若者を蹴り飛ばした。


 鳶職上がりの脚力で思い切り蹴りとばし、若者は三メートルほど吹っ飛び、コンクリートの床に叩きつけられた。肋骨が二本折れたがしかし、心臓は止まらなかった。あと一秒遅ければ心室細動で死んでいただろう、と医者は言った。


 会社からは表彰された。


 けれども藤巻の頭には別のことが残っていた。


 若者を蹴り飛ばした瞬間、藤巻は確かに見たのだ。若者の目が一瞬、焦点を取り戻すのを。電気に捕まれて離せなくなっていた意識が外部からの衝撃によって現実に引き戻される瞬間を。


 その目を見た瞬間、藤巻の脳裏に別の目が重なった。


 娘の目であった。


 十七年前、藤巻には娘がいた。晴菜という名前だった。


 晴菜は中学二年のとき、クラスメイトからのいじめを受けるようになった。最初は持ち物を隠される程度だった。それがやがて無視になり、陰口になり、SNSでの誹謗中傷になった。晴菜は学校に行けなくなった。


 藤巻は仕事が忙しかった。高圧線の敷設工事で毎日深夜まで現場にいた。家庭の事はおざなりになり、気付いてみれば娘は部屋に閉じこもり、妻の香織は疲弊しきってしまっていた。


「どうすればいいの」


 ある時、香織が訊いた。晴菜が「死にたい」と言ってきたらしい。


 藤巻には答えがなかった。電気のことならわかる。どこに電流が流れているか、どこが危険か、体が覚えている。しかし娘の心に何が流れているのか、どこが危険なのか、まるでわからなかった。


「あなたはいつもそうね」


 香織は藤巻をツ、と見て去って行った。その背にかける言葉すら当時の藤巻にはなかったのだ。


 そんな日々が続き、ある夜、晴菜が部屋から出てきた。


 リビングで一人、テレビを見ていた藤巻の前に立つ。目が虚ろだった。何も見ていない目。見ているようで見ていない。焦点が合っていなかった。


「お父さん」


 晴菜が言った。


「疲れた」


 藤巻はこの時も何と答えればいいかわからなかった。娘の目が怖かったのだ。実の娘から役立たず、と思われるのが怖かったのか、それとも他に理由があったのか──藤巻には今でもわからない。


