第1章1〜4話
「安中榛名高校物語」の3人の登場人物、杏奈、春菜、友理のその後を描く物語。
この物語はトランペット奏者を目指す「春菜」を中心に描く、「上野の音楽家たち」である。
東京藝術大学に辛くも合格した春菜がトランペット奏者として育っていく様子を、新たなる登場人物を加えて描きます。
「春菜」の青春を一緒に体験ください。
※作者は現役の音楽教員ですが、楽器の扱いや、音楽大学の内容で訂正した方が良い点がありましたら、コメントいただけると幸いです。
第1話:鳴り響く、夏の音色
この物語は、春菜の高校三年生の夏から始まる。
安中榛名高校吹奏楽部の部室は、蒸し暑い夏の空気と、部員たちの熱気で満ちていた。壁には「全国大会金賞!」と書かれたスローガンが、昨年のまま掲げられている。
副部長の高峰 春菜は、そのスローガンをちらりと見上げると、パートリーダーとして、トランペットパートの練習を仕切った。
「はい、もう一回!息のスピードを一定に!もっと音に芯を持たせて!」
春菜の鋭い声が、練習室に響く。彼女の表情は、いつもの明るい笑顔ではなく、真剣そのものだった。その真剣な眼差しには、全国大会金賞という目標だけでなく、幼い頃からの夢である「プロのトランペット奏者」として、ソロの舞台に立つという、漠然とした将来への不安が同居していた。
コンクールまで、もう時間がない。部員たちは、春菜の指導のもと、ひたすらに音を磨き続けた。トランペットの力強い音、ホルンの温かい響き、クラリネットの澄んだ旋律。それぞれの音が、安中榛名高校吹奏楽部ならではのハーモニーを奏でていく。
そんな練習の合間、春菜は友人の音羽 杏菜に声をかけた。
クラリネットパートリーダーの杏菜は、真新しいクラリネットを手に、黙々と練習に打ち込んでいた。
「杏菜、最近、すごく良い音になったね。なんだか、前より響きが良くなったんじゃない」
春菜が素直な感想を伝えると、杏菜は少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう。やっとマイ楽器に慣れてきたとこ。でも春菜にそう言ってもらえると、嬉しいな」
春菜の横には、部長の鳴瀬 友理がいた。
ホルン担当の友理は、全国大会金賞という目標を誰よりも強く意識している。彼女のホルンの音色は、安中榛名高校吹奏楽部を、全国へと導く力を持っていた。
春菜は、そんな友人たちの姿を見て、改めて自分の置かれた状況を思い出した。
母子家庭で育った彼女にとって、プロの音楽家になる道は、決して平坦なものではない。楽器の買い替え、レッスン代、そして音楽大学に進学するための費用。現実の壁は、彼女の夢を阻むには十分だった。
(私は、どこまでいけるんだろう……)
春菜の心に、不安がよぎる。しかし、彼女はすぐにその不安を打ち消すように、大きく息を吸い込んだ。
「よおし、みんな!休憩は終わり!もう一回、最初から通すよ!」
春菜の力強い声が、部室に響き渡った。部員たちは、再び楽器を構え、練習を再開する。彼女のトランペットが、力強く、そして力強く、未来への希望を奏でていく。
春菜の心は、夢と現実の狭間で揺れ動いていた。しかし、彼女のトランペットの音は、決して嘘をつかない。その音には、彼女の音楽への情熱と、仲間たちとの絆、そして未来への確かな希望が詰まっていた。
第2話:栄光と、それぞれの道
全国大会当日。会場のホールは、観客と出場校の熱気で、まるで夏そのものが凝縮されたかのようだった。安中榛名高校吹奏楽部の面々は、真新しいユニフォームに身を包み、緊張と期待に満ちた表情で舞台袖に立っていた。春菜は、隣に立つ部長の友理と、クラリネットパートリーダーの杏菜と顔を見合わせ、大きく息を吸い込んだ。
「みんな、大丈夫。安中榛名らしい、最高の音楽を届けよう!」
友理の凛とした声が、部員たちを落ち着かせる。春菜は、その言葉に力強く頷いた。彼女のトランペットは、この日のために磨き上げられた、安中榛名の魂そのものだ。
