ユーフォリック・フレンド
時を長くした夕闇の空に、蜜のような黄金の月が澄明な空気の中輝くのを、柔らかい黒髪を秋風の深い涼しさに預けた少年が、蠱惑の目を惹き付けてじっと見つめている。確か苗字のイニシャルを取って『J』と呼ばれるこの少年は、彼の不可知の領域から呼んでいる声の主への想像をあれこれと巡らせて、艶の乗った唇に期待に華やぐ小さな喜びを現していた。彼の所属するL高吹奏楽部(略してL吹)の放課後の城である音楽室には、学園祭を終えた後の初日の活動として、次なる舞台に備えての新しい譜面の配布や演奏音源鑑賞のため珍しく合奏の無い、緩やかで静かな時間が流れていた。このL吹としての新たな出発の日、楽器を混成した低音パートものんびりと個人練習を開始したが、Jは指定速度より低速に設定したメトロノームと楽譜を注意深く見比べながら、ユーフォニアムのふわりとした丸い音を自己の解放された精神世界に響かせるのに執心していた。彼が風に舞う音楽、青い恋の始まりに見出した美しいもの、あるいは月光の冴えた湖に浮かぶ白鳥の持つ羽のように清廉なものをユーフォニアムという鈍色の機関装置で出力することは、Jの存在意義そのものといってもいい。そうした幸福の熱の醒めやらぬまま、時間の経過など全く気にせず練習に没頭していたJは、彼をよく知るL吹の面々からすれば、当然そうなるだろうと評される様子で、終了ミーティングを主導している部長の福永による快活な小話など完全に上の空であった。再び新しく出会った楽譜に思考を働かせたまま陶酔したような心地で彼が当日の帰路に付こうとしたとき、先に帰寮していた生徒からの直通電話で、突然の来訪者がいることが知らされたのである。
(J、知ってる人なの?)という、同じ低音パートに属するコントラバス担当の同級生である城戸の、訝しむような問いは、偶然を装ったかのような異邦人との遭遇に常識の観点から警鐘を鳴らしているというよりは、その素性の知れない人物が身寄りの無い孤児であるJと何らかの危うい甘さのある関係性を持っているのではないか、という自身がJに投影している儚い理想が裏切られる恐れからくるものであったのが真実である。しかし、したたかで頭の切れる城戸のポーカーフェイスがその疑いの攻勢をうまく煙に巻いたので、Jには前者の解釈として受け取られたようである。(多分、城戸が思ってるような危ない人じゃない。……俺と似た人じゃないか、きっと。そんな気がする)僕も一緒に行こうか、と切り出したかった城戸の切望は、Jの無邪気な微笑に瞬間斬り捨てられたので、城戸も馬毛の弓に松脂を機械的な調子で滑らせながら友人がする日常会話の延長の反応を創出すると、まだ成長の最後の段階を残している天使の背中に(Jは僕には捕捉できない)といった、ある種の諦念をぶつけて見送った。L吹が早いクリスマス・ポップスを静聴していた音楽室には、少年たちの聖夜を夢見る浮ついた足音が響いていた。Jの無情な不理解を、楽譜を彩る音符や指示記号、数字と同じ回路で処理すると、城戸はコントラバスに身を寄せながら、音楽室のカーテンレールにいつの間にか留まっていた、豊かな羽を持つ硝子天使のオーナメントの薄氷のような輝きだけを注視していた。
栄華の昭和に建設された、レトロという単語に集約されるような浪漫的な趣を残す洋館を流用している、寮の応接室に到着したJの視界に飛び込んできたのは、チャコールグレーのニットセーターを纏った細身の青年であった。彼の不条理の環に囚われたような、生命への嫌悪と苦悩が影を落としている神経の繊細そうな横顔が、雪に閉ざされた暗い真冬の心象としてJの魂に深々と迫ってくる。しかし、先刻までユーフォニアムと共に幸福な音楽を織り成していたJという対極のような位置に立つ少年が、城戸に語った予感はほぼ正確であった。つまり、この影の濃い瞳をした青年はJの魂と何らかの深い関連を持つ人間であることが、瞬時に互いの間で了解されたのである。どこかで出会ったことがある、とか実は同じ血を持つ生き別れた兄弟なのだ、といった劇的な真実が隠されているような、そんな空想を分かち合う、不思議な懐かしさのある空気に、唇のわずかな動きだけで熱情を流し込む囁きを繰り出したのはJからであった。
「……貴方が、俺を?」
