9
───遂にその日は来た。
朝日が上り始める時間、外は既に今日を楽しみにしていた人々が往来を始めている。
店を構えている者は店先の飾り付けに精を出し、観光として来た者は日常生活とは違った空気に浮かれており、騎士達も街中の警護の為に既にちらほらと駆り出されている姿が見える。
王都の朝はいつも早いが、今日は一段と早い時間から皆が活発に動いている。
それを時計塔の窓から覗き見ていたキキュルーは、名残惜しそうにカーテンを閉じて纏めていた荷物を手に持つと、見送りの為に後ろで控えていたヒュードラードへと振り返って微笑んだ。
「参列の準備があるから、もう行くわね」
「ああ。この数日間不便をかけた」
「何言ってんのよ。ヒューは私の恩人よ?むしろお礼を言わせて欲しいわ」
確かに行動の制限があって不自由ではあった。
だが彼と同じ時間を過ごして、時に笑い、時に盛り上がり、魔法学論や身の内話など本当に沢山の事をお互いに話して、非常に充実した日々を送る事が出来た。
元々研究者気質のキキュルーには、閉鎖的な空間に長時間身を置く事など大した苦ではなかった。
それを知らないヒュードラードが勝手に罪悪感を感じているだけで、そんな気遣いすらキキュルーにとって喜びを感じる材料になっており、零れる笑みが止まらなくなっていた。
「塔から出たら出来る限り人通りの多い場所を歩いて行け。流石に他の目がある所なら襲撃もされねえだろう。それから、結婚式が終わった後も暫くは気の知れた奴の側から離れるな。絶対に一人になるな。良いな?」
「わかってるわよ。それ、もう五度目なんだけど?」
「……そうだったか?」
何だかいつもより調子が狂ってる様で、義手でぼりぼりと頭を搔くヒュードラードにクスクスと笑う。
本当にヒューって優しいわね。
改めてそれを実感し、ふと此処に残りたい衝動に駆られながらも、キキュルーは自分を叱咤して部屋の入り口に向かった。
ドアノブに手をかけようとして、だがしかしどうしても名残惜しくて、改めてヒュードラードを振り返る。
「本当にありがとう。ヒュー。アンタと過ごした時間は、私にとって凄く大切な宝物になったわ」
「そうかい」
「ヒューも気を付けてね?出来る事なら怪我しないで、自分を大切にしてね?」
「それは無理な話だな」
「もう、この私が心配してあげてんのよ?……じゃ、行くわね」
別れの言葉が言いづらく、ドアノブを握る手に視線を落として声を震わせないよう気丈に振舞うも、どうしてもこのドアを開く事が出来ないでいた。
この部屋を出てしまえばもう二度と、彼に会えないかもしれない。
それを考えるだけでキキュルーの決心は何度も揺らいでしまっていた。
それを見つめていたヒュードラードは、彼女の肩が僅かに震えているのに気付いて一度目を閉じると、義足の音を立てながらキキュルーへと歩み寄る。
「キキュルー」
初めて名前を呼ばれた。
それに驚いて「へ?」と間の抜けた声を出しながら三度振り返ると、太く、皮膚の硬くなった指がキキュルーの顎を掬って、上を向かせ……。
唇に感触があった。
ヒュードラードの顔が、すぐ目の前まで来た事を認知するのに暫し時間がかかった。
何が起こったのか、キキュルーはすぐに理解する事が出来なかった。
「俺がお前にくれてやれるのはこれぐらいだ。悪いな」
唇が離れた後、至近距離で少し困った顔をしながらそう言われた。
途端、キキュルーは我慢していた感情を抑えられなくなり、涙が勝手に溢れ出てきて、手に持っていた荷物を床へ落とすと思わず彼に縋り付く。
苦しくて息が出来なくなり、それでも何とか口元だけは笑みを浮かべて、ヒュードラードを見上げた。
「お願い…もう一回、してくれる…?」
「…………ああ」
今度は双方共に優しく頬に手を添えて、背中に手を回して、どちらからともなく静かに唇を重ねた。
二人の男女が結ばれる今日の良き日。
時計塔の上で、また別の二人の男女が今生の別れを惜しんだ。
せめて互いが無事に今日を生き長らえる様に。
その後、仲間達と共に無事に余生を過ごせる様に。
