紫のクロッカスの国
枯葉を僅かに残すだけの、木々の枝が揺れては凪ぐのを繰り返す音だけが、窓を隔てて遠くに聞こえてくる。未来の星たる少年たちの住まう『城塞』(またの異名を『礼拝堂』)を照らす月は、L吹の上に吹き荒れる嵐を従えている主であるかのように威光を溢しており、沈む気色がない。夜間課せられている自習を要領良く終えた福永は、電磁気にまつわる数々の公式から得られる想像を高速に広げながら、Jのユーフォニアムに導かれたL吹の、精緻すぎる故に狂ってしまった定則、満ち足りた演奏と、麻野の拒絶を絶えず考察し続けていた。福永以外誰も残っていない、消灯時間目前の自習室には、彼に愛らしくも明朗なリーダー像を求める他者はいない。先刻彼は努めて普段通りに、小野寺を伴って麻野に夕食への同席を誘ったが、フルートのケースを肩から下げた学園の麗人は右手の指の流れだけで固辞して見せたのである。
(今日のところは迷宮入りでも、おおよその答えは見えている。信じられないことばかりだけど……)福永が連なり流れていく計算問題に思考を割ききれないのは、呼吸に合わせてじわじわと胸中に広がってくる苦々しい後悔のためであった。(麻野にあんなこと言うんじゃなかった)ユーフォニアムの福音を世界にもたらすJという少年は、L吹が奏でる音の傍に偏在して調和している存在であり、それを吹奏楽という概念に誰より敬虔な麻野に向かって解き放つことは、大きな感情の錯綜と引き換えにL吹を急速に新たなステージへと押し上げた結果となった。学園で過ごす聖夜の美しい思い出、伝説を創り続けてきた雲雀会に関する何気ない雑談のうちに、麻野が不意に見せた、絶対的な自信の秘められた目をゆっくりと見開きする、気品と余裕すら感じさせるような仕草を思い返した福永は、どこかで誤った道筋を通っていた数式を、上からシャーペンで線を引いて雑に消すと、深く息をついた。
「勉強熱心なのはいいけど、消灯時間は守れよ、福永」
「大川先生。僕がそんな優等生なわけないでしょ?」
「そういうことにしておくか。野暮なことは言わないさ」
教師が寮監を務めるL高において、こうした『逢引』の手段は時々秘密裏に生徒によって実行されることがあった。つまり、福永は意図的に自習を程よく切り上げられなかったという理由をつけて、生徒指導に来た大川と二人で話す機会を生み出したのである。教材研究をそのついでにしているという対外的なポーズのために、担当教科である数学の学術書を先頭に置き、その下にルミコンで使用する予定の総譜を抱えている大川もまた、福永から発せられた無言の招集を理解しているかのようである。彼は旧時代の西洋趣味の色濃いこの空間によく調和した、重たい椅子を引いて福永の隣の席につくと、崇高なものを迷いなく覗き込める、若さの漲る瞳に幾許かの優しい靄を流して、彼の指揮棒の先を幾度となく導いてきた指導者の少年の、どこか沈痛な表情を見つめていた。
「今日の合奏は、本当に良く出来てたよな。俺もトロンボーン持って混ざりたいくらい」
「先生なら本当にそうしそうですね」
同級生と教室で他愛もない話をしているかのような錯覚を時折福永に生じさせる、大川の気取らない微笑は、袋小路に迷い込んだ福永の思考を慰める効果があった。
「前よりずっと、息苦しくないんだ。今回の『美中の美』は。でも、Jの心だけが、そこにないような気がして」
「あの子は、僕たちの知らないところに行ってしまうんでしょうか」
「……そんなこと、させない」
