L吹三者会議
うららかな日曜日の午後、各パートに分かれての自主練習を終えた麻野は、彼の半身のような純銀のフルートの納められたケースを携えて、学園の麗人への挨拶を捧げたい人間たちへの、有無を言わせない拒否を言外に現す断固とした早足で本棟のラウンジへと歩みを進めていた。麻野は部長の福永から、次のL吹の舞台となる『ルミナス蔡』での公演――通称『ルミコン』での演目について至急相談があると招集を受けたのである。中庭に面しているラウンジのガラス窓からは陽光が眩く差し込んでおり、白いテーブルに反射して、麻野に大きく手を振る福永のすがすがしく不敵な笑顔を照らしていた。その隣では、金管のセクションリーダーと低音パートリーダーを兼任する、チューバの担当者によく見られる傾向通りのような、大柄で筋肉質の小野寺が、昼食が終わって間もない時間だというのに購買で追加購入したボリューム満点の焼きそばパンを実に美味そうに食べていた。麻野は見ているだけで直感的に胸焼けを生じさせてくるような小野寺の幸福そうな顔から咄嗟に目を逸らすと、ホットのダージリンティーを注文してから、会議のテーブルについた。
「麻野、待ってたよ。早く来ないと小野寺が食べ続けちゃう」
「日曜の昼は量が少ないんだよな。何でだろう」
「本当、よく太らないよねえ。感心する」
食堂の話には様々持論のある小野寺の、どこか釈然としない表情に、福永は抑揚の強くついた賛辞を呈すると、自分は紙パックに入ったフルーツオレにストローを勢いよく刺した。中学時代は野球部に所属していた小野寺は、L吹に入るまで音楽の経験は無く、理数科の名門校であり、旧時代からの階級意識も根強いL高において理数科の生徒から(時には教師にも)格下に扱われがちな普通科に在籍する少年である。彼は人一倍気の良く利いた、温厚で心優しい人柄であり、加えて野球で培ってきた努力を怠らない姿勢が部員と顧問の数学科教師・大川の篤い信頼を勝ち得ることに成功したのは必然のことであった。そんな小野寺は、L吹の長い歴史上異例の普通科出身の副部長である。一切の隙の無い端麗な容姿からは想像できないほど、フルートに抱く敬虔な心が深いために持ち得る麻野の獰猛な気性は、より素晴らしく美しい吹奏楽の世界の創出という命題と比較される、人間関係の調和という些末な問題を彼によく無視させる原因になっていた。音楽的技術の一点で評価されている麻野と、人徳で皆に認められている小野寺は対照的な存在ではあるが、お互いの持っていない性質を認め合う仲であったし、理数科のつまらない階級意識など持ち合わせない麻野の高潔さも相まって、関係は良好であった。
麻野は湯気がもくもくと立っているダージリンの透き通る赤茶の張った底に、眼だけを引き付けるようにして視線を数秒落とすと、時間の流れをふと止めてしまいそうな、色を秘めた流し目を福永に送った。ほどよく暖房の効いた室内では、紅茶が冷めるのに少々時間がかかるかもしれない。熱すぎるものには口を付けられない質の麻野は、急いで焼きそばパンを押し込んでいる友人への苦笑を堪えながら、わざとらしい瞬きを送り返してきた福永に、会議を開始させることにした。
「それで、今日の話は?」
「ああ……それね。大川先生から、この前僕にひとつお願いをされてさ。君たちセクションリーダーにも判断を仰ぎたい」
先程まで小野寺と軽妙な談笑を繰り広げていた福永が、L吹を率いる部長の真剣な表情に変わったのを見て、会議の緊迫感はフェルマータの後の再開を待つ局面のように一瞬にして高まった。小学生の頃から現在の所属であるL吹に至るまでずっとトランペットを続けている福永は、部内のコメディアン、もしくは狂言回しのようでいて、常に総譜の中で最前線に立ち続ける威信とプライドから成り立つ風格を備えた学生指導者であった。彼はテーブルに両肘をついて、線の滑らかな顎を組んだ両手の甲に乗せると、麻野と小野寺を一瞥してから、腹を括って本題を切り出した。