時計塔の大時計が鐘の音を響かせるまで、短いながらも長い時間抱き合い続け……キキュルーは大粒の涙を流しながら遂にこの建物から出て、外の生活へと戻って行ってしまった。
それをいつもキキュルーが外を眺めていた窓から見届けたヒュードラードは、彼女の姿が完全に人混みに紛れたのを確認すると、自分も己の得物を背中に背負う。
空気を読んで小部屋に引っ込んでいたジールが部屋の入口に立っているのを一瞥すると、いつもの口調で命令した。
「テメエにはまだ働いてもらうぞ。アリステアに動きは?」
「これと言ってねえですよ。いつも通りって感じ?今日は国のお偉いさん方は全員、王都の大聖堂に集合予定さ。精鋭騎士団長さんも其処に混ざるってよ」
「やっぱりな。で?テメエはその大聖堂とやらにも勿論潜り込んだ事があんだよな?」
「おうよ。この俺の手癖の悪さを舐めんじゃねえ」
「よし。案内しろ」
そう言って、得物以外の全ての物をその部屋へ置き去りにして、ヒュードラードは出陣した。
キキュルーとの儚く短い、穏やかな思い出すらも其処に置いて……。
アリステアは、日が昇るよりも早い時間から王城へと赴いて、国王達の今日のスケジュールや王宮警備体制等、一通りの仕事をこなしていた。
一昨日から何故か通信ラクリマの不調が続いていて、徹夜で原因究明に当たっている魔法研究員室にも顔を出してその労をねぎらうと、時間を見計らって起床・身支度をし始めている国王の下へと挨拶に伺う。
今日の結婚式の主役であるカミュロンは実は国王にとって血縁に連なる者の一人であり、偉大な功績を立てた事で世界的にこの王国の、ひいては国王の立場を磐石なものにした立役者である為に、式典については国王達も心血を注いでその日が来るのを首を長くして待っていたのだ。
又、お相手のソフィアも他国の出身ではあるが、エスポアとして旅に出る以前から非常に貴重な回復魔法を行使できる、他国の大聖堂の聖女、或いは女神とまで言われていた凄腕の治癒魔法士である。
そんな人物が王族の仲間入りをする事に心からいたく喜んでいる、等という旨をアリステアに伝えると、国王は鼻歌まで歌いながら朝餉へと出向いて行った。
それを見送った後に今度は王国騎士団の駐屯基地へ足を向けようと王城内を進んでいると、いつもならまだ身支度途中である筈のこの国の王女に、廊下で偶然にも鉢合わせする。
「メイジャス王女殿下にお目にかかります」
「あらアリステア団長閣下、ご機嫌よう。とてもお早いですね」
「殿下も既に身支度が整われておいでの様で。いつにも増してお美しゅうございます」
「え?本当に!?」
挨拶として使った言葉に過剰に反応したメイジャス王女に、アリステアは「ん?」と思わず疑問符を付けてしまう。
いつもならこんなありきたりな社交辞令、右から左へ聞き流しているだろうに、何故今日に限ってこんなにも嬉しそうに体をくねらせているのだろうか。
「本当に本当に、本日のわたくしは美しいですか!?」
「え、ええ」
「本日主役のソフィアさんや、あのキキュルーさんにも負けないぐらい!?」
「そ……そうですね」
「という事は、本日の式典にお越しになるニナ様も、わたくしの方を振り向いて下さる可能性は十分にあると!?!?」
…メイジャス王女は、ニナのファンクラブ会員No.1の会長であり、ミーハーだった。
魔王蟲討伐の勅令でニナが初めてリカルドと共に登城した時に謁見の間で面会したのだが、その佇まいと美貌に一目惚れをしてしまい、彼の動向をこっそり追いかけているうちに完全にどハマりした、生粋のアイドルオタク気質である。
今や世界中に広がっているファンクラブも、そもそもの発端はこのメイジャス王女であり、己の莫大なお小遣いを使ってクラブを発足・普及活動やグッズ作りに精を注いで、その為に必要な魔法開発にも資金を寄付している位の力の入れようであった。
なので今日の王女の装いも、昨今の流行を取り入れた清楚系ながらも、ニナの横に立ったとしても恥ずかしくない優雅さを兼ね備えた、式典用の最高級ドレスを既に身に纏っていた。
