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ベランダに風車の誘い

 大川から直々に『美中の美』の譜面がL吹に配布されるまで、日数はほとんどかからなかった。この曲と仙道のもたらした悲劇のために、公式戦コンクールの時期に休職し、指揮者としての使命を果たせなかった大川の真摯な謝罪と、それでも今いる部員たちと共に未来へ行進していくという熱い覚悟に応えるように、福永がざわつきと動揺を隠さない二年生たちへ理想的な『演説』を行い、蔓延する不安を鎮めてしまったのである。麻野は一切のリアクションを取ることなく静かにその様子を見守っていたが、大川の精神状態を慮って、内心この最終決定に納得していないのを全く他人に悟らせず、混乱を最小限に抑える福永の立ち回りには舌を巻くばかりであった。


 大川がやはり部員たちに受け取ってもらえないかもしれない、と強い力で握りしめて折り目を付けていた全パート分の個別の譜面を福永は(僕たちが、必ず成功させます)と暖かな光の灯った眼差しと共に受け取ると、大川は今自身が見ている光景が真実であることを確かめるように、黒縁の眼鏡を外して譜面を各パートリーダーに配って回る福永の背中をただ感謝の思いで見据えていた。福永が指揮台から遠くのトランペット・パートの席に戻ると、大川は再度深々と頭を下げて、(……ありがとう、みんな)と胸の内から溢れて止まらないものを吐露したのだった。彼は仙道というユーフォニアムから福音を得た少年が自身に見せた、夢のような戻らざる過去の日々への回想に浸りそうになったところを、かの楽譜に親しみと言い尽くせない愛着を見せているJに仙道の面影を一瞬重ねてしまったことで心臓の異様な鼓動を知覚せざるを得なくなったのである。


 音符一つに心を惑わされるような、繊細な青さを少年たちと共有している大川の心象風景には、譜面に存在しないある音が――響きを残したまま鳴り続ける時計塔の鐘と、浮力を失った天使の墜落した音が交差して木霊している。彼がそぞろに眼鏡を掛け直し、戻った視力でかつての仙道の席をふと見やったとき、瞬間、天使の代行者たるJが大川と同じ心象世界へその眼差しを向けているかのような、奇妙な錯覚が生じたのである。音楽室のガラス窓を薄氷のようにしている、凍えた風が不安定に吹き、ところどころで低く狂った楽器の音程がちらほらと流れ出した。


 ……L高の東の果てで見る、星々の粒が寒空に光を散らす光景は、麻野のとめどない思考を広域に映し出す鏡のようであった。礼拝堂か城塞か、一瞥しただけではそんな錯覚を引き起こすこの寮に暮らす麻野のことを、(まるで城の中のお姫様だよな)と冗談めかして評したのは、魂を幸福な陶酔で満たしていた頃の仙道である。開けていたカーテンをひと思いに勢いよく閉めたものの、思考を中断できなかった麻野は、無為にスマートフォンのメッセージアプリを開いて、仙道との日常の交換の履歴の上に目線を落としていた。麻野という存在が無ければその心を永久に失ってしまうところであった仙道が今生きている証拠を辿りながら、麻野は彼に訊くことのできない質問をひとり循環させていた。(仙道先輩、ルミコンに来るんだろうか。『美中の美』を代わりにJが完成させるまで、あの人の心は救われないのか。俺は、Jに……)


 吹奏楽に殉じた仙道の未練と苦悩への救済を望む気持と、彼が遂げられなかった夢という重力に縛られずに、Jにはどこまでも高く羽ばたく天使であってほしいという純粋な願望が、調和した位相を描いて存在する、二人のユーフォニアム・プレイヤーの間に立つ麻野の心情を完全に二分していた。この二律背反が生まれるのは、吹奏楽の神への献身というより、少年たちの青い心を絡めて沈めてしまう感情の軌跡のためであったが、麻野はその視点に繋がるおぼろげな道標に近づく度、妙な胸騒ぎを覚えるのであった。彼がドライヤーを当て終わったばかりの髪を、フルートのキーを瞬時に切り替えるのに合わせて鍛えられた、しなやかな筋肉のついた指に巻き付けるように引っ張っていると、閉じた窓の外から一度、かつんと固い音がしたのが確かに聞こえてきた。夜を裂くような突風に煽られて外から何かが飛んできたのだろうか? その正体に対する僅かな好奇心に駆られて、麻野はカーテンに潜り込むようにして視線も向けずにさっと鍵を外して、建物に対してそれだけが現代の新しさを現している窓ガラスを動かした。そして、ベランダに投げ入れられた物体――彼の素足をその刃で傷つけかけた、三色に彩られた風車にただ息を飲むばかりであった。


 (Jの……風車だ)不規則な風を受けて回転する色彩が進むのに合わせて、学園での鮮烈な回想が湧き上がる麻野をどこかから姿も無く呼んでいる声が、波紋を描くように彼の元へ流れてくる。麻野がアイボリーの石で出来た欄干に手を掛けて、他人よりやや緩慢な速度を以って甘えるような話し方をする、あの微熱の乗った声色の発せられる源を探した。

