第5話:ヴァイオリンの旋律、心のざわめき
その日、ヴァイオリン専攻の2年生、佐伯 琴音は、練習室で、今日も完璧な音を奏でていた。高校時代からテレビ番組でオーケストラと共演し、大学内でも「幻の学生」と呼ばれる天才。彼は、自分の音楽に集中し、他者と関わることはほとんどなかった。
練習がひと段落ついた時、佐伯はふと窓の外に目をやった。音楽棟の廊下を、トランペットケースを抱えた女子学生が、うつむき加減に歩いている。その顔は、入学式で見た、ひときわ明るい笑顔を放っていた女子学生だった。
(彼女は……)
佐伯は、その女子学生の姿をじっと注視した。
「おい、琴音」
その時、練習室のドアから、友人の声が聞こえた。佐伯と同じくヴァイオリンを専攻する友人は、佐伯の視線の先を追うように言った。
「お前が女子をじっと見ているなんて珍しいな。どうした?」
佐伯は、友人の言葉に、ハッと顔を赤らめた。
「別に……」
佐伯がそっけなく答えると、友人は笑いながら言った。
「あの子は、高峰春菜といって、群馬の『ミス安中榛名』なんだよ。俺も、入学式で見たんだけど、すごく可愛かったよな。そういえば、さっき練習室の前を通りかかった時、結構いい音出してたよ」
友人の言葉に、佐伯は、再び顔を赤らめた。高峰春菜。その名前が、彼の心に、音のないヴァイオリンの旋律を響かせた。
(彼女が奏でる音……)
佐伯は、春菜の音を想像して、胸が高鳴るのを感じた。自分の音楽にしか興味がなかったはずなのに、なぜか、彼女の音を聞いてみたいという衝動に駆られていた。
「そういえばさ、あの子、安中榛名の観光大使なんだろ?秋葉原のアンテナショップで、定期的にイベントやってるみたいだよ」
「え、いつやるんだ?」
佐伯は、思わず身を乗り出して尋ねた。友人は、佐伯の意外な反応に驚きながらも、首を横に振った。
「知らないよ。ネットで検索してみれば?」
友人の言葉に、佐伯は、スマートフォンを手に、検索を始めた。
彼の頭の中は、春菜の顔と、彼女が観光大使を務める「安中榛名」という故郷の風景、そしてまだ見ぬ彼女の音色でいっぱいになっていた。
佐伯琴音は、自分の音楽に集中し、他者の音楽にはあまり興味がなかった。しかし、春菜の笑顔が、彼の心をざわつかせ、今まで経験したことのない感情に戸惑いを覚えるのであった。