……というよりも、二週間前にニナ達がフィッティングに行った件の装飾店のデザイナーをわざわざ呼び寄せて、急遽ニナが選んだタキシードに合わせたドレスを特注して今日までに間に合わせた、ニナとのリンクコーデ・ドレスだというのが本当の話である。
あまりに今日が待ち遠しくて、深夜帯からドレスと共に姿鏡の前に立ってニヤニヤ……もとい、微笑んでいた姿を知るのは専属侍女ぐらいである。
オタクを越えて、もはやストーカーの域に足を突っ込んでいた。
そうとは知らず、綺麗に地雷を踏み抜いてしまったアリステア。
変な妄想までし始める馴染みのない王女の姿に遠くを見そうになっていたが、瞬時に我を取り戻し、最適解を見出して力強く答えるのだった。
「はい!ニナ殿も絶対に、王女殿下の美貌にイチコロです!!」
「キャーー!!」
…とんだ寸劇をする羽目になって、有頂天になった王女が国王と同じように鼻歌を歌いながら姿が見えなくなるまで見送ったアリステアは、早朝から疲れきった顔をしていた。
だがしかし、王族のご機嫌取りも彼の仕事のうちである。
気を取り直して日が昇る時刻までに王国騎士団の駐屯基地へと向かい、精鋭騎士団も織り交ぜた隊長各員と、いつもより早いミーティングを行なった。
隊長格の一人であるカミュロンは本日は特別欠席扱いとしている。
事前に配置や伝達事項など大まかな事は周知させているが、昨晩のうちに変わった事があればその修正を行なうのがこのミーティングの趣旨であった。
「本日は英雄聖騎士でもある、精鋭騎士団第一部隊カミュロン・ダイナル隊長の輝かしい晴れ舞台である。英雄聖女ソフィア嬢と共に、神の名のもとに王国の更なる栄華と発展の為に尽力する事を約束してくれるだろう。又、国王陛下や王族方、貴族方だけでなく、世界各地から多くの主賓達が大聖堂へとお集まり頂く予定である。各員粗相の無いようにするのは勿論だが、決して事故等が無いよう心してかかれ」
「はい」
「昨日までに詰めておいた本日の業務内容について、特に変更点などはないか?通信ラクリマが未だ不調ではあるが、それ以外について何かあるなら発言して欲しい」
「ありません」
この場に居た全員が次々に同じセリフを送った。
……最前線に立っている筈の王国騎士の隊長達が、間近に迫っている最悪の危機に、誰一人として全く気づいていなかった。
それを聞いたアリステアも「うむ」と合意して、そのまま号令をかけてしまう。
「それでは、各員持ち場につけ。本日も健闘を祈る!」
「「「イエス、サー!」」」
この日、王国騎士団の名誉と存亡は、ドン底に突き落とされる事となる…。
花嫁様の準備が整いました。
一足先に騎士仕様の白タキシードに腕を通して式典用の剣を帯刀していたカミュロンは、スタッフにそう声をかけられると半ば緊張した面持ちで待機室に入ってみる。
すると目に飛び込んできたのは、眩い純白に包まれ、美しいベールを纏った、可憐ながらも美しいと表現せざるを得ない、女神の様な天女の様な……自分の花嫁の姿だった。
思わず言葉を失ってしまっているカミュロンに、見つめられて恥ずかしいソフィアは困った様にくすくすと笑ってみせる。
「カミュロンったら。前のフィッティングの時に一度見ているじゃありませんか」
「あ、そ、そうだけど、何だか今日は、一段と……」
「一段と?」
小首を傾げて微笑んでくるソフィアがあまりに愛おしくて、顔を赤くしながら「き、綺麗です…」と何とか最後まで絞り出した。
それを聞いてソフィアは満足そうにまた声を出して笑うが、次の瞬間には少し暗い表情をしてしまう。
結局この日になってもキキュルーの行方は分からずじまいで、約束をしていたリカルド達も未だに会場に姿を見せていない。
身寄りのないソフィアにとって、この晴れ姿を一番見て欲しい人達が誰一人としてまだ到着していないのだから、落ち込んでも仕方の無い話なのだ。
それをすぐに察したカミュロンは同じ様に眉尻を下げながらも、ソフィアを慰めるように背中に手を回して少し身を寄せ合った。
