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第1章5〜9話

第5話:旅立ちへの助走


母親から亡き父親が遺した通帳を渡された夜、春菜は部屋に戻ってからも、その温かさと重みを胸に、涙が止まらなかった。

それは、お金という現実的な壁を打ち破ってくれた安堵の涙であり、何よりも、自分の夢を信じ、そっと背中を押してくれた両親への感謝の涙だった。

(お父さん、お母さん……私、絶対、頑張るから)

春菜は、力強く拳を握りしめた。東京藝大への道は、決して平坦ではない。しかし、一人ではない。亡き父親の思いと、母親の温かい応援が、彼女を支えてくれる。その事実が、春菜に揺るぎない覚悟と、大きな勇気を与えてくれた。

翌日、春菜は吹奏楽部の練習を終えると、クラリネットを片付けている杏菜の隣にそっと歩み寄った。

「杏菜、ちょっといいかな?」

春菜の少し真剣な声に、杏菜は顔を上げた。二人は、部室の窓から差し込む夕日を浴びながら、静かに向かい合った。

「あのね、杏菜。私、東京藝大を受けることに決めた。お母さんが、応援してくれるって言ってくれたんだ」

春菜がそう告げると、杏菜は驚きに目を丸くした後、満面の笑顔で言った。

「すごい! 春菜、おめでとう! 応援してるよ!」

杏菜の心からの祝福に、春菜は胸が温かくなった。

「ありがとう。でもまだ合格したわけじゃないよ。それでね、杏菜……」

春菜は、一呼吸おいて続けた。

「観光大使の仕事、東京でのイベントとか、私一人で頑張るから。杏菜は、群馬で頑張って。自分の勉強と、クラリネットの練習、それに集中してほしいんだ」

杏菜は、春菜の言葉に目を潤ませた。春菜が、自分の苦悩を理解し、気遣ってくれていることが痛いほど伝わってきた。

「そんな、春菜だって大変じゃない」

「大丈夫だよ。私、藝大に合格したら、東京の叔父の家に下宿させてもらうことになっているから、アキバだって近いよ。それに、杏菜の分まで、安中榛名の魅力を東京で伝えてくるからさ!」

春菜の明るい笑顔に、杏菜の心は救われた。自分だけではない、春菜もまた、大きな決意を胸に、東京という未知の世界へ飛び込もうとしているのだ。

「春菜……ありがとう」

杏菜は、春菜の優しさに感謝の言葉を述べた。 それぞれの道を信じて進むことを選んだ二人は、互いを励まし合い、それぞれの目標に向かって走り始めた。

コンクールと音楽祭の成功という輝かしい実績を胸に、春菜は、来るべき藝大受験に向けて、一層練習に打ち込むのだった。

この夏が、高校生活という一つの季節の終わりであり、彼女たちの未来への始まりだ。春菜のトランペットは、ソリストになるという夢、亡き父親の思い、母親の応援、そして杏菜との絆を乗せ、力強く、そして力強く、未来へと鳴り響いていく。


第6話:東京の空、故郷の音色


高校生活最後の二学期に入り、秋風が吹き始めた頃。春菜と杏菜の安中榛名観光大使としての初めての任務が、東京の秋葉原にある群馬県のアンテナショップで始まった。

東京は、安中榛名ののんびりとした空気とは全く違う、せわしない人の波と、様々な情報が飛び交う活気に満ちていた。

春菜と杏菜は、慣れない東京での仕事に少し緊張しながらも、安中榛名の魅力をPRするイベントの準備に追われていた。春菜から観光大使の仕事は任せてと言われてはいたが、できる限り手伝いたいと思う杏菜だった。

「春菜、このポスター、もう少し左がいいかな?」

「うん、杏菜、そっちでオッケー!安中榛名の風を感じられるように飾ろうね!」

春菜は、観光大使のグランプリとして、イベントの司会進行も任されていた。一方、準グランプリの杏菜は、観光パンフレットを配ったり、アンケートを集めたりと、広報活動に尽力する。二人の間には、学校と変わらない、息の合ったチームワークがあった。

イベントが始まると、春菜はマイクを手に、安中榛名の魅力を力強く語り始めた。

「皆さん、安中榛名へようこそ!ここは、美しい山々と温泉、そして何よりも温かい人々が暮らす、素晴らしい町です!」

春菜の屈託のない笑顔と、真っ直ぐな言葉に、来場者たちは笑顔になった。そして、イベントのフィナーレ。春菜は、観光大使として、そして一人のトランペット奏者として、来場者の前で演奏を披露することになった。

