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フィア─帰りたい者達の異世界旅─  作者: ミリオン
始まりの世界(デューベ)編
8/18

8

ふわふわと浮いている気がする。

雲の様な霧の様な、足元一面に白い靄がある空間での浮遊感覚を味わっていると、段々楽しい気分になってきた。

何の気はなしに鼻歌まで歌いだし、その靄を両腕で掴めるだけ抱き掴むと、ぎゅっぎゅっと自分の口で擬音を出しながら小さく、凄く小さく丸めていき、掌に収まるぐらいまで握りこんでみる。

やがて両手で覆える程の小ささになった靄は、ゆっくり手の蓋を開けてみるとそれはそれは見事な小宇宙へと生まれ変わっていて、そのまま掌から飛んで行って他の兄弟の中へと混ざっていった。


「また創ったのか?」


やや呆れ気味の声が後ろから聞こえて、誰かに優しく抱き込まれる。


「だってソレが僕の特権だもん」

「創り過ぎたものを壊さなきゃならん我の身にもなれ」

「だってソレが君の仕事じゃん?」

けいって奴は、全く…」


これ以上は言っても無駄だと頬を膨らませば、後ろ手に顎を掬われて横を向かされ、覆い被さる様に誰かの顔が近付いてきた。


「早く、我の手元に戻ってこい」


触れるかどうかの至近距離。

突然そう言って瞳を覗き込んできたその誰かは、何だか凄く寂しそうに見えた……。








視界が黒一色になりゆっくり瞼を開けてみると、カーテンの隙間から漏れ入った月光によって浮き出ている天井の染みが目に入った。

此処が何処だかわからずにぼんやりとしてれば、徐々に思い出してくる体の気だるさと筋肉痛、そして足の痛み。

そういえば、ニナーナさんに病院に連れて行ってもらった後、ギルドってとこに運ばれてそのまま寝たんだった。

クゥフィアはそう思い出して、部屋の中を見回す為に首を捻ってみた。


『起きたのか?』


すると、ベッドの横で椅子に座って足と腕を組んでいたニナが、クゥフィアが目覚めた事に気付いて声をかけてきた。

既に夜で、室内でもあるのでサングラスは外しており、目下まで伸びている呪法の紋様がやけに目立っている。


『水と、少し塩を摂れ。食欲はあるか?』

「ん…ちょっとだけ…」

『果物があるんだ。今剥くから待っていろ』


そう言ってとりあえずクゥフィアに水分を摂らせ、差し入れで貰ってきていたスモモの様なものを果物ナイフで切っていくと、食べやすい大きさにして差し出してくれる。

重い体を起こして少しだけ齧ってみると、まだ酸味が効いていたが美味しいと感じた。

熱を出したのはかなり久しぶりで、こんなにしんどかったっけ?とぼんやり考えながらちみちみと食べ進めていく。


「……ゼトは?」


ふと、いつも傍に控えてくれている、律儀でクゥフィア想いの従魔であるゼトの姿が見当たらない事に気付く。

特に考えていた訳でもなく素直に疑問を口にすると、ニナが無言で床を指差したのでベッドの下を覗いてみれば、床の上で体を丸めて寝息を立てている羽の生えた小竜がいた。

この姿が本来のゼンティウヌスの姿である。


『俺が交代すると言ったらこのまま力尽きた。ゼトが変身を解いてここまで寝入るなんて、よっぽど魔力が枯渇しているんだな』

「……ゼトは何も言わないけど、間接契約だからか僕の少ない法力を魔力に変えるだけでもかなり大変みたいなんだ。しかも僕、法力はあまりないらしくって」

『何?クラウディスの子供なのにか?』

「うん…」


それを聞いてニナは少し考え込む。

この世界デューベで使っている魔力という言葉は、クゥフィアやニナ達の故郷であるデュアル・ファン・エディネスでの魔力と字面自体は同じだが、意味が異なる。

デューベでの魔力は魔晶石や魔蟲の体内に宿っているので、異世界の彼等からしてみれば法力の類に入るのだが、デュアル・ファン・エディネスでの概念は法力が特異変質を起こした(・・・・・・・・・)ものを魔力と呼んでおり、創造神の手から離れたその魔力が魔界に充満し、そしてその吹き溜まりから悪魔達が生まれてきたのだ。

