第10話:東京へ、新たな決意を胸に
夏休みが終わり、東京の空の下、春菜は再び藝大のキャンパスへと戻ってきた。
故郷で親友たちと過ごした日々は、彼女に多くの気づきを与えてくれた。
こんにゃくパークでの他愛ない会話、そしてそれぞれが音楽の道で奮闘している姿。一人で抱え込んでいた焦燥感は、友人たちの温かい言葉と、故郷の音色によって、少しずつ溶けていった。
(私は、吹奏楽の力強い音が好きなんだ)
春菜は、レッスン室に向かう道すがら、心の中で繰り返した。
篠田先生に言われた「吹奏楽の癖」を直すことに必死で、自分の音楽を見失いかけていた。しかし、故郷の音は、そんな春菜の心を救ってくれた。
完璧な音を出すことだけが、音楽ではない。聴く人の心を震わせる、自分の想いを乗せた、力強い音を出すこと。
それが、春菜の音楽だった。
春菜は、再びトランペットを手に取った。
無意識に高橋響の完璧な音色を追い求めていた以前とは違い、今は、ただ自分の音と向き合うことに集中していた。
そんなある日の午後、春菜が音楽棟の談話室で課題に取り組んでいると、一人の青年が、彼女に声をかけてきた。
「高峰さん、こんにちは」
そこにいたのは、アンテナショップのイベントに来てくれた、ヴァイオリン奏者の佐伯 琴音だった。
「佐伯さん!お久しぶりです」
春菜は、思わず声を弾ませた。彼が話しかけてきてくれたことに、胸が高鳴る。
「少し、お話してもいいですか?」
佐伯は、春菜の向かい側の席に座ると、静かに口を開いた。
「この間は、わざわざ秋葉原まで足を運んでくださって、ありがとうございました」
春菜がそう言うと、佐伯は少し照れたように微笑んだ。
「いえ、こちらこそ、素晴らしい演奏を聴かせていただいて、ありがとうございました。高峰さんのトランペットの音色には、温かさがある。それは、安中榛名という故郷と、そこで育った高峰さんの心から生まれるものだと感じました」
佐伯の言葉に、春菜は胸が熱くなった。
憧れの天才ヴァイオリニストが、自分の音色を認め、こうして話しかけてくれている。春菜は、佐伯が少し緊張しているように見えたことに気づき、意を決して言葉を続けた。
「佐伯さんのヴァイオリンの音も、すごく綺麗で……。でも、なんだか、近寄りがたい輝きがあるように感じました。あ、でも練習室越しでしか聞いたことないですが・・・」
春菜は、思ったことを正直に伝えた。佐伯は、春菜の言葉に、少し驚いたような表情を見せた。
「近寄りがたい……。そうかもしれません。僕は、幼い頃から、母に連れられてレッスンやコンクールの日々でした。僕にとっての音楽は、常に誰かと競い合い、完璧であろうとするものでした。だから、同年代の学生と、どうやって話せばいいのか、正直、分からなかったんです」
佐伯は、寂しそうにつぶやいた。しかし、その言葉の端々には、春菜との出会いをきっかけに、変わりたいと願う気持ちが滲み出ていた。
「でも、高峰さんとは、なぜか自然に話すことができます。それは、高峰さんのトランペットの音に、僕にはない温かさがあるからだと思います。だからこそ、僕は、高峰さんの音に、惹かれたんだと思います」
佐伯の言葉に、春菜は、彼の孤独と、音楽に対する真摯な姿勢を感じ取った。
春菜は、佐伯に、高校時代の吹奏楽部での思い出、そして、仲間たちと音を重ねる喜びを語った。
「私は、吹奏楽の力強い音が好きなんです。みんなで、一つのハーモニーを奏でる。それが、私の音楽でした」
春菜の言葉に、佐伯は静かに耳を傾けた。彼の瞳には、春菜が語る音楽の世界が、まるで映像のように映し出されていた。
「いつか、高峰さんと、音楽でご一緒できる日を楽しみにしています。あなたの音に、僕のヴァイオリンで、新たなハーモニーを奏でてみたいです」
佐伯の言葉は、春菜の心に深く響いた。それは、単なる二重奏の誘いではない。互いの音楽を通して、互いの心に触れ、新たな音楽の世界を創造していきたいという、佐伯の心の叫びだった。
この日、談話室で交わされた会話は、春菜と佐伯、二人の音楽と、そして二人の心を、深く結びつけていくことになる。そして、春菜は、自分と高橋響との間にある差が、決して技術的な差だけではないことを、改めて痛感する。
春菜の音楽人生に、新たな光が灯された。佐伯という天才ヴァイオリニストとの出会いは、彼女の音楽人生を、新たな方向へと導いていく。そして、その道は、故郷安中榛名と、東京という大都会を繋ぐ、架け橋となるだろう。
第2章 了