「まあ、座れ。メシでも食えば気も晴れるだろう」


 そう言うのが精一杯だった。


 晴菜は何も言わずに部屋に戻った。


 翌朝、晴菜は自室で首を吊っていた。


 香織の絶叫で藤巻は目を覚ました。駆けつけたときにはもう遅く、晴菜の体は冷たくなっていた。目は開いたままだった。あの虚ろな目のまま、娘は死んでいた。


 そうして葬儀が終わり、初七日が過ぎ、四十九日が過ぎた。


 香織は泣いていた。毎日泣いていた。食事も取らず、眠りもせず、ただ晴菜の部屋で泣いていた。


 藤巻は香織を見ていられなかった。このままでは香織も壊れる、ならば何か声をかけるべきだ──そう思った。


 だから。


「いつまで泣いてるつもりだ」


 藤巻は香織にそんな風に言った。


「晴菜はもういない。泣いても戻ってこない。前を向け。生きていかなきゃならないんだ」


 香織は藤巻を見上げた。目が虚ろだった。晴菜と同じ目だ。


「俺たちが潰れてどうする。晴菜のためにも、しっかりしろ」


 藤巻は香織の肩を掴んで揺さぶった。目を覚まさせなければと思った。電気に捕まれた人間を引き剥がすように、衝撃を与えなければと思った。


「立て。飯を食え。生きろ」


 香織は何も答えなかった。


 一週間後、香織は家を出た。


 置き手紙が一枚あった。「あなたとは一緒にいられません」とだけ書いてあった。


 藤巻は香織を追わなかった。追う気力がなかったのだ。娘を失い、妻を失い、一人になった。仕事だけが残った。高圧線の下で生きる日々だけが残った。


 それから十年が経った。


 あっという間に二十年が経った。


 そんなある日、一通の手紙が届いた。差出人は石田 陽子。義理の母である。そこには香織が死んだと書いてあった。


 病気だったらしい。癌だった。発見が遅れて、手の施しようがなかったと。葬儀は家族だけで済ませたと。香織の遺品の中に藤巻の写真があったので知らせることにしたと。


 藤巻はその手紙を何度も読んだ。


 葬儀には呼ばれなかった。当然だ。自分は香織を追い出した男だ。


 手紙の最後に、義母はこう書いていた。


「香織が欲しかったのは叱咤でも激励でもなかったのです。ただ一緒に泣いてほしかっただけなのです。あなたにはそれがわからなかった。私はあなたを許すことができません」


 藤巻は手紙を畳んで引き出しにしまった。


 それきり、その手紙を開くことはなかった。


 若い電工を蹴り飛ばした夜、藤巻は酒を飲んだ。安い焼酎を何杯も飲んだ。飲みながら晴菜の目を思い出していた。香織の目を思い出していた。


 見ているようで見ていない目。焦点の合わない目。感電した若者の目と同じだということに気づく。いや、思いこむというべきか。


 藤巻の脳裏に()()()()が渦巻いていく。


 ──あのとき、晴菜に寄り添っていれば。


 ──あのとき、香織を抱きしめて一緒に泣いていれば。


 ・

 ・

 ・


 翌日から、藤巻は街を歩くようになった。


 人混みの中に同じ目をした人間がいることに気づいたからだ。電気に捕まれているわけではない。けれども、何かに捕まれて、離せなくなっている。自分では止められない。外から力を加えなければ、ゆっくりと焼け死んでいく。


 晴菜のように。


 香織のように。


 藤巻にはその人間たちが見える。


 いや、見えるようになってしまった。


 だからぶつかるのだ──肩から、がつんと。


 人はそれを狂気と呼ぶだろう。しかし藤巻にとってそれは贖罪であった。


 ◆


 木曜日の夜、藤巻は商店街を歩いていた。


 仕事帰りの時間帯である。作業服のままで手にはビニール袋が一つ。中身はスーパーで買った弁当と発泡酒。独り身の藤巻にとって、これが日常の夕食だった。


 商店街のアーケードは半分ほどの店がシャッターを下ろしている。かつては賑やかだったこの通りも、大型ショッピングモールができてから、すっかり寂れてしまった。蛍光灯の光が等間隔に白い影を落としている。


 藤巻の目が一人の少年を捉えた。


 中学生だろうか。学生服を着て、塾帰りのような様子だった。背中を丸め、俯いて歩いている。イヤホンを耳に差し込んでいるが音楽を聴いている風には見えない。単に周囲との接触を拒んでいるだけだ。


 少年の歩調が急に早くなった。


 藤巻は少年の視線の先を追った。


 前方から、三人組の少年たちが歩いてくる。同じ中学の制服だ。笑いながら何か話している。彼らと一人の少年との間に何かがある。藤巻にはそれが見えた。


 少年は三人組を避けようとして、脇道に逸れた。しかし三人組の一人が気づき、声をかけた。


「おい、佐々木」


 少年の足が止まった。


「無視すんなよ」


 三人組が近づいてくる。


 藤巻は歩みを速めた。


 少年の名は佐々木健太といった。中学二年生。成績は中の上、運動は苦手、友人は少ない。一年前から、この三人組に目をつけられていた。殴られたり蹴られたりするわけではない。金を取られるわけでもない。ただ、言葉で態度で存在を否定され続けていた。


 晴菜と同じだった。


「お前さ、今日の体育、まじウケたわ」


「跳び箱跳べないとか、小学生かよ」


 笑い声が響く。


 健太は黙っていた。言い返す言葉を持たなかった。自分が跳び箱を跳べなかったのは事実だし、体重が重いのも事実だ。何を言われても、反論できない。だから黙って、早く終わるのを待つしかない。


