表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

譜面戦術

 ある日の放課後、日本史の補習への招集を蠱惑の微笑で煙に巻くことで辛うじて免れたJが、悪びれた顔など微塵も見せずに、低音パートの根城である数学準備室へと向かうと、開け放しになっている扉の奥から粒だった種々の楽器の音がさながら天の川のように流れ出ていた。その存在からして管楽器とは一線を画す、4つの弦をチューニングしている城戸の奏でるコントラバスの音色はいつもにも増して冷酷なほど正確無比であり、その音色の緊張を覆うように、重厚ながら優しいチューバの、譜面の辿る足取りを慎重に確かめているような演奏は小野寺によるものであることがJには思考の挟まる余地もなく直感的に理解できた。幸福で静かな日常の象徴であるこれらの音の連関に沈み込むようにして現れたJの瞳から漂っている色に、意思に反して解析をかけずにいられない城戸は、その心中から湧き上がる自己嫌悪をどうにか押し殺しながら、彼のかけがえのない友人に、造形の隠された親しさで語り掛けた。


「J、早かったね」

「……ああ」

「僕のノート貸そうか?」


 Jの城戸に対する不規則な瞬き、無言の返答は、(いや、補習に『なりかけた』だけだから大丈夫)という楽観的な遠慮とも、(城戸は俺のことばっかり心配しすぎだ)という氷解しきらない真実を捉えているという牽制ともとれるものであった。その暗喩を機敏に感じ取って気圧された城戸のコントラバスの音色に、一瞬不自然な揺れが生じたのと同時に、Jという少年の全てが詰まった譜面帳が、彼の小さな手から落下し、ページがぱらぱらと捲れる音が嫌に目立って響いた。大きなチューバのベルに左側の視界を狭められながらも、どこか哀切の漂う優しい不和の目撃者となってしまった小野寺の、調和を良しとする彼の人柄と、ロータリーバルブとが織り成す暖かな拍動が数学準備室に満ちていくと、何事も無かったかのように練習を再開しようとしている城戸の抑圧された表情にも若干の和らぎが見えるらしかった。


「俺も城戸ちゃんに勉強教えてほしいなあ」

「基礎的なところしか、見られないですけど」

「期末前に低音パートみんなで勉強会するか、J」


 大川が彼の趣向を発揮してL吹へ次々に配布したクリスマス・ポップスやヒットソング・メドレー、珠玉の吹奏楽オリジナル譜面から想像される、光溢れる世界に思いを馳せているJにとって、小野寺による何気ない日常への誘導は、深い海の底にいる少年に地上からはためかされた手のようで、言葉だけが浮遊している錯覚を生じさせるものであった。それでも彼は口元を緩やかに動かして、何か小野寺に呟こうとしたが、声を出せない小動物のようにどこか当惑した目線を彷徨わせていた。Jが譜面帳をめくる手と多幸感に先導される思考を止めたのは、『美中の美』の箇所である。彼が仙道から託された譜面と、大川から新しく配布されたJ自身の譜面とをしばし見比べて、ユーフォニアムを構えて、マウスピースに息を吹き込もうとした瞬間――これからその演奏を聞いた人間の心を制圧する予感を与える、華麗な覇者の決意が、楽器の鈍色に反射して、Jを吹奏楽の神に仕える天使に変質させてしまったのである。


 彼は急激に大人びた、血色の褪せた頬をしていて、白雪に囲まれた無音の土地に一人立っているかのような、孤独な心境であった。装飾音に彩られて華々しく始まるメロディー、クレッシェンドとデクレッシェンドに乗せて勇壮に流す連符、マーチ全体を高尚なものにするスラーの技巧、それぞれを病的な速度で昇華させている、この音の跳躍の中に、夕暮れに霞み始めた学園の景色の一点を見つめている小野寺のくぐもった小さな声が彼の寂寞と共に紛れ込んでいた。


「……なあ、今日も鳴らないな。時計塔の鐘」

「そういえば。でも、あの場所って――」


 小野寺よりも深刻で、微弱なトーンで諫めるように囁き返した城戸は、ユーフォニアムの天使たちにまつわる『時計塔』というワードをとにかくJの耳に入れたくないという焦りがあった。彼はJと仙道が邂逅した夜に感じた二人の共通項が、数学準備室を飛び交う音の奔流の中、時計塔から飛び立って墜落した仙道の背中の上に腕や脚を曲げたJが折り重なっているという、退廃的な結末への想像に変化しているのを知覚していた。(J、君は……)城戸のやるせない問いは循環しており、Jが次々に繰り出す新しい思想の表現によって、城戸の思索など容易に外界へ流されてしまうのであった。