人間が体内に宿しているのが【法力】であるなら、悪魔族の身体含め全てを構成・構築しているのが【魔力】であり、又、人間が法力を利用して行使する術を【魔法】というなら、悪魔族が使う術は法力ではなく魔力を使用することから【魔術】と呼ばれている。

法力と魔力の根本は同じであるのでデュアル・ファン・エディネスの人間でも間違える者はいるが、悪魔族からしてみれば火も通していない生肉と、程良い火加減・味加減を見て丁寧に焼き上げた極上ステーキぐらいに異なるものだ。

だから法力を魔力に変換するにはそれなりの手間暇がかかり、コストパフォーマンスを考えると、悪魔の使役は人間側にとって圧倒的に不利益なものである。

だが、その間のエネルギー消費すらも計算に入れた上で人間と、魔力の塊とも言える悪魔族が従魔契約を結ぶ事は稀にある。

それがゼトとクゥフィア……正確に言うとクゥフィアの父親であるクラウディスの関係だった。


悪魔と契約できる程の法力を持つ人間は数が少ない。

クゥフィアの父親は、デュアル・ファン・エディネスでも屈指の大魔法師であり、ニナが直に目を付けていた程の膨大かつ、良質な法力の持ち主であった。

それこそ、上級悪魔のゼンティウヌスがクラウディスの法力を魔力へと変換して七割程の実力を発揮したとしても、クラウディス自身もまだ余裕で魔法が使える、というとんでもない規格外だったのだが、その子供である筈のクゥフィアが法力が少ないなんて、そんな事が有り得るのだろうか…。

気になったニナは『少し試してみよう』と呟くと、一度立ち上がって部屋に置かれていた戸棚へ向かい、其処から紙二枚とペンを取り出して少し形が異なる魔法陣をサラサラと描いていった。

まず一枚目をクゥフィアに差し出す。


『その紙に少しだけ力を流してみろ』


理解できないながらも言われた通りにしてみる。

……十秒程試してみたが、何も起こらなかった。

するとその紙はさっさと回収されて今度は二枚目を渡され、同じ事をやる様に促される。

これはなんの確認なんだろう?と疑念が沸いたが、次の紙に軽く力を注けば今度は一瞬で魔法陣が光り、パンッ!とクラッカーの様な音を立てて大きく弾け飛ぶと、部屋中に眩い光の粉が降り注いだ。

突然の破裂音にクゥフィアはビックリして唖然と自分の上に降ってくる光を見つめ、ゼトも飛び跳ねる様に起きて何事なのかと辺りを懸命に見回している。


『……成程なあ。やっぱりお前は正真正銘、神の生まれ変わりなんだな』

「ど、どういうこと…?」


全く理解が及ばず口が開きっぱなしになっているクゥフィアに、ニナが説明を加える。


『一枚目の紙は法力に反応するパーティ用の魔法陣だ。本来なら僅かながらも一定量の法力を注げばこんな感じで弾ける。普通はもっと規模が小さいがな。そして二枚目も同じ類の魔法陣。だがこっちが反応するのは別の力だ』

「別のちから?」

『天界に属する者だけが持つ、【聖力】。これは法力や魔力と似ているが、全く違う種類の力だ。人間が聖力を持っているなんて本来有り得んし、もし持っているとするなら、天使が憑依しているか、天使の生まれ変わりか、天使から祝福を受けたか』

「……」

『そして聖力は、創造神が持つ【神聖力】を天使にも使える様に薄めて分配したものなんだ。だから創造神に背いている悪魔の素となる魔力へと変換する事は不可能でな。……法力用の魔法陣は全く反応しなかったのに、聖力用の魔法陣はこれ程の規模で一瞬で弾け飛んだ。お前がかなり濃度の高い聖力……つまり、神聖力を持っている証拠と言って良いだろう』


そして、神聖力が膨大すぎるが故に、人間である証拠とも言える法力を宿しておくだけのキャパシティが微々たるものしかなく、その量だけを見ると確かに内包する力がとても少ないと勘違いしても無理はないのだと言う。


『むしろたったこれだけの法力でゼトが活動できているなら、量はともかく質が相当良いんだろう。クラウディスも法力の質が非常に良かった。……お前は神の生まれ変わりではあるが、間違いなくアイツの子供でもあるんだな』