 三人組のリーダー格が健太の肩を掴んだ。


「なあ、聞いてんの? お前、無視すんなよ。ムカつくんだけど」


 その瞬間、藤巻の肩がリーダー格の少年の背中に激突した。


「おっとすまんな」


 少年は前のめりに倒れ、健太に覆いかぶさるようにして転んだ。二人とも地面に倒れ込む。


「ってぇな、何すんだジジイ」


 少年が振り返り、藤巻を睨みつけた。


「わりぃわりぃ、目が悪くてな。こんな暗いとよ、前が見えねえんだ」


 藤巻は悪びれもせずに言った。実際、アーケードの照明は薄暗い。


「ふざけんな」


 少年が立ち上がり、藤巻に詰め寄ろうとした。しかし藤巻は少年の目を真っ直ぐに見返した。


「おう、悪かったよ。ぶつかっちまって。で何だ、お前ら、こいつの友達か?」


 藤巻は地面に座り込んでいる健太を指さした。


「は? 違ぇよ」


「そうか。じゃあ、関係ねえな」


 藤巻は健太に手を差し出した。


「立てるか、少年」


 健太は藤巻の手を取り、立ち上がった。膝に砂がついている。制服が汚れた。また母親に何か言われるだろう、と思った。


「行くぞ」


 藤巻は健太の肩を押し、歩き出した。三人組は何か言いたそうにしていたが藤巻の背中を見て、追いかけてくる気配はなかった。


 商店街の外れまで歩いてから、藤巻は足を止めた。


「大丈夫か」


 健太は頷いた。


「あいつら、なんだ。同じクラスか」


「……はい」


「そうか」


 藤巻は煙草を取り出し、火をつけた。紫煙が夜空に溶けていく。


「お前、感電してたな」


「え?」


「あいつらに捕まれてた。離せなくなってた」


 健太はこの男が何を言っているのかわからなかった。感電? 電気なんて流れていない。ただ、いつものようにあの三人に絡まれていただけだ。もしかして頭がおかしいのかな、などと思っていると──


「俺は電気工事士だ」


 藤巻は唐突に言った。


「電気ってのはな、見えねえんだ。流れてても、わかんねえ。触って初めてわかる。そんで触ったときにはもう手遅れだ。握りしめて、離せなくなる」


「……」


「不幸も同じだ。見えねえ。いつの間にか捕まれてて、離せなくなる。自分じゃどうしようもねえ。だから外から力を加えて、引き剥がすしかねえんだ」


 健太は黙って聞いていた。


 この男の言っていることはたぶん、おかしい。電気と不幸が同じだなんて、意味がわからない。でもさっき、転んだとき、何かが変わった気がした。


 三人組のリーダーが地面に転がった。いつも威張っているあいつが無様に転んだ。それを自分は見た。


「あいつら、格好悪かったな」


 藤巻がぼそりと言った。


「……はい」


 健太は小さく笑った。


 自分でも驚くほど、自然に笑いがこぼれた。あいつらに絡まれて、こんな風に笑えたのは初めてだった。


「感電から抜けたな」


 藤巻は煙草を地面で消し、足で踏みつけた。


「いいか、少年。電気はな、必ず地面に逃げる。アースってやつだ。人間の不幸も同じだ。どっかで地面に逃がさねえと体の中で暴れ続ける。逃げ道を作れ。わかったか」


 健太には半分もわからなかった。


 しかし肩をぶつけられた衝撃がまだ体に残っている。転んだときの痛みがまだある。それだけが確かであとのことは全部、少し遠くに感じられた。


「帰れるか」


「はい」


「そうか。気をつけて帰れよ」


 藤巻は踵を返し、暗い商店街へ戻っていった。


 健太はその背中を見送った。作業服の汚れた背中。変なおじさんだった。何を言っているのかよくわからない、頭のおかしいおじさん。でもなんだか、少しだけ体が軽くなった気がした。