幾度となく開いては閉じてきた、渦中のマーチの総譜を眼鏡越しに読み入っている大川の横顔には、天使たちの歩いて行く道の先の安寧を祈っているかのような真剣さがあった。彼は打って変わって静謐な青年の顔をして、個人で集めた編曲者の違うバージョンの楽譜も机に広げていた。時間を切り取った絵画のようなこの光景は、大川が過去に置いてきた傷跡と向き合う覚悟を真に決めているか、指揮棒を振る度に再び精神を蝕まれ尽くしてしまうのではないか、とひとりの少年がするには不相応の行き過ぎた心配を捨て去り切れなかった福永にそれを強く内省させるには充分すぎる衝撃があった。彼は直感的に湧き上がる衝動に身を任せて、細身の大川の肩に触れそうな距離から、彼と同じ高さの目線で総譜をひたすらに追った。編曲者によって微妙に異なるそれぞれの世界を見渡しながら、二人が最後に帰ってきたのは、L吹が繰り返し見た未完成の夢であった。
「福永や皆が、俺のことを信じてくれたから。あの時と同じ結末にはしたくない。俺は今度こそ――仙道を、Jを救いたい」
「……僕も同じ気持ちです」
仙道を永久に失うかもしれないという大いなる恐怖から、『事件』以降彼の名前を口にすることすらできなくなっていた大川だったが、彼は指揮台から見渡す、自らの楽器へ想いを託す少年たちの姿に多くの勇気を貰っていたのである。(先生、麻野のことも……今のL吹なら、出来るかもしれない。いや、そうしなくちゃ)大川の決意を受容し、暖かい気持で胸中を満たしているのを確かに感じた福永は、L吹の海路を切り開く指揮者に一言答えるだけで精一杯であったので、努めて普段の調子で大川の背中をばんと叩いた。
……人の気配のまばらな日曜日の学園は、微睡んだ優しい空気に満ちている。複雑に絡み合った植物の意匠の施された、赤く錆びた正門に背を預けて立つ若い守衛の目礼に、伏し目がちに慎ましく礼を返した麻野は、白光を受けながら、空のゆりかごのように佇む学園を発った。Jの奏でる音の波形から確証を得た麻野は、彼がこの箱庭の世界で初めて巡り会った、かの鮮烈な美しい天使と会う約束を取り付けていたのである。日曜日に度々行われる仙道との逢瀬は、彼が医者から継続して処方されている薬を過剰摂取していないかとか、何か精神錯乱の傾向を悪化させていないかとか、そうした観点から麻野が博愛主義的に行うものであったが、この日の麻野は時計塔から墜落した天使を介抱する看護者としてではなく、L吹の空に今もその羽ばたきの余波を残す存在に決闘を挑むかのような心持で駅への歩みを進めていた――のだが、彼の純粋な闘志を夢路でかき混ぜていた、風車の見せる逆方向の回転が気勢を半ば強制的に平滑させていた。Jを少年たちの与り知らぬ天上へ連れ去ってしまった仙道への憤りが麻野の滑らかな線の脚に力を与えていたのだが、彼が過剰に音楽的な理想をJに希求した罰を示しているかのような気持が、麻野の移ろう心境の中に迫って来るのである。学園と意匠の思想の源泉を共有している、整然とした直線を際立たせた、人形の家のようなモダンな駅舎の眼下には、行き交う人間の足音を吸い込んでしまう御影石の広場がある。循環しては迸る噴水の水音に耳を澄ませている一人の青年の姿が目に留まった麻野は、あるベンチの一人分空いているスペースに黙って座った。青年――仙道は不可視の主に祈るように組んでいた両手の先に、影の濃い瞳を向けて静止したまま、麻野の名をどこか甘さのある響きで口中に呟いた。
「寒くないか? それ」
仙道は麻野が整えていたカシミヤのストールの巻き方を、自分が好む方式にさっと直してしまうと、流れる時間を瞬間止めてしまうような、危険な微笑を向けた。仙道が時にこうした予測のつかない行動をすることはよくあることであったが、麻野は終ぞそれに慣れることはなかったのである。彼が無意識に呼吸のリズムを狂わせていることよりも、フルートを構えている時の、あの研ぎ澄まされた光を内包した瞳が自身を一心に覗き込んでいることに強く興味を駆られた仙道だが、もう戻ることのできない、不可逆の青春のモンタージュを鮮烈に思い起こして、麻野と分かち合っているこの一時こそが虚構であるという錯誤に陥っていた。そんな仙道を曇天の冬の朝の風景に引き戻したのは、両肩に感じた微熱である。
