第一話 溶岩湖
活火山のゴツゴツとした黒い山肌を、一人の男が宇宙服かと思われるほど分厚い防護服を着て、ゆっくりと登っていた。岩場の隙間からゆっくりと溶岩が流れ出している。防護服のフェイスシールドの通気口から男の呼吸が聞こえるだけであった。時折山肌を撫でるように熱風が吹き、男の視界を砂埃で遮ることもあった。目的の山頂らしき場所が見えてきた頃、男が背負っている荷物から女の声がした。
「コーディ、暑い……」
もちろん山を登っているのは男一人だけである。コーディと呼ばれた男は歩みを止めずに小さくため息をついて答えた。
「マニは数値しかみてないじゃないか」
「熱で基盤が溶けてひん曲がっていく気がするんだよぉ……」
「それは気のせいだ、マニのケースの素材は俺の防護服と同じ素材だぞ」
「でもこんな景色じゃ暑すぎてレアメタルに戻っちゃう」
「暑いのは俺だ。いいから黙って色々観測しろ」
「はーい……」
「まったく、こんな活火山に登りたい奴なんているのか……?」
その様子はまるで一人で会話しているように見えた。マニというのはきっと女の声の呼称だろう。地獄の釜の底のような暑さの中、男が歩みを止めることはなかった。時折、キュルルルと機械がうめくような音が背負っている荷物から聞こえた。
様々な効率化を極限まで突き詰めた人類は、電脳や義体に頼るようになった。そのおかげで深刻なエネルギー不足問題や、食糧問題などを少しずつ解消できるようになった。電脳、義体化することにより、体型や体調は全て管理できるようになった。しかしその代償は大きく、人類に元々備わっていた機能を過剰に電子化したせいで『五感欠損症』と呼ばれる病状に悩まされていた。五感欠損症とは感覚の一部が物理的に鈍くなったり、機能しなくなる症状のことである。電脳化している者は電子化された知覚データを読み込むことにより、失った感覚を使って得られる経験を擬似的に体感するようになった。それは電脳化した多くの人類の救いであった。
味覚や臭覚、視覚や聴覚、触覚の知覚データベースが早急に必要となった。そんな中、知覚収集保管機構が発足された。現実で体感することを人工知能が電子化し収集、管理維持する組織である。基本的に人間と人工知能のツーマンセルで収集活動は行われている。彼らもそのうちの一組であった。
「コーディ、まだぁ?」
「本当に文句が多いやつだな、溶岩湖に放り込むぞ」
「そんなことしたら知覚データ持って帰れなくなるよ⁈」
「本部にデータ送ったらマニはもう用済みだろ?帰りの荷物が減るのはいいことだ」
「やだー!ここ圏外だし!そんなことできないのに!」
「冗談だ、だから少し静かにしてろ。もうすぐ観測地点だ。」
大きな岩を乗り越え、一気に視界が開けた。どうやら山頂に到着したようだ。空は昼間だというのに薄暗く、火山灰が熱風に巻き上げられてごうごうと音を立てていた。少し離れたところに巨大なカルデラがあった。コーディはゆっくりとカルデラの方へ近づいて行った。
「ちょっと!観測地点入ってるよ⁈早く観測して帰ろうよ……」
「いや、どうせ観測するならより良いものを――」
「自分が行きたいだけでしょ!」
コーディは黙った。
ずんずんと火口へ近づいていくコーディの防護服は、耐久メーターがレッドゾーンへと近づいていた。岩棚から火口下を覗き込むと、溶岩湖が熱と光を放ちながら音もなく蠢いていた。コーディは背負っていた観測機が入っているケースを地面へと下ろした。ケースの外装が焼けこげる音がしたが、手際よく観測機をセットしていく。
「よし、待たせたな。マニ、始めてくれ」
「やっとだよぉ……『収集モードに切り替えます。知覚データを記録します』」
突然機械的な口調になったマニはコーディが設置した観測機を操作し、その場で感じ取れる全ての情報を高速で読み込み、知覚データを作成していく。観測機は無機質な音を上げ、不規則にLEDランプが点滅していた。
マニが観測作業を進めている間にコーディは再び溶岩湖を覗き込んだ。音もなくどろどろと浮き出たり飲み込まれたりを繰り返す溶岩は、フェイスシールド越しでもどこか不気味さがあった。もし落ちてしまったら、と想像しただけで急に不安になった。空を見上げても灰色の火山灰の隙間から鈍い太陽光がなんとか差し込んでいるだけで、何も見えなかった。なんだかいつもより計測時間が長く感じられた。
「マニ、まだか?」
観測機に背を向けてコーディは言った。
「コーディが急かすの珍しいね、なにかあった?」
数秒遅れてマニが返事をした。
「――暑い」
「ガンバリマス……」
観測機は相変わらず動き続けている。コーディは下山のために観測機から少し離れた足場のしっかりした場所で軽く屈伸運動をしていた。途中で観測機を入れていたケースが地面に置かれたままで丸焦げになりかけていたのを慌てて拾った。
「『収集終了。知覚データを保存。お疲れ様でした』……コーディおまたせ、おわったよ」
「ん、了解。ピックアップポイントまで降りるぞ」
「はーい」
広げた順番とは逆の順番で、手際よく観測機を片付け、半分以上が焦げているケースにしまった。見た目は不安だが、耐久性に問題はなさそうだった。ミスや忘れ物がないかしっかりチェックをし、もう一度この景色を眺め、ケースを背負ってコーディは自分が来た道をなぞるように下山した。
足場の悪いところを慎重に歩く。組織のピックアップポイントまで、まだまだ時間はかかりそうだった。
「なあ、マニ」
「なあに?」
「あの溶岩湖に行きたがる人はいるんだろうか」
「知覚データ化依頼は来てたから行きたい人はいるんじゃないかな」
「行ってどうするんだろうな」
「どうするんだろうね」
答えは出なかった。規則正しいコーディの足音と不規則で無機質な機械音は、熱風の中へと消えて行った。