 電気は地面に逃がす。


 その言葉だけが妙に頭に残っていた。


 ◆


 土曜日の昼下がり、藤巻は河川敷のベンチに座っていた。


 休日はここで過ごすことが多い。釣り人が糸を垂れ、ランニングをする人々が通り過ぎ、犬を散歩させる家族連れがいる。藤巻は缶ビールを片手にぼんやりと川面を眺めていた。


 河川敷の向こう側に高い橋が架かっている。


 藤巻の目が橋の欄干に立つ人影を捉えた。


 距離がある。二百メートルほど離れている。しかし藤巻にはその人影の姿勢でわかった。あれは危ない。


 立ち上がり、走り出した。


 五十三歳の体は思うように動かない。息が切れる。膝が痛む。それでも走った。橋の袂まで百メートル。橋の中央までさらに百五十メートル。間に合うか。


 橋の上に立っていたのは四十代の男だった。


 スーツを着ている。ネクタイは緩められ、髪は乱れていた。欄干の外側に体を乗り出し、川面を見下ろしている。


 藤巻が橋の中央に到達したとき、男はまだそこにいた。


「おい」


 藤巻は声をかけた。


 男が振り返る。目が虚ろだった。何も見ていない目。感電した人間の目と同じだった。


 晴菜の目と同じだった。


「何だよ」


 男の声は意外なほど落ち着いていた。


「お前、感電してるぞ」


「は?」


「電気に捕まれてる。離せなくなってる。今から、ぶっ飛ばす」


 藤巻は男に近づいた。男は欄干を掴んだまま、動かなかった。逃げる気力もないのだろう。あるいは逃げる理由がないと思っているのか。


「ふざけんな」


 男が言った。


「お前に何がわかる。俺は終わりなんだ。会社が潰れた。借金が三億ある。家族も逃げた。何もかも、終わりなんだ」


「そうか」


 藤巻は素っ気なく答えた。


「で飛び降りて、どうなる」


「どうもならねえよ。終わるだけだ」


「借金はどうなる」


「……知らねえよ」


「お前の家族はどうなる」


 男の顔が歪んだ。


「家族は関係ねえ。あいつらは逃げたんだ。俺を見捨てた」


「見捨てたんじゃねえだろ。避難したんだ」


 藤巻は欄干のそばに立った。男との距離は一メートルもない。


「感電した人間に触るとこっちも感電する。だから離れなきゃならねえ。お前の家族も同じだ。お前に流れてる電気から、離れなきゃならなかった。でもお前が回路を切れば、戻ってこれる」


「回路を切る?」


「そうだ。お前は今、電源を握りしめてる。離せ。俺が引き剥がしてやる」


 男は藤巻の顔を見た。


 この男は何を言っているのか。電源? 回路? 意味がわからない。しかし男の目には何か確信のようなものがあった。狂気ではない。いや、狂気かもしれない。男には判別がつかなかった。


「お前、何なんだよ」


「電気工事士だ」


「電気工事士がなんでこんなとこに」


「お前みたいな奴をぶっ飛ばすためだ」


 藤巻は男の肩を掴んだ。


 男は抵抗しなかった。抵抗する気力がもう残っていなかった。


 そして藤巻は男を欄干の内側に引き倒した。二人とも橋の上に転がり、藤巻の肘が男の脇腹に入る。


「痛ってぇ」


 男が呻いた。


「それでいい」


 藤巻は立ち上がり、男を見下ろした。


「痛みは電気が抜けた証拠だ。お前、今まで痛かったか?」


 男は答えなかった。


 会社が傾き始めてから、三年が経つ。借金が膨らみ、取引先が離れ、従業員が辞めていった。妻が子供を連れて実家に帰ったのは半年前のことだ。


 痛かったか? 