そして、いよいよ迎えた本番。指揮台に立った梓先生のタクトが振り下ろされると、安中榛名高校吹奏楽部の音色が、ホールいっぱいに響き渡った。それは、技術的な完璧さだけでなく、一年間、苦楽を共にしてきた仲間たちの絆と、音楽への純粋な情熱が詰まった、唯一無二のハーモニーだった。
演奏後、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。部員たちは、達成感と安堵の表情で、深々と頭を下げた。春菜は、横にいた杏菜の手を強く握りしめた。
「やったね、杏菜!」
杏菜も、涙声で頷いた。その目には、全国の舞台で演奏できた喜びと、この感動を分かち合える仲間がいることへの、深い感謝が宿っていた。
そして、運命の結果発表。
「ゴールド金賞!安中榛名高校!」
その瞬間、部員たちの間に歓喜が爆発した。誰もが抱き合い、喜びを分かち合う。春菜の目からも、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、中学時代の悔しさを乗り越え、ついに夢を掴み取った、歓喜の涙だった。
栄光の余韻に浸る中、三人はこの夏が、高校生活という一つの季節の終わりに近づいていることを感じていた。
「春菜、友理。二人とも、本当にすごいよ」
杏菜の言葉に、春菜は少し複雑な表情を浮かべた。全国大会で金賞を獲った喜びは大きかったが、それは同時に、彼女の音楽人生の新たな始まりであり、今まで以上に厳しい道のりが待っていることを意味していた。
友理もまた、プロへの道の厳しさを痛感しているようだった。
「春菜、杏菜。私たちが歩む道は、これからもっと厳しいものになるだろう。でも、きっと大丈夫。安中榛名で得た絆と情熱があれば、どんな困難も乗り越えられるはず」
友理の言葉は、三人の心を温かく包み込んだ。
それぞれの道を歩み始める三人の若者たち。高校生活という一つの季節が終わり、彼女たちは、新たな夢に向かって、次なる旅へと踏み出していく。この輝かしい栄光は、彼女たちの未来への、力強い序曲となった。
第3話:ミス安中榛名の光と影
全国大会での興奮が冷めやらぬまま、安中榛名の町は新たな熱気に包まれていた。
それは、地域の誇りである安中榛名高校吹奏楽部が中心となって開催される、安中榛名音楽祭だ。今年が初開催ということもあり、町全体が期待と熱気で満ちていた。
音楽祭の最終日。メインイベントの一つである「ミス安中榛名コンテスト」の決勝が、熱気に包まれた会場で行われた。
吹奏楽部の副部長・高峰 春菜は、持ち前の明るさと華やかさで観客を魅了し、見事グランプリに輝いた。会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こり、春菜は満面の笑顔でそれに応えた。 一方、クラリネットパートリーダーの音羽 杏菜も準グランプリに選ばれた。
二人には、グランプリの栄冠とともに、一年間、安中榛名観光大使を務めるという大役が与えられた。 コンテスト後、春菜は喜びと同時に、観光大使としての責任の重さを感じていた。特に、東京の秋葉原にある群馬県のアンテナショップでのイベント出演など、東京での活動機会が増えることを知る。その瞬間、彼女の中で、漠然としていた東京への進路が、より現実的なものとして浮かび上がってきた。
しかし、春菜の胸には、もう一つの複雑な思いがあった。観光大使の任務を共に担うことになった友人、杏菜のことだ。杏菜は群馬大学への進学を希望しており、安中市の実家から片道1時間半をかけて通学しなければならない。それに加えて観光大使の仕事もこなさなければならず、心身ともに疲弊していくのは目に見えている。
ある日の夕方、二人は観光大使の仕事の打ち合わせを終え、安中榛名駅前のロータリーでバスを待っていた。杏菜の顔には、練習や課題、受験の疲れが色濃く滲んでいる。
「杏菜、無理してない?」
春菜が心配して尋ねると、杏菜は力なく微笑んだ。
「大丈夫だよ、春菜。でも、最近、クラリネットを吹く時間もあんまり取れなくて……」
