昼休みのベンチ
「お昼休みですか?」
その声に、私は読んでいた文庫本から目を上げた。
細い木洩れ日がベンチに差し込んでいて、紙の上に薄い葉の影が揺れていた。春の陽光はあたたかく、読書にはもってこいの午後だった。
立っていたのは、少女のように真っ白なワンピースを着た女性だった。どこか場違いな装いだったが、違和感というほどでもない。まるで公園の景色の一部として、初めから存在していたかのような風情があった。胸元に小さな金のブローチが光っている。
「ええ、まあ。昼休みで、少しだけ抜けてきたんです」
そう答えると、彼女は頷いて、私の隣に静かに腰かけた。ベンチは広く、もう一人が座っても狭くはない。しかし彼女は、不思議ととても遠くにいるように思えた。まるで、同じ時間の中にいない人のようだった。
「会社の近くなんです、この公園。昔からあって、ほとんど誰も来ないんですよ」
私は言い訳のように続けた。話しかけられることに慣れていない。まして、会社の人間でもない、どこか非現実的な人間から声をかけられるなど。
私は黙って、自分の足先に広がる芝生を見つめていた。風が枝を揺らし、鳥の鳴き声が、遠く、聞こえたり、聞こえなかったりした。
「静かですね」
ようやく、彼女が呟く。私は小さく笑って、頷いた。
「静かなのがいいんです。職場はいつも人の声が飛び交っていて、頭がざわざわしてしまう。でもここは……違う」
彼女はまた頷いた。長い睫毛が、影のように頬に落ちていた。よく見ると、彼女の目は不思議な色をしていた。琥珀のように陽に透けた石のようだった。
「あなた、疲れているのですね」
彼女の言ったそれは、問いではなく、確信のようだった。私は思わず言葉を詰まらせた。けれど、否定はしなかった。誰にも言ったことがない。言うつもりもなかった。だけど彼女の声には、さざ波のような力があって、心の奥に沈んでいたものを浮かび上がらせる。
「仕事が辛いとか、人間関係とか、そういうんじゃないんです。ただ……朝起きて、顔を洗って、会社に向かって、帰ってきて、眠って、また起きて……そうやって生きていると、自分の輪郭がだんだんぼやけてくるような気がするんです」
それがどういう状態なのか、うまく説明できなかった。でも彼女は静かに耳を傾けてくれていた。私は話しながら、自分がどれほど長いあいだ、言葉を飲み込んできたかに気づいた。まるで口の中に、細いえのきが長いこと挟まっていたみたいだった。
風が止まり、木の葉の影が一瞬だけ静止した。蝉の声が、どこからか途切れがちに聞こえてきた。初夏の入口だった。
彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。影が動き、彼女の目が陽光を飲み込んだ。
「私は、死神です。あなたを迎えにきました」
言葉は、とても静かだった。木洩れ日と同じくらいのやわらかさで、私に降りてきた。脅かすでも、誘うでもなく、ただ、告げるだけ。
心臓が、少しだけ早くなった。けれど、驚きや恐怖ではなかった。むしろ私は、ようやく何かを理解したような、奇妙な安堵を感じていた。
「そうですか」
私は、ほんの少しだけ笑った。笑った自分に、驚いた。
「思ったより、穏やかなんですね。死って」
彼女は頷いた。その動作もまた、永遠に繰り返されてきた儀式のようだった。
「穏やかでなければいけないのです。冷たい水に沈むのではなく、午後の陽だまりの中に溶けていくように」
私はもう一度、伸ばした足の先の芝生を見た。まるでずっと昔からそこにあった風景のようだった。誰かがいるわけではなく、何かが起きているわけでもない。ただ、草が風に揺れている。その揺れ方のなかに、すべてがあった。
「死ぬって、どういう感じですか?」
私は尋ねた。彼女は少し考えるように目を伏せ、それから言った。
「目を閉じて、子供のころの夢を思い出すようなものです」
私は頷いた。うまく想像はできなかったが、怖くはなかった。
「じゃあ、そろそろですか?」
「ええ。でも、あなたがまだ行きたくないなら、それでも構いません。私は、ただ迎えに来ただけ」
私は、しばらく考えた。ページを閉じた文庫本が、手の中で重みを失っていた。風は、さっきよりも少しだけ涼しくなっていた。昼の終わりが、遠くでこちらを見ている。
「……この本読み終わるまで、ここにいてもいいですか?」
「もちろんです」
彼女もまた、芝生の向こうを見つめた。私は、目を閉じて、深く息を吸った。
その空気の中に、小さな安らぎがたくさん混じっていた。生まれて初めて吸った空気のような、そんな気がした。