「大丈夫だよ。まだ式まで時間はある。それまでにはみんな来てくれる筈さ」
「はい…」
「え?ウソ?ロドルフォどころかリカルドとニナもまだ来てないの!?」
声が聞こえてすぐに振り向くと、ドレスアップして他の男性通行人や来賓者の視線を独り占めしながら大聖堂まで歩いてきた絶世の美女が、待機室の扉を開けて驚いたような表情をしていた。
藤紫色のドレスと身に付けたアクセサリーが、彼女の美貌を一層引き立たせている……そう、キキュルーだ。
その姿を見つけた瞬間、ソフィアは居ても立ってもいられず傍に駆け寄ろうとするが、慣れない靴と長いドレスに足がもつれそうになって、慌てたカミュロンに支えられる。
「キキュルー!無事で良かった!今まで何処に居たんですか!?」
「ごめんなさいソフィア。心配かけたわね。会う約束もしてたのに連絡もできなくって」
「……いいえ、いいえっ。キキュルーが無事なら、それだけで良いんです。本当に良かった…!」
思わず泣き出してしまうソフィアに苦笑しながら、キキュルーはハンカチを差し出して優しく拭う。
予想通りの反応に申し訳なさが募るが、どうしようも無かったのだ。
「今日が終わったら、何があったのか全部話すわ。話すととっても長くなるの」
「はい……では、お泊まり会でもしましょうか」
「良いわねそれ。でも新婚早々お邪魔しても良いの?」
「ふふふ。どうですか?カミュ」
「んー……僕としては、ソフィアを暫く独り占めしたいんだが?」
冗談めいた本心に女性二人は思わず吹き出してしまった。
かなり場の空気が和やかになり、これで少しはリラックスして式に臨む事が出来るだろう。
泣いてしまった事でメイクを軽くやり直す事になったソフィアを再度鏡の前に座らせると、ソフィアとカミュロンは離れたソファに腰掛けて、ソフィアに聞こえない様少しばかり内緒話を始めた。
「ロドルフォ達はまだ戻ってきてないの?」
「それが、通信ラクリマが今使えなくなっていて、彼等と連絡が取れない状況なんだ。彼等が今何処まで戻ってきているのかすらもわからない。他にもおかしな事が幾つかあるから、相談に乗ってくれ」
「おかしな事?」
疑問を投げかけるとカミュロンは続けた。
「通信ラクリマが使えなくなったのは三日前の昼過ぎなんだが、実はその直前に僕とソフィアは、リカルドさんとエスポア専用のラクリマで通信をしていたんだ。その時に彼から「周りに虫が居ないか?」って変な事を聞かれてね」
虫、という単語にキキュルーは背筋がゾワッとしてしまった。
それでも平静を装って話を聞き続ける。
「その時はたまたま僕の肩に小蜘蛛が乗っていて、たぶんそれを聞き取った彼は、その後僕達と当たり障りのない話をして通信を切ったんだ。もっと話したい事があっただろうし君の安否も凄く気にしていたのに、何だか躊躇っていた風に感じたんだ」
「そう…」
「それと、昨日の夕刻前から王都の外からの往来が極端に減ったらしいんだ。元々とんでもない人の数になっていたから入都規制をかけていたみたいで、それを知った他所の街の人々が王都の周りで待機しているだけなのかもしれないが、少し気になったから君にも伝えておくよ」
其処まで報告すると、早々にソフィアの化粧直しが終わったので続きはまた後にする事にして、カミュロンはソフィアの傍に、キキュルーは先に会場入りすると言ってその部屋を後にした。
来賓客が多いフロアを歩きながら、キキュルーは考える。
遙か遠方に居る筈のリカルドが虫の事を知っていたという事は、ヒュードラードの連れである子供達と無事に接触出来て、その子達から情報を仕入れたと見て間違いないだろう。
それに、エスポアメンバーで使用しているラクリマの通信範囲に居たという事も今の報告で推測できるから、恐らくはもうかなり近くまで戻ってきていると思われる。
まだ会場入りをしていないのは、もしかしたらその入都制限に引っかかって王都の前で足止めを食らってしまっているのかもしれない。