春菜がトランペットを構えると、会場は静まり返った。彼女が選んだのは、安中榛名高校吹奏楽部が全国大会で演奏した、故郷をテーマにした曲の一節だった。春菜のトランペットから紡ぎ出された音は、力強く、そして力強く、東京の秋葉原に響き渡った。

その音は、都会の喧騒の中にあって、安中榛名の雄大な自然と、温かい人々の心を思わせた。演奏後、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。春菜は、満面の笑顔で、深々と頭を下げた。

「安中榛名へ、ぜひお越しください!」

春菜の言葉に、来場者たちは「行ってみるよ!」「応援してる!」と、温かい声をかけてくれた。

イベントが終わり、片付けも一段落ついた頃、春菜と杏菜は、会場の隅で休んでいた。その時、見慣れた顔が、二人の前に現れた。

「高峰さん、音羽さん。今日のイベント、大成功でしたね。お疲れ様」

そう声をかけてきたのは、安中榛名高校の元生徒会長、田中たなか 悠斗ゆうとだった。彼は、安中榛名音楽祭の実行委員として、今回のイベントにも協力者として参加していたのだ。

「田中くん!来てくれてたんだ!」

春菜が驚いて言うと、悠斗は「もちろんだよ」と微笑んだ。

「高峰さんのトランペット、本当に素晴らしかったです。あの音を聴いて、安中榛名に行きたいって思った人が、きっとたくさんいると思います」

悠斗の言葉に、春菜は胸が熱くなった。

「ありがとう。やっぱりお客さんの前で演奏するの緊張するけど気持ちいい!田中くんも、イベントの成功に協力してくれて、ありがとう」

春菜は、悠斗が、自分の夢を応援し、支えてくれていることを感じた。そして、このイベントでの経験は、彼女自身の東京への進路、そして「ソリスト」としての道への覚悟を、より一層確固たるものへと変えていくことになる。

安中榛名音楽祭の光と影。それは、春菜と杏菜の未来を、それぞれの方向へと導く、運命の始まりとなった。


第7話:苦闘の受験、母の優しさ


春菜の日常は、藝大受験に向けて一変した。放課後の部活動は引退し、代わりに受験勉強とトランペットの練習に追われる日々が始まった。

東京の叔父の家で受ける個人レッスンは、高校時代の顧問である梓先生の指導とは比べ物にならないほど厳しかった。プロの道を目指すには、トランペットの音色だけでなく、音楽理論や歴史、そしてピアノの演奏技術まで、全てが完璧でなければならないと痛感する。

春菜は小学生の時にピアノを習っていたが、中学で吹奏楽部に入り忙しくなったのを機に辞めていた。しかし、ピアノの演奏も好きで、時間があると練習していた。 音楽基礎の楽典や聴音などは、高校の顧問だった梓先生が、放課後に杏菜と友理の三人に向けて補習授業で教えてくれていたが、藝大の入試となるとそれだけでは心許なかった。

春菜は、レッスン代を稼ぐためにアルバイトをしようと考えたが、受験対策でそのような余裕はない。やはり亡き父が残してくれたお金に頼るしかないのだろうか。そんな葛藤を抱えながら、春菜は自宅のリビングで、母親に苦しい胸の内を打ち明けた。

「お母さん、やっぱり無理かもしれない。レッスン代も、受験費用も、こんなにたくさんお金がかかるなんて……」

春菜の言葉に、母親は静かに、しかし力強く言った。

「春菜、何も遠慮することは無いのよ。お父さんもそれを望んでいると思うわ」

「でも、こんなにお金がかかるなんて、思った以上だもん」

「お母さんも、そしてお父さんも、春菜がやりたいことをする応援をしているのよ。それが、私たちの幸せだもの」

春菜は、母親の温かい言葉と、亡き父親が遺してくれた通帳に、目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、不安や迷いから解放された、安堵と感謝の涙だった。

春菜は、母親の応援を力に、東京藝大の受験の決意を新たにした。そして、亡き父親の思いを胸に、ソリストへの道を、力強く歩み始めることを誓った。



第8話:再会、そして因縁


春菜は、受験対策のトランペットのレッスンに、ひどく落ち込んでいた。何度吹いても、指導された音が出せない。焦る気持ちばかりが先走り、音は硬質になるばかりだ。苛立ちと悔しさに苛まれたまま、帰宅の途、上野公園を通りかかったその時だった。

