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第2章 1話:春菜の新生活の始まり

「春菜、準備はできた?」

母の声が、東京の本郷にある一軒家の廊下に響いた。春菜は、自身のトランペットケースを手に、玄関へと向かう。

この家は、受験までの間、トランペットのレッスンのために一時的に下宿していた場所だったが、春菜の合格が決まり、そして彼女の知らなかった親類の事情が明かされたことで、今、春菜と母、そして叔父家族の新しい生活が始まろうとしていた。

春菜は、自分の父親が群馬県では有名な高峰食品の跡取りだったことを、迂闊にもほとんど知らなかった。いや、中学・高校と部活に忙殺されていた春菜に、母親が意図的に話さなかったのである。亡くなった父親が同業種で修行を積んだのち、祖父が起こした高峰食品に戻り、いずれは後を継ぐ予定だったこと。そして、父の急逝により、この東京の家も父の弟である叔父が引き継いだのだという。

「なんか変だと思っていたんだけど、私は中高と部活で忙しかったから気が付かなかったんだわ……」

春菜の心には、新たな驚きと、どこか複雑な感情が入り混じっていた。

「お母さん、もう準備は昨日からしてあるし、学校も近いから大丈夫よ」

春菜は、玄関で待つ母に、精一杯の笑顔を見せた。母もまた、娘の新しい生活への期待と不安を胸に、春菜の言葉に頷いた。

「美子ちゃん、それでは、いざ出陣!」

叔父の娘である従姉妹の高峰たかみね 美子よしこが、美術の道具が入った大きなバッグを肩にかけ、玄関に現れた。物静かで、一見何を考えているかわからない美子だが、春菜の言葉に、控えめに微笑んで応える。

「……お供いたします」

こうして、春菜と美子は東京藝術大学の入学式に出かけたのである。


春菜は、慣れない東京での生活を、少しでも楽しもうと努めていた。

特に、藝大までの通学路は、彼女の心を躍らせるものだった。

本郷にある叔父の家を出て、不慣れな街の道を歩く。しばらくすると、広大な上野公園が目の前に現れた。公園の入り口に立つと、春菜は大きく息を吸い込んだ。朝の光が木漏れ日となって、地面に揺れる。犬の散歩をする人、ジョギングをする人、美術館へと向かう人。様々な人々が行き交うその風景は、春菜の心を穏やかにしてくれた。

公園の中を通り抜ける通学路は、春菜のお気に入りだった。 国立科学博物館や国立博物館、美術館を横目に、彼女は藝大のキャンパスへと向かう。道すがら、楽器ケースを持った学生たちとすれ違うたびに、春菜は自分の夢を再確認する。

(この公園の向こうに、私の夢があるんだ)


春菜は満開の桜が咲き誇る上野のキャンパスに到着した。

この場所に足を踏み入れた瞬間、高校時代とは違う、張り詰めた空気を感じ取った。春菜の心に、希望が満ちていく。上野の森は、彼女の新しい生活を、温かく包み込んでくれた。


講堂に集まった新入生は、音楽科だけでおよそ100名ほど。

春菜は、その一人ひとりが、まるで楽器の音色のように、異なる輝きを放っているように感じた。彼らは、音楽への情熱を全身から発散させ、皆が自信に満ち溢れている。

高校時代、全国金賞という栄光を掴んだ春菜でさえ、ここでは、ただの一人の新入生に過ぎなかった。

その中に、春菜はいくつかの見知った顔を見つけた。

中学の同級生の斎藤さいとう 美波みなみ

(彼女も美術科で藝大に入学したんだ……)

そして由那学園で圧倒的な演奏を披露し、すでに音楽コンクールでも入賞している高橋たかはし ひびき

彼の存在は、春菜を奮い立たせると同時に、彼女の心に、この場所の厳しさを痛感させた。

(私、本当に藝大に入学したんだ……) 

そうそうたる入学生の顔ぶれを見て不安がよぎる。

しかし、春菜はすぐにその不安を打ち消した。この場所で、彼らと肩を並べて音楽を学ぶ。それが、自分の選んだ道なのだ。


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