L吹三者会議 第二幕
「で、麻野、何か知ってそうな顔してない? 気のせい?」
学業成績と進路希望でクラス分けがされるL高のトップに立つ、理数科一組の生徒同士同じ寮で生活する麻野が、仙道の一件以来、部活の無い日曜日の午後付で頻繁に外出届を出しているのを福永はよく観察していた。麻野は行先を誰にも語らなかったが、恐らく仙道の通院の付き添いか、彼の住むアパートに直接出掛けているのではないかというのが、福永の読みである。麻野自身も大川から『美中の美』の話を聞かされていないことは目を反射的に見開く反応から明らかであったが、仙道との繋がりによって、かの楽譜がL吹に浮上してきたように福永には思えて、麻野が吹奏楽の次なる扉を開きたいという純粋な興味と挑戦から新たな混乱の火種を持ち込もうとしているのか、今L吹で、かつて仙道が座っていた席で同じ景色を見ているJがどのようにこのマーチを表現し、ユーフォニアムの価値を示すのか知りたいという、福永や小野寺とも共通する夢があるのか、最終的な裁量を持つ部長として見極める必要があると感じたのである。
「さあ……俺は仙道先輩にJの話をしただけだ。あの二人は、似ているから」
「ふうん。けど、ユーフォって何故か目が離せないっていうか、皆の近くにいてくれる気がするっていうか、上手く言えないけどさ……麻野が肩入れするのも分かるよ」
(肩入れ? そういう話じゃない)麻野は福永の最後の言葉選びに反感を現して、よくフルート・パートを一糸乱れぬ連携で統率するときに使う、剣の切っ先に反射して宿るような鋭い光を内包した視線を、部長としての体裁を繕うのを放棄して、一人のトランペット奏者としての思考に移っているらしい福永にすっと刺していた。彼は小野寺の暖かい右腕を解放してやると、唇を尖らせてしばし沈黙した。福永がガラス越しに何となく見やっている中庭には、語らう生徒たちがぱらぱらと陽の下に集っており、変わらずまどろんだ空気が流れている。
「俺たちも先生のことは気を付けて見るのは当然として……先生の覚悟も尊重したい。それじゃダメか、福永」
小野寺の泰然とした、包み込むような声色のフォローは、福永の迷える思考をどうにか後押しする方向に進んだのである。最後に彼はL吹の指導者として、秩序を保ちながら合奏練習を進め、ルミコンのステージに大川と部員が誰も欠けることなく立つのだという、最終的な責任を持つ覚悟を固めて、彼を安心させるように柔らかい眼差しを投げかけている小野寺と、静かに、しかしどこか危うい空気感で福永の言葉を待っている麻野を交互に見据えると、彼らに告げた。
「この話は……君たちが言うなら、仕方ないか。もういない仙道先輩に振り回されるのもどうかと思うけど……大川先生が本当にちゃんと振ってくれるのか、僕からよく確認する」
『振る』のは、もちろん指揮棒のことで、この場合は大川が因縁の一曲と対峙するにあたって、指揮者としての使命を果たしてくれることを消極的に期待する、というのが福永の発言意図になる。自身も吹奏楽の熱烈なファンである大川だが、指導能力や音楽表現のセンスは若さ故にまだまだ発展途上であり、総譜に書かれた内容を正確に振ることに重きを置くタイプである。そんな(麻野や福永に言わせれば)新米指揮者の大川を筆頭に皆で一緒に進み、苦難を乗り越えて、成長する。それがL吹のあるべき姿だというのが、三人の共通の理解であった。指揮者の技量をトランペットとフルートの奏者に大幅に補われて何とか成立させた『Make a Joyful Noise!』は、表題の由来のエピソードをそのままなぞったような、彼らが入部して初めて大川と作った思い出である。
「そういえばさ、ルミコンのあとの雲雀会、二人は誰を誘うの?」
話が一段落して、フルーツオレを半分ほど贅沢に一飲みしたあと、急に目を輝かせた福永が、彼にとってはL吹関連の話題の次に関心を寄せている内容を議題にあげた。雲雀会は、英語の『Lark(雲雀)』から名付けられた、学園伝統のダンスパーティーである。大学受験に忙しい三年生ではなく、二年生が主役になってダンスの相手を選び、クリスマスの一時を過ごすという、ルミナス蔡の締めくくりでもあり本懐でもあるこの会合にまつわるジンクスの数々は、この時期のL高生ならつい意識してしまうものであった。
「まだ決めてないけど、あれって出なきゃいけないのかな? こういうイベントはどうも気後れして」
普通科所属であることをやや気にしている小野寺の呑気な疑問は、福永には論外のものであった。
「出なきゃダメだよ! 当たり前だから!」
「でもさ、誰と行けば……」
「そうだな……Jを誘うんだよ」
二年生がメインの参加者層とはいうものの、合意が取れていれば一年生や三年生もダンスの相手として指名ができる。丸い形をした目を小悪魔的に細めている福永の提案は、悩める小野寺に選択肢を真摯に示しているのではなく、L吹でよく飛び交っている噂話を下敷きにして麻野へ探りを入れているというのが真実であった。福永の脈絡のない提案に、虚を突かれたような心持の麻野の瞳に、魂の奥底で大切にしているものに外界から触れようとする侵略者に対する激しい闘争心が、瞬間その火を色素の薄い瞳に映したのを、福永だけは見て取ったのである。
「僕もそうしようかなあ。麻野の代わりに」
「お前みたいに気が多いのは嫌われるんじゃないか」
「君もね。随分誘われてるでしょ?」
「羨ましい、なんて言わないだろ」
妙に感情を露わにして福永に反論している自分自身のことをふと客観視した麻野は、滑稽に思うと同時に、ダンスパーティーのような煌びやかすぎる場が好きではないはずなのに、なぜJと一緒にルミコンの後の時間を過ごすのは自分でなくてはならないような憔悴を感じるのか、それは福永の言うように、ユーフォニアムに心が近づきすぎているからというのも一因としては存在していた。しかし、麻野はこうした自分の感覚に時々起こる小さな違和感、Jと見た色彩に溢れたL高の世界、そうしたものを総合して、自分がその世界を美しくする魔法に掛かっていることを自覚し始めていた。麻野がその秘密の重さから急に口をつぐんだので、場をとりなそうと小野寺がのんびりと話し出した。
「いいよな、人気のあるやつは……でも俺がJに声掛けたら、一緒に踊ってくれるかな?」
よしじゃあ皆で誘ってみようか、と肩を叩く福永に乗せられて雲雀会にポジティブなイマージュを見出した小野寺による宣戦布告がなされたので、麻野は(俺に勝てるなら……)という、友人というより好敵手たちへの恐ろしいほど純粋で綺麗な闘志をその瞳に現して、わずかに首を傾げていた。