そうなると、式開始時刻までに彼等が身支度を済ませてこの大聖堂までやってくるのは、かなり無理があるのではないだろうか。
それなら、前と同じで私がアイツを見張っていなくちゃね。
そう考えたキキュルーは、一度宿に戻った時にバッグの中へと詰めておいた追跡用マジックアイテムを取り出して、周りの人々にバレないよう掌から転がり落とした。
キキュルーお手製のその小型アイテムはそのまま周りの風景と同化して、素早く設定された追跡相手の行方を探して床を滑っていった。
動きからすると、アリステアもどうやら既にこの大聖堂へと来ている様だ。
………という事は、もしかしたら彼も……。
「ヒュー…」
今朝の優しい口付けを思い出して、少し頬を染めながら唇に指を当ててみた。
その仕草に、色っぽい表情に、偶然傍を通り掛かった何処かの国の貴族が何人か立ち止まって見惚れてしまっているが、そんなのお構い無しにキキュルーは甘くて切ない思い出に浸っている。
だが声をかけたそうに近付いてきている気配に瞬時に気付くと、不愉快そうな表情を取り繕って強気にヒールの音を立てて、恐らく知っている顔が何人かは揃っているであろう大聖堂のホールへと真っ直ぐ向かった。
絶世の美女、世界三大美女の一人、とまで称される事もあるキキュルーに、今まで男っ気がなかった理由。
彼女は軟派な男、知識の浅い男、そして頼り甲斐のない男が大嫌いだった。
それこそ軟派はともかく、彼女のお眼鏡にかなう様な深い思慮と知識を持つ男など、研究室に缶詰めになっている様な一握りの専門家でもそうそう居ないし、もし居たとしても自分の専門外の事となると途端に頼れなくなる男ばかりであるのが現実だ。
それを考えると、ヒュードラードとの出会いはキキュルーにとって、本当に運命だったのかもしれない…。
「……なん、だい……これは……」
結婚式開始時刻、その丁度ぐらいに王都へと続く大通りまで到達できたギスターツは、目の前に広がる光景にいよいよ絶望してしまった。
此処に来るまででも蠢く魔蟲の間を何度も走り抜け、不運にも鉢合わせして食われてしまったのだろう名も知らぬ誰かの残骸を見かけて身の毛立つ思いをしながら、地獄とも言える景色を掻い潜って死に物狂いでいたのだ。
ようやく王都に辿り着けると休む間も惜しんで外門へと向かったというのに、其処へ続く大通りに出た途端、王都のある方角を見て一瞬で愕然とした。
此処からでも王城が望める筈だった王都バルデュユース。
その全てを包み込むかの様に、空から黒い靄の様な帳が掛けられており、まるで渦を描く様にその周囲をゆっくりと漂っていた。
まるで籠の中の獲物を閉じ込めているのではと思わせるとんでもない超常現象に、ギスターツは通信ラクリマが一切通じなかった原因はコレであると瞬時に悟った。
急いで外門前まで馬を走らせるとやはり其処にも靄が漂っていて、目を凝らせば辛うじて中の様子は見えるものの、開かれている門の先を往来している人々はこの超常現象に全く気付いていないのか、活溌かつにこやかに動いている者達ばかりだ。
「おい!外がヤバいのに気付いてないのかい!?変な靄があるし魔蟲の大群がすぐ目の前まで来てんだよ!!」
思わず外門警備をしている騎士に向かって叫んでみるが、ギスターツ自身も隠蔽という術がまだ解けていない為に声が届く事はなかった。
ならばと馬から降りて足場に転がっていた石を投げてみれば、黒い靄に当たった途端に空間が歪んだかの様にぶれてギスターツの方に跳ね返ってくる。
そして中にいる騎士達は……石が飛んできた事にも気づいておらず、自分達の目の前に広がる何の変化もない外へと続く大通りを、意味もなく監視していた。
騎士達の目には、入都規制をかけたが為にその大通りで結婚式の祝いの準備をしている、居もしない観光客達の姿しか見えていなかった。
そしていよいよ、結婚式の開幕を告げる、大聖堂の荘厳な鐘の音が王都中に鳴り響く。
「やーっと約束の時間かー。この術、ずーっと張っとくの結構面倒だったんだよねー。コレがずーっと出来る様になったらオレっちも昇格すんのかなー。……やっぱ面倒だからどーでも良いわ。うん、どーでも良い」
