第7話:新たな光、交わる旋律
佐伯琴音は、春菜のトランペットが収められたケースに目をやり、静かに微笑んだ。その表情は、普段のミステリアスな雰囲気とは異なり、どこか温かさに満ちていた。
「いつか、演奏でご一緒できるといいですね」
佐伯はそう言い残すと、一礼をして静かに店を後にした。その立ち去る姿は、まるで幻のようにすら思えた。
「春菜、佐伯琴音さんって、実際見るとカッコいいね」
美子が、まだ信じられないといった表情で春菜に言う。春菜の母もまた、興奮した面持ちで言葉を続けた。
「まさか、テレビで拝見する佐伯琴音さんに、こんな場所でお会いするなんて……。春菜、よかったわね、あなた。あなたの演奏を、ちゃんと見ていてくれたのね」
母は、感極まった様子で春菜の手を握った。しかし、春菜の心は、母や美子の言葉をただ上の空で聞いていた。天才ヴァイオリニストからの、予想もしなかった言葉。それが、春菜の心に深く響いていた。
帰りの電車の中、春菜はぼんやりと窓の外を眺めていた。都会の夜景が、光の粒となって流れていく。佐伯の言葉が、何度も頭の中で反芻される。「いつか、演奏でご一緒できるといいですね」。
(なぜ、私なんだろう……)
春菜は、不思議に思った。高橋響という、自分よりもはるかに優れたトランペット奏者がいる。それなのに、なぜ佐伯は自分に声をかけてくれたのか。それは、安中榛名の観光大使としての演奏を褒めてくれたからなのか、それとも……。
春菜は、自分のトランペットケースを膝の上に乗せ、そっと撫でた。藝大に入学してから、自分の音がわからなくなり、焦燥感ばかりが募っていた。中学時代の美波との確執、高橋響との圧倒的な実力の差。それらが、春菜の心に重くのしかかっていた。しかし、佐伯の言葉は、そんな春菜の心に、一筋の光を灯してくれた。
(もう一度、自分の音を、見つけなきゃ……)
春菜は、そう決意すると、深く息を吸い込んだ。
翌日、藝大の音楽棟。春菜は、レッスン室にこもり、ひたすら練習をしていた。無意識に高橋響の完璧な音色を追い求めていた以前とは違い、今は、ただ自分の音と向き合うことに集中していた。
その日の練習を終え、廊下に出ると、春菜は高橋響とすれ違った。
彼は、いつものように無表情で、春菜に目を向けることなく、通り過ぎていく。
その姿に、春菜は、ほんの少しだけ、寂しさを覚えた。
(私は、高橋くんの音を目指していたけど、高橋くんは、私の音なんて、気にも留めていなかったんだ……)
しかし、その寂しさとは裏腹に、春菜の心は、不思議と軽くなっていた。高橋という重圧から解放され、改めて自分の音楽と向き合えるようになったからだ。
そんな春菜の姿を、美術棟のアトリエから、美子が静かに見つめていた。
春菜は、まだ知らない。佐伯が春菜に声をかけたのは、偶然ではなかったことを。
そして、その裏には、春菜と美波の因縁が、密かに絡み合っていたことを。
春菜の音楽人生に、新たな光が灯された。
しかし、その光は、遠い過去と、まだ見ぬ未来を繋ぎ、春菜自身がまだ気づいていない、新たな物語を紡ぎ始めていた。