「!」


そう言われて、クゥフィアは心の底から嬉しいと思った。

顔も声も知らない父親の面影。

とても立派な人だというのはゼトからいつも聞いていたし、クゥフィアの外見も父親似であるとは言われていたのだが、他にも似ている箇所があるという事を知れる機会はとても少ない。

だからまだ出会って数日しか経っていない、父の事を良く知っているというニナの口からそれを言われた事が、クゥフィアにとっては非常に嬉しかった。

熱が出ている事を少しだけ忘れ、口元まで布団を引っ張り上げて顔半分を隠しながら、「へへへへ…」と照れ笑いをしてみせた。


『少し元気が出たか?』

「…うん。ニナーナさん、ありがとう」

『礼を言われるような事はしてねえなあ。さ、薬を飲んだらもう一度横になれ。せめて風邪だけでも早く治せよ?』

「うん!」


火照った頬を緩めながら、キュウキュウと鳴く小竜の姿で薬瓶を差し出してくれているゼトからそれを受け取って苦味に堪えつつ飲み干すと、またベッドの中に潜り込む。

ニナが布団を掛け直して、すぐにうとうとし始めているクゥフィアを優しい目で見下ろしてきた。


「ねえ、ニナーナさん?」

『何だ?』

「ニナーナさんって、父上とどうゆう関係だったの?もしかして、おともだち?」

『……言葉にするのは難しいなあ。俺にとってのクラウディスは…そうだなあ……。強いて言うなら……』


あえて間を空けて、クゥフィアが意識を手放しかけているタイミングを見計らって、とても、とても優しい口調で静かに囁く。



『[贄]だ』



…その言葉をクゥフィアが拾う事はなかった。

慣れない熱に意識を刈り取られてすぐに寝入ってしまった為、垣間見えたニナの本性に気付く事すら出来なかった。

愛らしい子供が寝息を立て始めているのを確認すると、ニナは物音を立てない様静かに椅子から立ち上がり、ベッドの縁に張り付くような姿勢で見上げてくるゼトを一瞥する。


『お前達は明後日まで待機だ。出発の準備が出来次第、クゥフィアを抱えてでもバルデュユースに飛ぶ。それまでは英気を養っていろ』

『はい。畏まりました』

『それと、一応念を押しておく。リカには、絶対に、指一本、触れるなよ?』

『……はい』


強調しながらの命令と背筋が凍る冷徹な目で睨まれて、ゼトは肝を冷やしながらも返事を絞り出した。

それを聞いて満足したニナは、サングラスを掛け直して部屋から出ていく。




ギルド本部に併設されている寮棟の中を歩き、渡り廊下を進んで本部二階の連絡通路を真っ直ぐ、そして扉を開いて深夜帯にも関わらず非常に騒々しいフロントの二階デッキへと出ると、其処から縁にもたれかかって一階の景色を覗き込んだ。

普段は仕事の受注や報酬取引、酒や食事を飲み食いしている者達で賑わっているかなり広めのホールだが、今は邪魔な椅子や机を全部壁際へ押し退けて、武器・備品の調達や各チームの戦略会議、他ギルドとの頻繁な連絡のやり取り等で当ギルドの殆ど全員……約320名が所狭しとひしめき合っていて、いつもとは違う緊迫した喧騒さを生み出していた。

戦争の準備である。

突然露呈した魔蟲の大進軍を聞かされて、徴集されたギルド組員は全員もれなく顔を蒼白させ、特に王都に身内や知人が居る者達は酷く慌てて一斉に駆り立てられる様に動き出したのが、日付が変わる前の夕刻頃の話である。

だが、現時点で既に懸念事項が幾つか出てきていた。


一つは、準備期間が短すぎる事。

以前の戦争があったのが一年程前ではあるがもはや過去になりつつあったので、集団戦闘に必要な物資や食糧が、この短期間で必要最低限の分まで掻き集められるか際どいところなのだ。

以前の戦争から残っていた在庫の魔晶石やラクリマも、未知数の魔蟲の大群が相手では正直に言うとかなり心許ない。

なので街中のツテというツテを頼って出来うる限りの物資調達に奔走している所ではあるが、あとたった数日で何処まで集められるかは本気でわからない状況である。


二つ目は、早馬チームが大進軍よりも先にバルデュユースに辿り着けるかどうか。

ヴァランがニナにいの一番に呼びに行かせたギスターツという人物は、ギルドの中で特に馬の扱いに長けた男勝りの快活な女性だった。

マスターから任務を受けたギスターツは、転送ラクリマを受け取るとすぐに自分が扱き上げた早馬チーム九人を徴集して自分も颯爽と愛馬に飛び乗り、計十対の人馬ペアで昨日の夕刻前には既にこの街を出立している。