 わからなかった。痛いとか、苦しいとか、そういう感覚がいつの間にか麻痺していた。ただ、数字だけが増えていった。三億という数字。それ以外のことが全部遠くなっていた。


「俺は感電してたのか」


「ああ。電気に捕まれて、離せなくなってた。自分じゃわかんねえんだ。それが感電の怖いとこだ」


 藤巻は男に手を差し出した。


「立てるか」


 男は藤巻の手を取り、立ち上がった。脇腹が痛む。肘がぶつかった場所だ。確かに痛い。


「三億の借金はどうにもならねえよ」


 男が言った。


「そうだな」


 藤巻は否定しなかった。


「でも死んでも消えねえぞ。借金は」


「わかってる」


「わかってるなら、生きて返せ。一銭でも多く。それがお前にできることだ」


「一銭でも多く、か」


 男は河川敷を見下ろした。


 釣り人がいる。ランニングをする人がいる。犬を散歩させる家族がいる。そういう普通の人生がここにはある。自分にはもう関係のない風景だと思っていた。


「お前の家族は待ってるぞ」


 藤巻が言った。


「電気が抜けたら、戻れる。回路を切れば安全になる。そしたらまた繋がれる」


 男は何も言わなかった。


 しかし欄干を乗り越えようとする気持ちはどこかへ消えていた。脇腹の痛みだけが残っている。確かな、現実としての痛みが。


「……ありがとう」


 男は小さく言った。


「礼は要らねえ。俺はお前をぶっ飛ばしただけだ」


 藤巻は橋を歩き去った。男はその背中を見送っていた。


 作業服の汚れた背中を男はぼんやりと見送る。変な男だった。電気と借金が同じだなんてどう考えてもおかしい。でも脇腹の痛みが何かを変えた気がした。


 電気を切る。


 その言葉だけが頭に残っていた。


 ◆


 日曜日の朝、藤巻は公園のベンチに座っていた。


 休日の公園は家族連れで賑わっている。子供たちがブランコで遊び、親たちがスマートフォンを見ている。藤巻は缶コーヒーを飲みながら、その光景を眺めていた。


 若い母親が一人の少女を連れて歩いてきた。


 少女は五歳くらいだろうか。赤いワンピースを着て、母親の手を握っている。しかしその歩き方がおかしい。母親に引きずられるようにして、足を引きずっている。


 藤巻の目が細まった。


 少女の顔に何かがあった。化粧で隠されているが頬の辺りが腫れている。


 母親がベンチに座り、少女を隣に座らせた。母親はスマートフォンを取り出し、画面を見始めた。少女は俯いたまま、動かなかった。


 藤巻は立ち上がり、二人の前を通り過ぎた。


 少女の目が一瞬、藤巻を見上げた。


 何かを訴えるような目。助けを求めるような目。しかしすぐに俯いて、また動かなくなった。


 晴菜も、あんな目をしていただろうか──そう思うといてもたってもいられなくなる。


 藤巻は公園を出て、少し離れた場所から二人を見ていた。


 母親は時折、少女に何か話しかけていた。少女は頷くだけで何も答えない。母親の顔には苛立ちが見えた。


 三十分ほどして、二人は公園を出た。


 藤巻は後をつけた。


 住宅街の中を歩き、一軒のアパートに入っていった。二階建ての古いアパートだ。二人は一階の部屋に入った。


 藤巻はアパートの前で立ち止まった。


 自分に何ができるのか、わからなかった。これは感電とは違う。明らかに違う。警察に通報すべきなのか。児童相談所に連絡すべきなのか。


 しかし証拠がない。少女の頬が腫れているのを見ただけだ。転んで打っただけかもしれない。母親が虐待しているとは限らない。


 藤巻は煙草に火をつけた。


 紫煙を吐き出しながら、アパートを見上げた。一階の窓にカーテンがかかっている。中の様子は見えない。


 十分ほど経った頃、部屋の中から声が聞こえた。


 女の怒鳴り声。そして子供の泣き声。


 藤巻は煙草を捨て、アパートに向かった。


 玄関のドアをノックした。中の声が止まった。


「はい」


 ドアが開き、母親が顔を出した。三十代前半だろうか。目の下にクマがあり、疲れた顔をしていた。


「なんですか」


「あー、その、近所の者ですが。さっき公園でお子さんが忘れ物をされてまして」


 藤巻は咄嗟に嘘をついた。


「忘れ物?」


「ええ。ちょっと見せてもらえますか。確認したいんで」


 母親は怪訝な顔をしたがドアを開けた。藤巻は部屋の中を見た。少女が部屋の隅でうずくまっている。頬がさらに赤くなっていた。


「あの子」


 藤巻は少女を指さした。


「大丈夫ですか。顔、腫れてますけど」


 母親の顔色が変わった。


「関係ないでしょ。出て行ってください」


「俺は電気工事士なんですが」


 藤巻は唐突に言った。


「電気工事士?」


「ええ。電気ってのは見えないんですよ。流れてても、わからない。触って初めてわかる。そんで触ったときにはもう手遅れなんです」