「……麻野先輩」

 雲が流れて、月から落ちる光が麻野の眼下を緩やかに照らした時、彼の戸惑いを魔術めいたもので見透かした上でそうしているのか、この夜の密会への歓びと愉しみが混ざった視線をベランダに佇む麻野に投げかけているJが、静かな微笑を浮かべていた。


「ここに、何をしに?」

 門限の近づくこの時間に、個人的な連絡ではなく、わざわざ直接出向いて自身を呼び出す理由に思い当たることの無い麻野は、遠いようで目測では意外と近くに感じられる位置に立っているJにそう尋ねるのが精一杯であった。Jという名の天使の来訪に、自身もまた繊細で暖かい感傷に引き込まれているがために、彼はいつになく慎重に言葉を選んでいた。

「貴方を誘いに」

「……どこへ?」

「雲雀会です、勿論」


 投げられた風車はJからの招待状であった。麻野だけではなく、福永や小野寺も出し抜いたこの直情的な誘いに、麻野は沈黙して、風の流れと共に停止した手元の風車を見つめていた。Jがきっと心の満ち足りて幸福な――昔の仙道と同じ瞳をして、麻野と秘密を交換することを望んでいるに違いないという予期が働いて、その光を覗き込むことに怖れが生じたために、彼は反射的に防衛行動に出たのである。二人の間にいつしか新しく芽生え始めた、世界を変えてしまうこの法則に身を委ねることは、幼児の頃に両親から贈られたクリスマス・プレゼントとして運命的な出会いをして以来、ずっと共にあったフルートに対する背信行為とイコールのように麻野には思われたのであった。気まぐれなJから不意に触れられる可能性のある距離にいないこの地理的状況に精神を少々救われている、敬虔な麻野の返答自体は、しかしながらJから聞かれずとも既に決まっていた。


「構わない。ルミコンの後なら、空いてるから」

 視線を暗中にはぐらかしている麻野の、Jと対峙している時に無意識に使っているたおやかな声色は、熱情や恥じらいの色など全く漂っていない透明なものであったが、そうした心を内殻に閉じ込めているかのような無言の反発に、J自身は未知の楽譜と出会ってすぐに、その軌道を思考の上だけでそらんじている時と同じように興味を駆られたようである。Jの(貴方ならそう言ってくれると思いました)という暗喩の籠った悪戯な瞳は、この場の駆け引きにおいて、絶対的な役札を手中に収めた、確信した勝者の色を帯びていた。アバンチュール的交錯、未知なる段階への憧れ、自身にも持ち得るであろうそれらへの急激な反感が、麻野の身を刺し貫いたとき、彼は衝動的にJへ風車を勢いよく投げ返そうとしたが、鮮烈な色のついた記憶の中の、『美中の美』のトリオの、優美なメロディーを導くユーフォニアムのもたらす楽曲の円環がその燃え盛る気勢を削いだのである。

「ただし、俺たちが『美中の美』を完成させるのが条件だ」


 Jの瞳を麻野が間近で見ていたなら、彼がこのL吹の君主からの挑戦に胸を躍らせているのか、はたまた麻野とのユニゾンの誘いと取ったことに起因する、金砂のような星の輝きの反射をその眼球に閉じ込めて、甘い喜びを漂わせているのか判別がつかなかったであろう。音のしない夜の中、Jはそのどちらとも取れるような、危険なほど多感で優しい微笑を浮かべて、静かに月明かりを浴びていた。

「もちろん。麻野先輩と一緒なら……」


 Jの柔らかい、溶けていくような声色が夜空に吸い込まれていく音的な心地良さを、この偶然の逢瀬が終わるまで聞いていたいという、素朴な願いに誘われていることに、普段陥ることのない精神の緊張に陥った麻野は、いつかJがそうしていたように、無意識に欄干から身を乗り出していた。年頃の少年だけが持つ、成長を残した小さなJの手が悠長にひらめいているのを、乱れた逆風に髪を吹き上げられながら視界の中に認識したとき、同時に麻野が見たビジョンがある。


 (時計塔!)学園の植物園の中に佇む時計塔で起きた一つの事件を、Jと相対しているこの瞬間に、追体験しているという錯覚が麻野に生じていた。同じ高校の吹奏楽部という特異なコミュニティの中で、同じ理想や信念を理解し合える大切な存在であったJとの関係性の羽化が確かに始まるという予感、『美中の美』の完成という命題、変化への戸惑い――それらがないまぜになって、麻野という少年の精神を蝕んでいく感覚が、彼の背中を不意に押しそうになる。

「……仙道先輩」

 麻野が呟いたその名は、時計塔からかつて飛び立った天使の名であった。違う時間に存在していながら、仙道とどこか深い繋がりを持つJが、彼自身自覚無く、メランコリーの檻に囚われたような、大人びた表情を一瞬浮かべたのを見ていたのは、流れ行く雲に顔を隠した冬の月だけであった。


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