道中何事もなければ恐らく結婚式が予定されている日の早朝には王都に辿り着けるだろうが、もし何かトラブルに見舞われれば時間をロスするのは言わずもがな、最悪の場合、大進軍の襲撃よりも後に王都に到着する可能性もある。


三つ目は、これが一番の懸念内容なのだが、魔蟲側の規模がどれ程の大きさなのかが把握出来ていないというのと、その大群がいつ王都に奇襲を仕掛けるのかもはっきりとわかっていないのだ。

大進軍が到達するのは今すぐかもしれないし、一週間後かもしれない。

捜査をする時間が皆無だった為に密告してきた魔蟲からの話でしか推測できず、現時点での目処は王都の人口が最高潮となる、もうあと二日後に迫っている、カミュロンとソフィアの大結婚式のタイミングが最有力の意見として上がっている。

それを想定して出来うる限りの対策を練らないといけないのだが、恐らく魔蟲の大群の数は万を超える規模であるだろうと予想されており、それに比べて人間側の戦力は、他ギルドの力を借りたとしてもたった千~千五百程度にしか満たないとされている。

国境騎士団や他の街に駐屯している騎士の存在もあるが、あとたった二日で戦場に駆け付けられる程の近場に殆どいない為に当てにできない。

だからこそ現地にいる王国騎士団や、他国から王族・貴族の護衛等で来訪しているであろう他国家の護衛部隊等の助力が絶対不可欠であるのだが……。



「此処に居たのか」


後ろから声をかけられて振り向くと、ニナと同じ寮側の方角からやってきたリカルドがそこに立っており、そのまま静かに横に並んでニナと同じように階下を見下ろした。

寮のシャワーを借りたのか石鹸の匂いがして着替えも終わらせているが、だいぶ疲労が溜まっている顔色で、縁にもたれかかる姿勢がかなり気怠げの様子である。


「れんらく、つながった?」

「全然駄目だ。肝心な王都にだけ通信ラクリマが繋がらない。カミュロンとソフィアにも……一体どうなっているのかさっぱりだ」


そう、これが四つ目の懸念だった。

危険を知らせようとリカルドが真っ先に大型通信ラクリマで王都にある王宮宛に通信したのだが、何故か砂嵐の様な雑音ばかりが聞こえて一向に声が届かず、全く連絡が取れなかったのだ。

他にも王国騎士団宛や、エスポア専用の通信ラクリマでカミュロン達に連絡する等、思いつく限りのあらゆる連絡先や通信手段を使ったものの、全てにおいて同じ状況でまるで使い物にならない状態なのだ。

そして、二日以内に王都へ辿り着ける近隣の町や村には、そもそも通信ラクリマすら置かれていない。

自分達の足で伝達をする以外に方法は残されていなかった。


「王宮に連絡を入れる三十分前ぐらいには、確かにソフィアと通信できていたんだ。ゼトに改良してもらって高性能になったラクリマだぞ?にも関わらず、こんなに急に王都にだけ繋がらなくなるなんて有り得るのか?」

「ぜったいおかしい。なにかへんなチカラ、あるとおもう」

「だよな……。全く、なんでこう立て続けに妙な事件が続くんだ。しかもまた戦争になるかもしれんなんて……」


深く、勘弁してくれと言わんばかりに溜息を吐いてそのまま腕に顔を埋めてしまうリカルドは、出来る事なら夢であって欲しいと切に願った。

縁に体を丸める様な形でもたれかかっているその姿勢は本人は気付いていないが、ニナの角度からだと、少し湿っている髪の貼り付いた項が晒されていてとても良く見える。

サングラスのおかげでバレないとはいえ其処から視線が外せなくなり、ニナは分泌される唾液をバレない様に飲み込みながらも、今ではないと自分に言い聞かせて、代わりに慰めるようにその背中を軽く叩いた。