「あれ、春菜?久しぶり。こんなとこで何しているの?」

懐かしい声がして、春菜はハッと顔を上げた。そこにいたのは、中学時代の同級生である斎藤さいとう 美波みなみだった。美波は、春菜を見つけると、駆け寄ってきた。美波は、中学の吹奏楽部で春菜とトランペットパートでコンビを組んでいたが、ある日、些細なことで春菜とトラブルを起こし、部活を辞めてしまった。以来、春菜の心には、わだかまりが残ったままだった。

「美波、元気だった?……私は藝大受験のためのレッスンを受けにきているの」

春菜は、美波との再会に戸惑いながらも、言葉を絞り出した。

「へー、楽器続けていたんだね。私は高校では音楽はやらずに、元から好きだった絵を描くために美術部で頑張ったんだ。これでも県の美術展で入賞したんだよ」

「美波、絵が上手だったものね……」

春菜の言葉に、美波は少し得意げに胸を張った。

「それで絵の先生にも勧められて、藝大の美術科を受験するんだ。それでアトリエに来たんだよ」

美波は、春菜と同じ東京藝術大学の受験を目指していた。しかし、春菜は美波の言葉に、中学時代の苦い思い出が蘇り、複雑な表情を浮かべた。美波が、自分とのトラブルで部活を辞めてしまったこと。そして、そのことで、春菜は、美波に対して、ずっと罪悪感を抱えていたのだ。

「美波、あの時のこと……本当に、ごめん」

春菜が謝罪すると、美波は、少し驚いたように春菜の顔を見つめ、冷めた声で言った。

「春菜、もういいんだよ。あの時、私は、自分の実力に自信がなくて、逃げてしまっただけ。でも今は私には絵がある」

美しさ。完璧さ。美波の言葉は、春菜の心を深く揺さぶった。長年、心の中にしまい込んでいたわだかまりが、再び顔を出す。二人は、互いに、それぞれの道で頑張っていることを知った。目標は同じ藝大だが、音楽と美術。美波は中学時代の話題をすぐに切り上げてしまい、その少し頑なな様子に、春菜は藝大での生活に少し暗いものを感じた。


第9話:合格の光と、新たな闘志


冬の寒さが身に染みる季節。春菜は、入試本番までのレッスンに打ち込んでいた。

叔父の家に下宿しながら、トランペットの練習に没頭する毎日。中学時代の因縁の相手である斎藤美波との再会は、春菜の心にわだかまりを残したが、同時に「絶対に負けたくない」という、前向きな闘志も燃え上がらせていた。

そして、いよいよ迎えた入試本番。会場の緊張感は、全国大会の比ではなかった。皆がプロの道を志す、才能あふれる受験者たち。その中に、見覚えのある顔を見つけた。由那学園のトランペットパートを牽引していた、高橋たかはし ひびきだ。高校時代、由那学園の演奏を聴いて、その完璧な音色に圧倒された、春菜にとっての「ライバル」だった。まさか、同じ藝大を受験しているとは。春菜は、高橋の姿に動揺しながらも、これまでの努力の全てを込めて、トランペットを吹いた。

合格発表の日。春菜は、緊張で震える手でパソコンの画面を開いた。自分の受験番号を見つけた瞬間、春菜の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。合格。夢への扉が、確かに開かれたのだ。

安堵の涙が頬を伝う。しかし、その喜びは一瞬にして、新たな闘志へと変わった。合格者の中に、高橋響の名前を見つけたからだ。藝大入学は、始まりに過ぎない。これから、この天才と競い合わなければならないのだ。春菜の胸に、かつてないほどの焦りと、負けられないという強い思いが湧き上がってきた。

安中榛名高校の卒業式の日。

友理は国立音楽大学へ、杏菜は群馬大学教育学部音楽専攻へ。それぞれが目標通りに進路を決め、安堵の表情を浮かべていた。

卒業式を終え、別れを惜しむ三人の姿は、それぞれの夢に向かって歩み始める、希望に満ちた未来を象徴していた。

「春菜、大学でも頑張ってね!あなたのトランペット、楽しみにしてるから!」

杏菜が力強く春菜の肩を叩く。

「うん!杏菜も、頑張ってね!私も、大学で音楽の楽しさを、もっと見つけてくるから!」


春菜は、力強い笑顔で杏菜の言葉に応えた。それぞれの検討を祈って、三人はそれぞれの道へと旅立っていった。高校生活という一つの季節が終わり、彼女たちの新たな音楽の物語が、今、幕を開ける。


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