靄が渦巻いている空を気ままに飛び回っていたあの時の男はそう言って、適当な場所で魔蟲を止めると王都の方へと向き直った。
そしてギスターツ達に張った術と同じ手順で、パンッ!と手を叩く。
「"黒い箱庭・解除"。さあ、生贄になっちゃいなー」
その言葉と同時に空のてっぺんから徐々に黒い靄の帳が晴れていく。
それはやがて背の高い建物の屋根に届き、王都を囲む外壁、そして人々の目が届く高さまで時間をかけて溶け落ちていく。
目の前に広がるその異変に最初に気付いたのは、外壁の屋上から王都の外側を監視していたつもりでいた騎士達だった。
「な、な、な……」
「何だ、あれ……何で急にこんな事に!?」
「い、い、一体、何処から湧いてきたんだ!?」
「で、伝令!至急伝令に走れ!」
「「「魔蟲の大群が出現したぞー!!」」」
帳が消えた瞬間、王都からもようやく周囲を取り囲む異常な程の魔蟲達の姿を捉える事ができた。
大地を埋めつくさん限りの、このデューベ中の魔蟲が集結したのではないかとも思わせる程の、圧倒的な数の暴力。
魔蟲大進軍の規模は、凡そ百万匹程に膨れ上がっていた。
『ギィエエエエーー!!!!』
魔蟲達は靄が完全に消え去った瞬間、一斉に鼓膜が破れんばかりの雄叫びを上げて地響きを立てながら走り出した。
その声は王都の何処に居ても聞こえる程で、もちろん大聖堂にて厳かな音楽を奏でていたこの結婚式会場の中でもソレははっきりと耳に届き、一瞬で会場はパニックとなった。
「何事だ!?」
参列者が全員狼狽えている中で王族達の護衛任務に当たっていた団長や隊長格の者は瞬時に状況把握に勤しみ、国王達の傍に控えていたアリステアも側近に直ぐ様外へと走るよう指示を送る。
だが誰かが会場の外へ出る前に、大聖堂の警護に当たっていた王国騎士の一人が逆に会場の大扉を開けて転げる様に中に入ってきて、血相を変えながら大声でその場全員に聞こえるように叫んだ。
「た、大変です!!襲撃!!魔蟲の大群が突如空から現れて、王都への襲撃を開始しました!!」
「な…!?」
「そんな、有り得ん!!」
「規模は不明!ですがとんでもない魔蟲の数です!ざっと見たところ一万や二万では収まりません!お、恐らく地上からも襲撃を受けているかと!!」
「警備は何をしていたんだ!?」
「そんな数の魔蟲、どうして今まで接近している事に気付かなかったんだ!」
「我々にも分かりません!!本当に急に現れたんです!!まるで、今まで何かに隠されていたかの様に!!」
叫び終わらないうちに建物の近くで爆発音と振動が響いて、そこかしこから悲鳴が上がった。
気が動転した者から逃げ惑い始め、王国騎士達や各国の護衛部隊は直ぐに避難誘導を開始する。
祭壇の前まで来て抱き合っていたカミュロンとソフィアも、突然の事ながらも視線を合わせて頷き合うと、出来なかった誓いのキスを教皇だけに見守られながら早々に済ませて、何の名残りもなく別行動を取った。
カミュロンは帯刀していた装飾用の剣を捨てて、控え室に置いてきた自分の槍を取りに。
ソフィアは怪我人救護の為に、ウェディングシューズを脱ぎ捨ててドレスを抱える様に持ちながら。
英雄部隊エスポアとして幾度も魔蟲達と戦ってきた英雄聖騎士と英雄聖女は、それぞれがこの場で出来る事を誰よりも熟知していた。
そしてもう一人、英雄魔女ことキキュルーは、特別来賓席にいる国王達を一番に避難させようと動いていたアリステアから視線を外さなかった。
「どういう事なの?」
キキュルーが思っていた以上に、アリステアの様子が他の騎士達と大差ない。
冷静を装ってはいるが顔色が悪く、魔蟲の襲撃など全く予期していなかったという風な様相で、騎士達に飛ばす指示にも若干焦りが見え隠れしている。
王国騎士団の威厳が失墜するこの非常事態に、流石の王国騎士・精鋭騎士団団長を長年勤め上げてきた男も、かなり狼狽しているようだった。
この魔蟲達の襲撃は、虫を操れる彼が仕組んだ事じゃないわけ?