青年は応接室の大掛かりな窓から透過される月光を浴びるようにして佇んでいたが、Jのあどけなさのある言葉足らずな問いに、ふっと浮かんだ穏やかな微笑を向けると、緑とベージュを基調とした刺繍の施されたアンティークソファに倒れ込むようにして、座った。地上の国に墜落して、帰る場所を無くした鳥や天使のように、上半身をソファに投げ出している青年があの暗い目を閉じて静止していたので、Jは咄嗟に彼に駆け寄って、意識を確かめようと同胞の顔を覗き込み、不安で思い詰めた視線を巡らせていた。魂の内でJが青年を呼ぶ、見えざる救済を受けてか、彼は混濁して深淵に落ちかけていた意識を何とか引き上げると、Jの魔術的な魅力が閉じ込められた瞳に、自身の混線した、不安定な表情が曇りの無い鏡に映し出されているのを認識して、自己が散逸しないように(俺の名前は……)と止まりかけていた意思の力を働かせていた。彼はJのコケトリーに満ちた容貌を、恋人のように間近に見ていることに何の動揺も無く、ただ記憶の欠片同士を繋ぐ行為に必死になっていた。青年の掠れた声の一つも聴き落とさないように、Jもまたじっと意識を集中していた。
「仙道淳也。君の前に、L吹でユーフォをやっていた。――会いたかった、君がJだろ」
ユーフォニアムという、吹奏楽という世界で燦然と輝く唯一無二の存在を差す名前を共有した二人は、再度目を見合わせた後、心のままに手を取り合っていた。Y国立大学の理工学部の一年生である仙道は、かつてL吹で部長を務めていたと話した。その世界を交えることのなかった同じ楽器を演奏していた先輩との邂逅に、Jが小さい頭を揺らしてこくこくと嬉しそうに頷くのを見て、仙道もまた吹奏楽に身を捧げて、その存在を懸けて文字通り闘っていた、あの過ぎ去った日のきらめきを眩しく思い返していた。しかし、それこそが彼の精神を蝕んでいる病理でもあったのである。Jが語る、彼がユーフォニアムと共に辿り見出してきたものの輝きに共感し、それを強く認識すればするほど、一時小康状態を取り戻した仙道の脳や心臓には心理的負荷から締め付けられるようなダメージが生じる。会話が次第に嚙み合わなくなった仙道の様子を時折気にしているJの視線に構わず、彼は鞄の中から薬の入った瓶を取り出して、手の中で回していた。最上のものを果てなく追求し続けた結果、過度の精神錯綜から大量の薬を煽って以来、記憶と情緒に連続性を無くした、才覚と理想に羽を轢き潰された天使――それが仙道である。瞼につきそうな長い前髪に覆われた額に刻まれた苦しみの深さを、Jは正確には推察できない。それでも、仙道がユーフォニアムという楽器に託していた思いの凛とした純真な強さ、高校生活という有限の時間に楽器と引き裂かれた悲劇、そうした激情を短い邂逅で受け取ったJは、ただ静かに仙道の彷徨う虚ろな目線を追っていた。錠剤を流し込むためか、ミネラルウォーターの入ったペットボトルの蓋に力のない指を滑らせるばかりの仙道に代わって、難なく蓋を開けたJの、共鳴しているかのような物憂げに同胞を伺う表情に、彼は記憶から最後まで消えることの無かった、青春の大切な思い出を彩るものと再度出会ったのである。
「そう……そう、麻野が。あいつから聞いたんだ。それで、Jが俺の夢を叶えてくれるかもしれないって思って」
「麻野先輩?」
「麻野の言うことなら、忘れないでいられるから」
「……そうですか。でも、貴方の夢って?」
反射的にその名前を返したJは、彼の瞳を覆って揺らめく、花咲ける少年だけが持つ無垢なヴェールのような無意識の媚びたごまかしを通して、一つの謎を覗き込んでいる。Jの一学年上で、フルート・パートの、ひいてはL吹における美しい君主である麻野という少年にJが強烈に心惹かれているという真実は、仙道が麻野を『あいつ』と思い入れ深く呼んでいる、涙を堪えているような微かな声を聞いて初めて見いだされたものではない。Jの抱えている麻野への想いの全ての根源は、フルートとユーフォニアムが持つ共通した調号がもたらす親しみによるものなのか、幼少期からの練習量に裏打ちされた、卓越した個人技量を持つ麻野の虹を奏でるような音楽表現のためなのか、心の羽化しきっていないJではこの内的革命の原理を解き明かせない。仙道の病的なユーフォニアムへの執着、自死を以って終わらせることのできない美への希求は、孤高を貫く麻野もきっと認めていたのだろう、とJは仙道の生み出している張り詰めた空気に思う。自分が存在していない時間を麻野と共に過ごしていた仙道が何を見てきて、どんな演奏をするのか、同じ楽器の仲間として、かつてない興味に駆られているJに、仙道は瓶から薬を出すのを何とか思いとどまると、水を一口だけ飲んで、ゆっくりと呼吸を往復させた。彼が錯乱による発作を起こす度に、麻野が一緒に呼吸を合わせてくれていたことを回想している仙道が、緩慢な動きで鞄の中に手を差し入れた。
