第2章2話:才能の輝きと、突きつけられた現実
東京藝術大学に入学して一週間。
春菜は、初めての合同レッスンに参加していた。指導教官の篠田先生のレッスンを、他の学生たちが聴講する形式だ。
春菜は、受験前に何回か篠田先生のレッスンを受けていた。その都度、自分の音楽が通用するのかと不安に思っていたが、先生はいつも優しく、時に厳しいながらも熱心に指導してくれた。だからこそ、春菜は藝大への入学を強く望むことができたのだ。
レッスン室の重い扉を開けると、そこには、真剣な眼差しで楽器を構える、数名の学生がいた。1年生は春菜を含め3人。そして、2年生から4年生まで、総勢10名ほどのトランペット専攻の学生たちが、静かに座っていた。
最初に演奏したのは、2年生の男子学生だった。彼は、力強く、そして安定した音色で曲を吹きこなしていく。春菜は、その技術力の高さに圧倒された。しかし、篠田教授は彼に「君の音には、まだ物語がない」と、厳しい言葉を投げかけた。
次に演奏したのは、3年生の女子学生だった。彼女は、繊細で美しい旋律を奏でた。春菜は、その豊かな表現力に、思わず息をのんだ。しかし、篠田教授は彼女に「君の音は、優しすぎる。もっと、感情をぶつけなさい」と指導した。
そして、いよいよ1年生の番が来た。最初に演奏したのは、春菜の同期である星野 奏太だった。彼は、緊張した面持ちで、震える手でトランペットを構えた。しかし、彼が音を出した瞬間、春菜は驚きに目を見開いた。その音は、まるで澄んだ泉のように、透明で、そして美しかった。
「星野君の音は、素直で、とても良い。だが、その音をどうやって聴衆に届けるのか、これからの課題だ」
篠田教授は、そう言って星野の演奏を評価した。
そして、最後に、高橋 響が立ち上がった。高校時代、春菜のライバルだった男。彼は、どこか自信に満ちた表情で、まっすぐにトランペットを構えた。彼が選んだのは、バッハの無伴奏チェロ組曲の一節だった。
その瞬間、レッスン室の空気が一変した。高橋のトランペットから紡ぎ出された音は、まるで雄大なオーケストラのように、力強く、そして荘厳だった。その音色には、バッハの音楽の構造を深く理解し、それを自分の言葉で表現しようとする、確かな意思が感じられた。
春菜は、その音に圧倒された。高橋の音は、単なる技術的な完璧さだけではなかった。それは、音楽に対する深い知識と、ソリストとして観客の心を揺さぶる、圧倒的な表現力に裏打ちされていた。
演奏後、篠田教授は、静かに頷いた。
「高橋、素晴らしい。君は、すでにソリストとしての片鱗を持っている。だが、もっと自分の内面を曝け出しなさい。君の音には、まだ『高橋響』という人間が足りない」
高橋の演奏と、篠田教授の指導を目の当たりにし、春菜は、自分と高橋との間に、埋めようのない大きな差があることを痛感した。それは、技術的な差だけでなく、音楽に対する向き合い方、そしてソリストとしての自覚の差だった。
「高峰さん、お疲れ様」
レッスン室を出ると、廊下で星野 奏太が春菜に声をかけた。彼の顔には、まだ緊張の面影が残っている。
「星野くんも、お疲れ様。すごいね、あんなに綺麗な音が出せるなんて」
春菜が素直な感想を伝えると、星野は少し照れたように言った。
「ありがとう。でも、高橋の音には、やっぱり敵わないよ。あれは、もう別次元だ。俺たちとは、最初から見える景色が違うんだ」
星野の言葉に、春菜は返す言葉がなかった。彼の言葉は、春菜が抱えていた劣等感を、さらに深くえぐるようだった。
「でも、俺も頑張るよ。いつか、高橋を追い越してやるんだ」
星野は、春菜の肩をポンと叩くと、まっすぐに前を向いた。彼の瞳には、高橋に負けたくないという、強い闘志が宿っていた。
春菜は、ひどく落ち込んだ気持ちで、レッスン室を後にした。東京藝大という場所は、夢を叶える場所であると同時に、自分の実力不足を容赦なく突きつけてくる、厳しい現実だった。