真相が未だ見えなくてキキュルー自身も混乱し始めた時、遂にこの大聖堂にも魔蟲の魔法が飛んできて、盛大にステンドグラスの窓が破壊された。
更に悲鳴が上がって、本格的に逃げていく周りの貴族や来賓達に舌打ちすると、キキュルーは動きにくいドレスの裾を躊躇なく破って腰に括り付け、動きやすい格好に改造してから自分の荷物を預けている方向へ走り出す。
其処にはキキュルーが戦う為に必要な、戦闘用ラクリマが置かれている筈なのだ。
黒靄の帳が消えた瞬間、魔蟲の雄叫びと同時にギスターツは、王都の領域内に馬と並んで猛スピードで駆け込んだ。
その瞬間にパンッ!と風船が弾ける様な音が聞こえて、周りの通行人からは突然ギスターツ達が目の前に現れたかのように見えて酷く驚かれる。
その数秒もしないうちにもう一度破裂音が聞こえて急いで振り返ると、同じ術をかけられていたバグダーツが勢い余って馬から振り落とされ、地面に体を打ち付けていたところだった。
「バグ!無事だったか!」
「姉貴の方こそ!姉貴!急いで転送ラクリマを!」
「言われなくってもわかってるよ!アンタは早くそこの木偶の坊に門を閉めるように言ってやれ!」
指示を最後まで聞くかどうかでバグダーツは直ぐに立ち上がって、突然の展開に唖然としている騎士の一人を揺らして閉門しろと大声で叫ぶ。
それでも理解が追いついておらず騎士が動けないでいると、次第に大きくなってきている地響きに気付いてようやっと危機感を感じたようで、「へ、閉門!!閉門ー!!」と号令をかけて動き出した頃には、大通りの先の方から既に物凄い数の魔蟲の姿が視認出来る程になっていた。
それを目撃してしまった観光客や王都の住民は、全員がもれなく顔を真っ青にさせ、悲鳴を上げて一斉に王都の中心へと逃げ出して行く。
建物の中に居た者達は次々に窓やドアを施錠して、この場に残ったのはギスターツ・バグダーツの姉弟と外門警備に当たっていた王国騎士数十名のみ。
一目でわかる圧倒的な兵力差と、重すぎるが故に閉じるのに時間がかかっている外門の動きに、気の弱い者はもう駄目だと既に絶望してしまっていた…。
だが運が良い事に、外門前の人混みが一斉にはけて行ったおかげで、数百人程が其処に出現しても支障のない広さを確保する事ができた。
それを見留めた瞬間、ギスターツは大事に持っていた転送ラクリマを起動させて、その広場中央に向かって思いっきり振り被ってソレを投げ捨てた。
ラクリマは地面を数回跳ね、その後ガラスの割れる音を立てて破裂し、中に描かれていた魔法陣がこれまで見た事もない程大きく展開して眩い光を放つ。
そして……。
「"火剣・爆破"!!」
「"どっかーん"!!」
二人の男性の声が同時に響いた。
門が閉まるかどうかの瀬戸際、目前まで魔蟲が迫っていてあわや侵入を許してしまうという直前で、二人が放った爆発系火魔法と雷魔法が最前列の魔蟲達を吹き飛ばして、外門の後方へと押し戻した。
その勢いで怯んでいる隙に外門は完全に閉ざされ、一旦の魔蟲の侵入を阻止する事に成功する。
「"コーティング・ショット"!!」
続けざまに門に銃弾が二発打ち込まれると、其処から魔法が広がって門の耐久をより強固なものにする。
すると次の瞬間には外から魔蟲達が体当たりしてきている音が聞こえ出したが、王都の門は固く閉ざされたままビクともしなかった。
「あ……ニナ……副マスター……」
目前の危機を一瞬で打破してくれた存在に、ギスターツは柄にも無く嬉し泣きしそうになる。
バグダーツも今迄の恐怖から思わず腰を抜かすも、嬉しくて笑い声を上げながら転送ラクリマが発動した広場を見つめ続けた。
転送ラクリマを利用してその場に出現したのは、複数のギルド組員で構成されたギルド連合・総勢1200人と、子供二人、魔蟲一匹。
そしてその最前列にて開幕早々魔法を放ったのは、英雄部隊エスポアの三人。
英雄剣豪・ロドルフォ。
英雄スナイパー・リカルド。
英雄国宝・ニナだった。
─────────