「ルミコンでとある曲を、やりたいと言われた。でも僕は……」
「その曲ってどんなやつなんだ? 俺にはすごく難しいとか」
途中で私見を挟もうとして、それを撤回したために歯切れの悪い福永に続きを遠慮がちに促した小野寺は、現役時代と同様に白球を投げられそうな、広くがっしりとした肩をすぼめて、隣の席に座る福永の心境に寄り添うように、少し身体を寄せた。
「『美中の美』だよ。……仙道先輩が残していった、当時のL吹では未完になった曲だ」
その表題を聞いてこの場で動揺しない者はいない、と福永は確信している。三人が一年時に入部したとき、部長を務めていた当時三年生の、まだ精神錯綜の傾向の無かった仙道が、ユーフォニアムと共に辿り着いた、彼の魂を託した至上のマーチ。ユーフォニアムとマーチといえば、トリオのオブリガードのための要員とされることがセオリーだが、この曲はそれに加えて木管楽器と並んでメロディーのほとんどを担当する、この吹奏楽にしか生きられない楽器が最もその生命を燦然と輝かせるものなのである。仙道の多量服薬による自殺未遂と、その精神的ショックを原因とする大川の休職がL吹にもたらした仄暗い余波は、当時を知る者を中心に、寄せては返して今も静かに打って来るのである。
「僕としては、大川先生のメンタル的な負担を考えて……断りたいんだ。今あの曲をやるのは、L吹のリベンジマッチじゃなくて、自殺行為のように思える。代わりに『ワシントン・ポスト』か『星条旗よ永遠なれ』辺りで手を打ってほしいんだけど。何も『美中の美』にこだわる必要はない」
(それどんな曲?)と、知識的な素地の薄い小野寺に、麻野はスーザとそれぞれの曲の簡単な解説を小声で講義した(チューバが表迫で打つマーチだ、というような素っ気ない定説をいちいちあげつらう言い方はあえて麻野は選ばなかった)。それを受けた小野寺はひとまず何回か頷いて、これまでの吹奏楽部生活を通して内から湧き上がってくる素直でひたむきな思いに従って、福永にその熱を込めて語った。
「確かに、仙道先輩と仲の良かった先生なら、あの人のために『美中の美』を完成させたい気持にもなるかもしれねえな。それに先生が心配なのは俺も同じだ。でも俺も、Jや城戸ちゃんたちと一緒に、前よりもっと上手く今のL吹であの曲を演奏できるって、試してみたい。やろうぜ」
「そうだな、やってみたらいいと思う。つまらない課題曲のマーチを引っ張って来るより、曲目としてはずっと良い」
「あれ、『星条旗にしたらいい、あのピッコロ、叩き潰してやる』とか言わないんだ……」
「俺は麻野がピッコロやるのも一回くらい聞きてえけど」
「叩き潰しはしない。物騒なことを言うな」
「ごめんごめん、僕だと本物より血の気が足りなかった。ほら、僕可愛いから」
福永による、麻野の淡々として歯に衣着せぬ話し方を過剰に誇張した物真似のクオリティは人によって評価が分かれそうなところであったが、こうしたコミュニケーションにも徐々に親しみを覚え始めている麻野は、澄ました顔でそろそろ飲める温度になったであろう紅茶のカップを指先でバランスよく持ち上げた。
「まあ、ね。話を戻すと、麻野は当然そう言うと思ってさ、あんまり聞きたくなかったんだけど。小野寺も賛成か……困ったな。君なら僕のこと分かってくれると思ったのに」
小野寺の腕を掴んでべったりとすり寄りながら、落胆の深いため息を隠さない福永は、『美中の美』がL吹に蘇るという、消化しきれないくぐもった感情が生じさせる根源を、麻野の仙道との慈しみ深い関係に起因するものだと、ほとんど明確な考えを抱いていたのである。彼は福永からの期待を裏切ってしまったのではないか、と次の返答に慎重になって、焼きそばパンを包んでいたビニールを厚い掌中で握るように転がしている小野寺の腕にぴたりと付けた顔に、何かを隠し持っていることを伺わせる、他人を惹き付けて思いのまま自白させてしまうような笑みをにっと浮かべて、麻野の品のある仕草を目で追いながら切り込んだ。