「これをJに渡そうと思って来たんだ。……総譜は、大川先生が持ってる」
薬の過剰摂取を繰り返して傷つききった身体では、自ら吹奏楽団を導くことがもう出来ないと悟っている仙道が取り出したのは、ユーフォニアムという楽器を最も正確に理解している作曲家であるスーザの書いたマーチの楽譜であった。机の上に広げられた楽譜に、身をばっと乗り出して、目の色を様々に変えながら見ているJは、曲そのものが持つ優雅さに浸りきる前に、タイプライターで打ち出したような几帳面な字で欄外に書かれた、仙道による注釈の緻密さにただ圧倒されていた。天性のアーティスティックな感覚の持ち主であるために、譜面の記号的な解釈は最低限に、どこまでも自由で大胆な表現をするJには、仙道の解説の持つ全く発想の異なる、しかし有用な理論がある種の武装のように感じられた。(ここまで読み込んだ、大好きな譜面を……もしかして、演奏できなかったんだろうか)仙道をこの世界に留めている理由、それこそがこの譜面に秘められていることは、ユーフォニアムと共にある祝福を今受けているJにだからこそダイレクトに伝わるのである。今まで会ったことが無かったのが信じられないほど、相対していると相手を自分と同一のように思えてくるJと仙道は、やはり境界の薄い存在同士であった。
「ユーフォが一番美しくて存在価値がある楽器だって証明しなければ、俺は……」
青白い顔で浅い呼吸をしている仙道の呟きに乗せられた、ヒュブリス的な自意識に、その時確かにJも飲み込まれそうになったのである。(ユーフォがいる意味……俺だけがいても、譜面は完成しない)仙道に同調して彼の矜持に心を明け渡してしまわないように、Jは抗っていた。天井から吊り下がった丸形の照明が暖色の光を粛々と落とす中、応接室には身を刺すような沈黙が流れている。
「J、もう食堂の時間が――」
引き戸を開ける性急な音がして、痺れを切らしたようにやって来たのは制服姿の城戸である。彼は異邦人と対決する可能性も加味して、まだ着替えを済ませていないようであった。城戸はJと仙道をさっと見比べて、(本当に似ている気がするけど、この違和感は何だろう)と胸にじわじわと広がる畏怖の理由の自己分析を始めた。眠るような姿勢で力無くソファに横たわって、その目だけを城戸に向けている仙道の、他者を征服するような力を内包している視線が、城戸が感じているプレッシャーの原因であった。入学したばかりの時より、L吹での活動を通して多少度胸のついた城戸は、彼の登場を予期しつつも、城戸の心境を和ませてしまうような、花の綻ぶ微笑を浮かべている、赤みのある頬をしたJから決定的なヒントを得ることに成功した。(あの人は……Jの成れの果て、かもしれない。だから危険なんだ、やっぱり)吹奏楽に魂を殉じて、正常の世界からはとうに飛び立ってしまっている青年が、Jに悪影響を及ぼし得る存在だと結論付けた瞬間、青年をこの場から排斥することを決めた城戸は、一切の感情を排した厳しい声色で告げた。
「もうそろそろ面会期限だと思いますけど。帰ってもらえませんか。そもそも、貴方は誰なんですか」
「城戸、この人は……仙道先輩だ。L吹の、二代前の部長の」
Jが再び目を閉じた仙道の元へ寄っていき、城戸の詰問から彼をかばうようにして肩を抱いていることは、城戸にとって確かに不愉快ではあったのだが、それ以上に青年の正体について、音楽室での事前の予想が意外な形で裏切られたことへの驚きがあった。
「仙道先輩? 本当なの、J」
よく周囲を観察し、人間関係に適応している城戸は先輩が時折尊敬や、敵愾心や、時に離れ難く思う愛情のような感情と共に口にする仙道の名前に心当たりがあった。城戸は机の上の楽譜を手に取って、そのタイトルを読み、仙道への思慮を募らせているJの見せる慈愛の表情に、規範と理論によって閉じられた心の外殻を溶かされ、目を奪われていた。仙道がJに託した楽譜は、スーザ・マーチの珠玉の一作『美中の美』という名であった。