 母親は藤巻の言葉の意味がわからないという顔をした。


「あんた、何言って」


「あんたも感電してるんです」


 藤巻は母親の目を見た。


「何かに捕まれてる。離せなくなってる。それで子供に当たってる。違いますか」


 母親の顔が一瞬、歪んだ。何か言おうとして、言葉が出なかった。


「俺は人をぶっ飛ばして、感電から救うのが仕事なんです。でもあんたをぶっ飛ばしても子供は救えねえ。だから今日は話を聞きに来ました」


 藤巻は玄関の框に座った。


 母親は黙って藤巻を見ていた。怒りでも恐れでもない、何か別の感情がその目に浮かんでいた。


「あんたなんかに何がわかるの」


 母親が言った。声が震えている。


「何もわかりませんよ。俺は電気工事士だ。子育てのことなんか、何もわからねえ。でも感電してる人間を見たら、放っておけねえんです。職業病みたいなもんです」


 母親は壁に寄りかかった。


「旦那が出ていったの。三年前に。それから、一人で育ててきた。仕事して、家事して、子供の面倒見て。でも限界なの。もう、限界」


 涙が母親の頬を伝った。


 藤巻は何も言わなかった。


 香織もこうだっただろうか。晴菜を失って、一人で泣いていた香織。藤巻は叱咤した。激励した。立てと言った。前を向けと言った。


 でも香織が欲しかったのはそんな言葉じゃなかった。


「叩きたくないの。叩きたくないのに、手が出る。止められない。どうしたらいいか、わからない」


 少女が部屋の隅から母親を見ていた。泣いてはいなかった。ただ、じっと母親を見ていた。


「回路を切んねえと駄目です」


 藤巻が言った。


「一人で全部抱えてたら、どっかでショートする。漏電する。子供に流れる。それを止めるには回路を切るしかねえ」


「回路を切る?」


「それは今俺がやってる。大事なのはこっからだ。線をね、誰かに繋げるんです。役所でも親戚でも誰でもいい。一人で電源握りしめてないで誰かに流す。アースを取る。そうしねえとあんたも子供も焼け死んじまう」


 母親は藤巻の顔を見た。


 この男は何を言っているのか。電気と育児が同じだなんて、意味がわからない。でもなぜだろう、この男の言葉がどこかで腑に落ちた。


 一人で握りしめていた。


 仕事のストレスを生活の苦しさを育児の大変さを。誰にも言えずに一人で抱え込んでいた。それが電流のように体の中を流れて、行き場を失って、子供に向かっていた。


「どうすればいいの」


 母親が訊いた。


「知りませんよ、そんなこと」


 藤巻はあっさりと言った。


「俺は電気工事士だ。子育ての専門家じゃねえ。でも役所に行けば、そういう専門の人がいるはずだ。俺が知ってるのは電気のことだけだ」


 母親は黙っていた。


 藤巻は立ち上がり、玄関を出ようとする。


「あの」


 母親が呼び止めた。


「ありがとう。変なおじさん」


 藤巻は答えず、アパートを後にした。


 背後でドアが閉まる音がした。そしてしばらくして、小さな泣き声が聞こえる。少なくとも子供の声ではないことに藤巻は安堵した。


 藤巻には自分が正しいことをしたのか、わからなかった。余計なことをしたのかもしれない。でも放っておけなかった。感電している人間を見たら、放っておけない──それが藤巻という人間なのだ。


 香織にできなかったことを見知らぬ誰かにしている。


 それが贖罪になるとは思っていない。晴菜を救えなかった罪は消えない。香織を失った痛みは消えない。


 それでも藤巻は歩き続けていた。


 ◆


 藤巻俊一は今日も街を歩いている。


 作業服を着て、缶コーヒーを握りしめて。人混みの中をゆっくりと歩いている。


 彼の目は電気を探している。


 見えない電気。流れ込み、捕まえ、離さない電気。不幸という名の電気。絶望という名の電気。


 それに捕まれている人間を見つけたら、ぶつかる。肩をがつんと。そして回路を切る。電気を地面に逃がす。


 頭のおかしい電気工事士。


 それが藤巻俊一という男だった。


 今日もどこかで誰かが感電している。


 藤巻はその誰かを探している。


 ◆◆◆


 三ヶ月後──。


 佐藤真奈美はスマートフォンの画面を見つめていた。


 あの日、駅のホームで肩をぶつけられてから、三ヶ月が経っていた。地方への異動は結局、実行された。今は地方支店で営業事務の仕事をしている。新しい環境に慣れるのは大変だったが不思議と前よりも息がしやすかった。


 都会の喧騒から離れて、自分を見つめ直す時間ができた。


 八年付き合った恋人のことも、少しずつ整理がついてきた。息が詰まると言われた意味が今ならわかる気がする。自分は相手に依存しすぎていた。自分の不幸を相手に流し込んでいた。感電させていたのは自分の方だったのかもしれない。