 ……『くるみ割り人形』のアレンジメドレーから始まったこの日の合奏は、指揮棒タクトを握る大川の予想を裏切る晴れやかな出来栄えであった。バレエの名曲を通して理解される、L吹の奏でる世界を飛躍させている、繊細ながらエレガントな熱情に溢れる空気の要因は、危険なきらめきの乗った、瑞々しい唇に軽く人差し指で触れているJの存在そのものであった。自身の指導力とL吹の演奏が拮抗していく感覚に時間を超えて陥った大川は、意図的に演奏の全体を俯瞰して調整する指導をしながらも、『美中の美』がJのいるL吹の中でどのように彩られるのか、高鳴る鼓動を抑えるのに必死だった。少年たち以上に楽譜を追うのに夢中になっている大川に、普段なら同調して楽し気にトランペットを構える福永が、険のある顔つきで指揮棒の先を見据えている。(綺麗すぎる。何かが、狂っている。麻野や小野寺は気付いているのか?)福永の危惧は、大川はおろか、トランペット・パートの面々が指揮台から遠く離れて座るが故に、彼が特に信頼する友人と交差することの無いまま、合奏曲目があのマーチに切り替わることになったのである。


 『美中の美』は、先程までの『くるみ割り人形』の熱狂を残した状態で開始されたが、Jの細い線をした指によって操られるユーフォニアムは、確かに天啓を受けたかのように、この音楽室に佇んでいた。彼はこの半身とも呼べる楽器を以って、木管楽器やコルネットと同じメロディーラインを導き、オブリガードの旋律に潜り、トリオのpピアノを奇跡的なバランスで描き出した。(このマーチが、ユーフォニアムという楽器が、俺に求めているのは)譜面の前半におけるJの戦術は、彼が指揮棒タクト以上にその眼差しを注いでいる、麻野のフルートの奏でる虹に触発されて生み出されたものである。細かな音の一つ一つにも色が乗っていて、その色の並びが調和を保って存在している理想郷が、麻野との吹奏楽を通した関係によって、より確固たるものとして築かれた実感が、Jにはあった。しかし、この曲の持つ、解き明かされないままになっている最大の謎が、トリオの後の力強い転換点である。


 (二人の俺、二つの譜面……ここに来ると、自分が、分からなくなる)この区間では、一転して金管楽器として力強い演奏を求められる。オクターブを滑らかに移動した後、アクセントのついた音符で着地すると同時に、フルートやクラリネットのきらきらとしたメロディーが現れた後、トロンボーンを加えたトリオのシーンが再現され、楽譜は終端へ向かっていく。仙道がJに渡した楽譜には、緻密な解釈が書き込まれていたが、『転換点』の部分だけがぽっかりと空白になっていたのである。トロンボーンのスライドがJの肩を背後からかすめながら、彼と同じメロディーを堂々と吹き鳴らすとき、Jは自分だけがL吹という箱庭の上に浮いているという錯覚を起こしていた。二つの異なる自我の並立を求められることは、つまるところ少年の膨張した意識を破壊し得るだけの動力があった。


 (俺は、『J』でいなくちゃ……)彼はユーフォニアムと共にある幸福を失わないように、自己を引き裂かれないように、技巧と理論で楽譜を解釈することを試みた。音の強さに絶妙な均衡を取りながら、迷いなく指揮棒タクトを振る大川にそっと寄り添って、彼の理想を創り上げようとするJは、少年らしさを冬の葉の色のように失いながら、天上へと還って行く天使であるかのようであった。


「――今日のJは、Jじゃない」

 指揮を大掛かりに結んだ大川が、今日のL吹に対して抱いた、胸に迫る想いを伝えようとしたとき、色素の薄い瞳に絶望を刻みながらそう断言したのは、麻野である。Jの奏でる軌跡を彼と共に追いかけていた麻野には、天使の変容が完遂された先の景色――それを共有している、Jと限りなく近い存在の名が、この時はっきりと繋がり、遠い星同士が星座となったのである。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