表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

昼休みのベンチ

作者: 立津テト

「お昼休みですか?」


 その声に、私は読んでいた文庫本から目を上げた。

 細い木洩れ日がベンチに差し込んでいて、紙の上に薄い葉の影が揺れていた。春の陽光はあたたかく、読書にはもってこいの午後だった。


 立っていたのは、少女のように真っ白なワンピースを着た女性だった。どこか場違いな装いだったが、違和感というほどでもない。まるで公園の景色の一部として、初めから存在していたかのような風情があった。胸元に小さな金のブローチが光っている。


「ええ、まあ。昼休みで、少しだけ抜けてきたんです」


 そう答えると、彼女は頷いて、私の隣に静かに腰かけた。ベンチは広く、もう一人が座っても狭くはない。しかし彼女は、不思議ととても遠くにいるように思えた。まるで、同じ時間の中にいない人のようだった。


「会社の近くなんです、この公園。昔からあって、ほとんど誰も来ないんですよ」


 私は言い訳のように続けた。話しかけられることに慣れていない。まして、会社の人間でもない、どこか非現実的な人間から声をかけられるなど。


 私は黙って、自分の足先に広がる芝生を見つめていた。風が枝を揺らし、鳥の鳴き声が、遠く、聞こえたり、聞こえなかったりした。


「静かですね」


 ようやく、彼女が呟く。私は小さく笑って、頷いた。


「静かなのがいいんです。職場はいつも人の声が飛び交っていて、頭がざわざわしてしまう。でもここは……違う」


 彼女はまた頷いた。長い睫毛が、影のように頬に落ちていた。よく見ると、彼女の目は不思議な色をしていた。琥珀のように陽に透けた石のようだった。


「あなた、疲れているのですね」


 彼女の言ったそれは、問いではなく、確信のようだった。私は思わず言葉を詰まらせた。けれど、否定はしなかった。誰にも言ったことがない。言うつもりもなかった。だけど彼女の声には、さざ波のような力があって、心の奥に沈んでいたものを浮かび上がらせる。


「仕事が辛いとか、人間関係とか、そういうんじゃないんです。ただ……朝起きて、顔を洗って、会社に向かって、帰ってきて、眠って、また起きて……そうやって生きていると、自分の輪郭がだんだんぼやけてくるような気がするんです」


 それがどういう状態なのか、うまく説明できなかった。でも彼女は静かに耳を傾けてくれていた。私は話しながら、自分がどれほど長いあいだ、言葉を飲み込んできたかに気づいた。まるで口の中に、細いえのきが長いこと挟まっていたみたいだった。


 風が止まり、木の葉の影が一瞬だけ静止した。蝉の声が、どこからか途切れがちに聞こえてきた。初夏の入口だった。


 彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。影が動き、彼女の目が陽光を飲み込んだ。


「私は、死神です。あなたを迎えにきました」


 言葉は、とても静かだった。木洩れ日と同じくらいのやわらかさで、私に降りてきた。脅かすでも、誘うでもなく、ただ、告げるだけ。


 心臓が、少しだけ早くなった。けれど、驚きや恐怖ではなかった。むしろ私は、ようやく何かを理解したような、奇妙な安堵を感じていた。


「そうですか」


 私は、ほんの少しだけ笑った。笑った自分に、驚いた。


「思ったより、穏やかなんですね。死って」


 彼女は頷いた。その動作もまた、永遠に繰り返されてきた儀式のようだった。


「穏やかでなければいけないのです。冷たい水に沈むのではなく、午後の陽だまりの中に溶けていくように」


 私はもう一度、伸ばした足の先の芝生を見た。まるでずっと昔からそこにあった風景のようだった。誰かがいるわけではなく、何かが起きているわけでもない。ただ、草が風に揺れている。その揺れ方のなかに、すべてがあった。


「死ぬって、どういう感じですか?」


 私は尋ねた。彼女は少し考えるように目を伏せ、それから言った。


「目を閉じて、子供のころの夢を思い出すようなものです」


 私は頷いた。うまく想像はできなかったが、怖くはなかった。


「じゃあ、そろそろですか?」


「ええ。でも、あなたがまだ行きたくないなら、それでも構いません。私は、ただ迎えに来ただけ」


 私は、しばらく考えた。ページを閉じた文庫本が、手の中で重みを失っていた。風は、さっきよりも少しだけ涼しくなっていた。昼の終わりが、遠くでこちらを見ている。


「……この本読み終わるまで、ここにいてもいいですか?」


「もちろんです」


 彼女もまた、芝生の向こうを見つめた。私は、目を閉じて、深く息を吸った。

 その空気の中に、小さな安らぎがたくさん混じっていた。生まれて初めて吸った空気のような、そんな気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