杏菜の言葉に、春菜は胸が締め付けられる思いがした。プロの道を目指し、東京への進路を意識し始めていた春菜にとって、杏菜の苦悩は他人事ではなかった。
(杏菜は群馬で頑張って。東京のイベントとか、私一人で頑張るから……)
春菜は、杏菜が抱える重荷を少しでも軽くしたいと心から願っていた。そして、この決意は、彼女自身の東京への進路、そして「ソリスト」としての道への覚悟を、より一層確固たるものへと変えていくことになる。
安中榛名音楽祭の光と影。それは、春菜と杏菜の未来を、それぞれの方向へと導く、運命の始まりとなった。
第4話:夢と現実、そして母の想い
夏休みが終わり、高校生活最後の二学期、そして受験のシーズンが始まった。
春菜は担任との進路相談に臨んでいた。目の前には、彼女の成績と、全国大会金賞という輝かしい実績が記された書類が並んでいる。
「高峰の成績なら、群馬県内の公立大学も十分狙える。学費も安く、教員免許も取れる。将来を考えれば、堅実な選択だろう」
担任は、母子家庭という春菜の家庭事情を考慮し、公立大学への進学を勧めた。
母親がひとりで自分を育ててくれたこと、そしてこれまでのトランペットのレッスン代や楽器の費用に、どれだけの苦労をかけてきたか。
春菜は、担任の言葉に頷きながら、現実の重さを痛感していた。 しかし、彼女の心の中には、安中榛名音楽祭でグランプリを獲った時の光景が鮮やかに蘇っていた。東京でのイベント出演を知った瞬間、漠然としていた「ソリストになる」という夢が、手の届く現実として浮かび上がってきたのだ。
「先生、私は……東京藝術大学を受験したいです」
春菜の言葉に、担任は驚いたように目を見開いた。
「東京藝大……日本で一番の難関大学だ。だが、国立だから授業料は安い。君の家庭の事情も考慮すれば、私立の音大よりは現実的な選択肢だろう」
担任の指摘は、春菜の心を深くえぐった。彼女が密かに抱えていた、国立大学ゆえの学費の安さという希望に、担任は気づいていたのだ。
(藝大の学費が、公立大学よりも安いわけではない。でも、私立の音大に比べれば、国立大学の学費はかなり安い……)
春菜は、担任の言葉を反芻していた。しかし藝大の入試は、他の大学とはレベルが違う。
入試対策だけでも膨大な練習時間と勉強時間が必要だ。アルバイトをする時間など、あるはずがないだろう。春菜は、担任の言葉を最後まで聞くことなく、俯くしかなかった。
その日の夜、春菜は自宅のリビングで、母親に東京藝大を受験したいと打ち明けた。
母親は、春菜の言葉に驚きはしたが、何も言わずに、ただ静かに話を聞いてくれた。
春菜は、東京での観光大使の活動、そしてソリストへの夢を熱心に語った。
「でも、お母さんには、心配ばかりかけてしまうかもしれない……」
春菜がそう言うと、母親は優しく微笑んだ。
「春菜。あなたは、お父さんが亡くなってから、ずっと頑張ってきた。お母さんを助けてくれたし、自分の夢も決して諦めなかった。お母さんは、そんなあなたのことが、何より誇りだわ」
母親は、静かに、しかし力強い言葉を続けた。
「お父さんはね、いつも言っていたの。春菜には、トランペットを吹く才能があるって。そして、誰よりも音楽を愛する心を持っているって。その才能と情熱を、お金のことで諦めさせたくない。だからね……」
母親は、戸棚から一冊の通帳を取り出した。
「これは、お父さんが春菜のために残してくれた、最後の贈り物。春菜名義でお父さんが貯めていたのよ。あなたのレッスン代や、入試の費用に、使いなさい。あなたの夢のために、今は甘えなさい」
母親の温かい言葉と、亡き父親が遺してくれた通帳に、春菜の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、不安や迷いから解放された、安堵と感謝の涙だった。
春菜は、母親の応援を力に、東京藝大の受験を決意した。そして、亡き父親の思いを胸に、ソリストへの道を、力強く歩み始めることを誓った。




