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第8話:上野の空、交錯する旋律

佐伯琴音との出会いは、春菜の心に一筋の光を灯してくれた。


レッスンでの挫折感から、自分を見失いかけていた春菜にとって、佐伯の言葉は何よりも心強いものだった。

その言葉を胸に、春菜は再び練習室にこもり、ひたすら自分の音と向き合った。


無意識に高橋響の完璧な音色を追い求めていた以前とは違い、今は、ただ自分の音を、故郷の音色を、故郷の風を、故郷の心を音に乗せて、ひたすら自分の音を探求していた。


そんな春菜の姿を、美術棟のアトリエから、美子が静かに見つめていた。


その日の午後、美子の作業に付き合っていた美波は、スケッチブックを広げていた。


「ねえ、美子ちゃん」


沈黙を破ったのは、美波だった。彼女の声には、どこか緊張が混じっていた。


「うん?」


美子は、ノミを動かす手を止めずに、控えめに返事をした。


「この間、春菜と会ったって聞いたけど……。佐伯くんも来てたんだって?」


美子の手が一瞬止まった。美波の言葉に、美子の表情が少しだけ硬くなった。彼女は、静かに頷いた。


「うん、そうだよ。なんで、知ってるの?」


美波は、言い淀むように言葉を続けた。美子の視線は、美波の心の奥底を見透かしているかのようだった。


美波は意を決したように言った。


「予備校の時から、佐伯くんのこと、知ってたんだ。天才だって有名だったから。美子ちゃんは、佐伯くんと仲良いんだね」


美子の答えは、美波の問いをはぐらかすようなものだった。


「仲良い、というわけじゃない。ただ、彼は、春菜の音楽に興味を持っていたみたいで……。それで、協力してあげただけだよ」


美波は、スケッチブックから顔を上げ、美子をまっすぐに見つめた。


「佐伯くんは、春菜のことが、気になってたのかな?」


美子の答えは、美波の問いをはぐらかすようなものだった。


「さあ、それは、私にはわからない。でも、美波ちゃんは、どうなの?春菜のこと、まだ気にしてるんでしょ?」


美子の言葉に、美波の表情が一瞬で凍り付いた。美波は、スケッチブックを閉じ、絞り出すように言った。


「春菜は……変わってないよ。あの時、私を傷つけた、あのままの春菜だ」


「本当に、そう思ってる?」


美子の問いに、美波は言葉に詰まった。美子の視線は、美波の心の奥底を見透かしているかのようだった。

「春菜は、ずっと苦しんでいたよ。美波ちゃんがいなくなった後、ずっと、自分を責めていた。そして今、藝大という場所で、また、自分の音楽を見失って、苦しんでいる」


美波は、美子の言葉に、何も言えなかった。美子は、ノミを置き、美波の隣に座った。


「春菜は、自分の音楽を見失って、本当に苦しんでる。そのわだかまりを解くことができるのは、美波ちゃんしかいないんだから」


「私に……?」


美波は、戸惑いながら美子を見つめた。美子は、優しく微笑み、美波の肩にそっと手を置いた。


「うん。春菜は、美波ちゃんの絵に、何かを感じていたみたいだから。それに、春菜が抱えているわだかまりを解くことができるのは、美波ちゃんしかいないんだから」


美子の言葉に、美波の心は揺れていた。佐伯が春菜に声をかけたのは、偶然ではなかった。彼は、春菜の美貌だけでなく、その音楽にも惹かれていた。そして、その裏には、春菜と美波の因縁が、密かに絡み合っていたことを、美波はまだ知らない。


美波は、美子の言葉を胸に、静かに立ち上がった。彼女の心の中には、春菜への複雑な感情と、新たな芸術への衝動が、渦巻いていた。

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