「Jに何をしたんですか? Jの演奏は、まるで……」
「……ああ、Jか」
仙道の声色は親しい同胞に対するものであり、仙道とJを繋ぐ一つの使命の行きつく先を見通している深長なものでもあった。麻野の短い言葉の中に隠れている激情には、魔性を持ちながらどこまでも自由なJという少年への憧れ、かの天使が仙道と同一化していくことへの拒絶がありありと込められていた。自己の世界にユーフォニアム以外のものが存在しないという狂気に意識を支配されていた仙道の傍に麻野が最後まで寄り添っていたのは、仙道にとって大いなる救済であったことは確かだった。彼が魂の深部を唯一曝け出せる相手である麻野が仙道の存在以上に大切に心の奥底にしまい込んでいるらしい肖像、その魅惑の眼差しにざらつくものを不意に覚えた仙道は、麻野の指先に込められた非難をほとんど目線の合図だけで外させてしまうと、光の薄い空を仰いだ。
「俺の楽譜を渡したんだ。あの子なら、俺が見られなかった世界に辿り着けると思って」
「そう、確かにJは完璧だった」
「それの何が悪い?」
微笑と共にそう断じる仙道は、Jが自身と同じようにユーフォニアムや吹奏楽の神に殉じることを望んでいるかのようであった。麻野が確信していた通りの、予定調和の真実が明らかになっただけでは、彼の戸惑いは宙に浮かんだままであった。幾度となく繰り返される合奏の中で、時に仙道が見せる少年らしい残酷さのある勝気な横顔は、吹奏楽という世界でしか生きられないユーフォニアムと運命的に惹かれ合ってしまった結果であった。フルートというポピュラーな楽器に自身を捧げたために、それを真に理解できない負い目が、麻野に言葉を慎重に選ばせる原因となっていた。(俺も仙道先輩も、Jを吹奏楽の天才としか見ていなかったのだろうか。だからJは、それに応えようとして……)造形された石に囲まれた、彩度の低いこの空間にも、Jがいつか飛ばしていた色とりどりの風船が流れついてくる空想、世界が色づく天啓のような感覚を、仙道にも分かってもらえたら、と麻野は願わずにはいられなかった。彼はただかの天使を想うままに言葉を発していた。
「JがJでなければ、どんなに優れた演奏をしたとしても、意味はない。そう思います」
「麻野には、Jが……」
噴水を取り囲む花々だけが少年たちのすれ違った会話を聞き届けている。頭がひどく痛むために額を抑えている仙道の、力無い指が描いている深い諦念は、ユーフォニアムを最も輝かしいものに出来なかったことへの贖罪そのものであると麻野は長らく慮っていた。しかし、降り始めの雪のように地へ吸い込まれて消えた仙道の言葉の最後には、彼が飛び立った時に抱えていた、交換されることのなかった秘密が隠されていた。Jとの邂逅以来、どこかナイーヴな性向を増した麻野と過ごす時間を重ねる度に強くなる後悔は、どうあっても埋められることはないのだと、仙道は麻野の澄んだ瞳に悟ったのであった。
「……ルミコンに行く決心がついたんだ。あの曲で二人が出す答えを、俺は知りたい」
仙道の決断は、時間を超えた少年たちの繊細な関係性において、『敗北』を認めたくなかったために生まれたものだったかもしれない。それでも彼は、託した夢の続きと向き合う矜持を失うことはしなかったのである。かつての麻野なら、仙道が自身に寄せる親愛に、肩を抱いたりして応えていただろうが、彼は迷いを振り払った仙道の、昔時を思わせる凛とした声色の宣言に、情調のあるわずかな頷きを返した。
恋人同士とも、語らい合う親友とも異なる二人の少年たちの傍を、いくつかの影が通り過ぎて行く。その雑踏に混ざって遠くから音も無くやって来る天使の足音を聞き取れたのは、高い精度で類似した性質を持つ青年だけであった。再び起こったこの無言の邂逅は、噴水の水音に遮られて対話の形を取ることはなかったが、天使たちは確かにお互いの存在を感知し、魂の内に二人は再び手を取ったのである。