 あの電気工事士のおじさんのことを時々思い出す。


 作業服の背中に書いてあった会社名を真奈美は覚えていた。「関東電工サービス」。


 お礼を言いたいと思った。あの日、あの人がぶつかってくれなかったら、自分は今ここにいない。それは確かだった。


 真奈美はスマートフォンで「関東電工サービス」を検索した。


 会社のウェブサイトが表示された。電話番号が載っている。


 少し躊躇してから、真奈美は電話をかけた。


「はい、関東電工サービスでございます」


「あ、すみません。そちらに藤巻さんという方はいらっしゃいますか」


「藤巻……ですか」


 電話口の女性が少し間を置いた。


「藤巻俊一という者でしょうか」


「あ、はい。たぶん、その方だと思います。五十代くらいの」


「少々お待ちください」


 保留音が流れる。


 一分ほどして、電話口に男性の声が出た。


「お電話代わりました。藤巻の件でお問い合わせとのことですが」


「はい、三ヶ月ほど前に駅で藤巻さんにお会いして、お礼を言いたくてお電話したんですが」


「……三ヶ月前、ですか」


 男性の声のトーンが変わった。


「申し訳ございません。藤巻俊一は一年前に弊社を退職しております」


「え?」


 真奈美は言葉を失った。


「一年前……ですか?」


「はい。昨年の三月末をもって、退職いたしました」


「でも、あの、作業服に御社のロゴが入っていたんですが」


「それは……」


 男性が言葉を詰まらせた。


「退職後も作業服を着ていた、ということでしょうか」


「はい。間違いなく、御社のロゴでした」


 長い沈黙があった。


「失礼ですが藤巻とどのような経緯でお会いになったのでしょうか」


 真奈美は迷った。あの日のことをどう説明すればいいのかわからなかった。


「駅のホームでぶつかられて……助けていただいたんです」


「ぶつかられて、助けられた」


 男性が復唱した。


「実は藤巻の退職後、同じようなお問い合わせが何件かございまして」


「え?」


「駅でぶつかられた、商店街でぶつかられた、公園で声をかけられた、というお問い合わせです。全て、退職後のことでした」


 真奈美は背筋が寒くなるのを感じた。


「藤巻さんは……どうして退職されたんですか」


 男性が深くため息をついた。


「精神的な問題がありまして。医師から休養を勧められ、そのまま退職となりました」


「精神的な問題……」


「詳しいことは申し上げられませんが藤巻は……少し、独特な考えを持っておりました。電気と不幸が同じだとか、人をぶつかって救うとか……」


 真奈美は黙っていた。


「会社としましては退職後の藤巻の行動を把握しておりません。もし何かトラブルがございましたら、警察にご相談いただければ」


「いえ、トラブルではないんです。お礼を言いたかっただけで」


「そうですか。それは……藤巻も喜ぶと思います」


 男性の声に、どこか悲しみが混じっていた。


「藤巻は良い職人でした。電気のことは誰よりもわかっていました。ただ……」


「ただ?」


「現場で若い社員を助けてから、少し様子がおかしくなりまして。何かに、取り憑かれたような感じでした」


 真奈美はあの日の藤巻の目を思い出した。


「藤巻さんは今、どこに?」


「わかりません。連絡先も変わっておりまして、こちらでも把握できておりません」


 電話を切った後、真奈美はしばらくスマートフォンを握りしめていた。


 あの人は狂っていたのかもしれない。


 会社を辞めてからも作業服を着て、街を歩いて、見知らぬ人にぶつかっていた。電気と不幸が同じだなんて、確かに狂人の論理だ。


 でも、あの人は確かに自分を救った。


 あの衝撃がなければ、自分は電車に飛び込んでいた。それは間違いない。


 狂気だとしても、その狂気に救われた。


 真奈美は窓の外を見た。地方都市の静かな街並みが広がっている。


 藤巻俊一。


 その名前を真奈美は忘れないだろう。


 ◆


 同じ頃、藤巻俊一は別の街を歩いていた。


 作業服を着て、缶コーヒーを握りしめて。


 今日も、いや、いつだって彼は電気を探しているのだ。


 藤巻が救えなかった晴菜や香織、そして藤巻が救ってきた多くの男女の目に浮かんでいた、あの倦んだ色を瞳に浮かべながら。


(了)

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