「リカ、やすんだほうがいい。つきあってもらってごめん」

「いや、俺が勝手について行っただけだ…。お前が謝る必要はない」

「でもカンシャしてる。よければリカ、オレにオネガイあるならきくよ?」

「お願いなあ……」


腕の隙間から階下を見下ろしたまま、ぼうっとしてきた頭で考えてみる。

本当なら自分達もあの喧騒に混ざらなければいけないのだが、シャワーを浴びてすっきりしたからか、それとも一浴びした後に憂さを晴らす為、カップ一杯の度数の高い酒をあおったからなのか、十日以上にも及ぶ旅の疲れが出てきて柄にも無く瞼が落ち始めてきていた。

半分寝かけている目で今度はニナを見てみると、サングラスでわかりづらいが柔らかく微笑みながら、こちらを見下ろしてきていた。

中々出来た、美人な相棒だと思う。

………でももうすぐ、居なくなっちまうのか…。


「……じゃあ、一緒に墓参りに行ってくれないか?俺の死んだ妻と、ガキの墓参りだ」

「いいよ。アサ、さっそくいこうか」

「ハハ。こんな状況なのにか?…そうだな。今のうちに、行っておく必要があるな」


二日後に王都に飛べば最悪命を落とすかもしれない。

ならば今のうちに、花でも買って家族の墓へと報告しに行きたいと思うのは、人として自然の流れではないだろうか。

ニナとの墓参りは既に何度も経験済みで、エスポアとして旅に出る前にも二人一緒に墓前で報告をした事もあった為に、彼も慣れたものだから…と気兼ねなく誘う事が出来た。


「色々と報告したいんだ。最近の事とか、お前の喋りが上達してる事とか、本当に色々聞かせてやりたいんだ」

「うん」

「もし二人が生きてたら、今頃お前を家に招待して、四人で夕飯を囲んだり、晩酌に付き合ってもらってたかもなって、今でも考えるんだよ。俺の妻はな、料理が絶品だったんだ。何を作らせても美味かったんだ」

「それ、なんかいもきいた」

「何度でも聞け。それに俺のガキも、生きていればもうゼトぐらいの歳になってたんだ。強い男に憧れていたみたいだから、きっとお前に懐いただろうな」

「………」

「ああ、そういえば、ゼトから聞いたぞ。お前、猫を被るのが上手いらしいな。まあ元が皇帝だか帝王だかだもんな。一般市民の俺達に合わせるのも、結構大変だったんじゃねえのか?」

「……リカ。なにかあった?」


眠気と酔いに任せて饒舌になっているリカルドにそう指摘すると、あからさまにビクッ!と肩を跳ねさせて今度は無言になった。

階下の騒がしい声や音がやけに耳に入る。

ニナは暫く無言のまま哀愁の漂う背中をあやす様に叩いていると、そのうちリカルドが身を起こして、ゆっくりとニナの方へ向き直った。

その顔を見て、サングラスの奥で思わず目を丸くする。



「ニナ」


恨みがましく睨みながらも、今にも泣きそうな顔。

戦時中に大切な者達を亡くした男は、近い将来大切な相棒にすらも置いていかれようとしている事が、言い様もない程に苦しくて苦しくて、堪らなかった。

だからといって駄々を捏ねて引き止める訳にもいかず、一体どうすれば良いのか結論が出なくて何とか名前だけでも声にして絞り出す。

それを見て、その切なげな声を聞いて、そして……。


ニナは心臓が激しく脈打ち始めるのを感じた。

理性が掻き切れそうになるのを寸での所でひたすら耐え、溢れ出そうになる唾液を意地で引っ込ませ、サングラスを掛けているのを良い事に欲望が見え隠れしている目を決して悟られない様に、ポーカーフェイスを保って向かい合う。


「リカ、つかれた?」

「…………ああ。限界だ。皆には悪いが、このまま寝れそうなぐらい疲れているみたいだ」

「オレのへや、つかう?かみんしつより、ベッドいいよ」

「そうだな。借りても良いか?」


いつもの様にあしらわれると思っていたのにあっさりと許諾され、自分から言い出したにも関わらず咄嗟に戸惑う。

すると先にリカルドが動き出して、ニナの肩に額を押し付けてきた。

ほのかにアルコールの匂いが混ざってニナの鼻腔を刺激する。

予想外の行動だったのか、珍しく分かりやすい狼狽を見せる相棒にリカルドは少し気を良くすると、今度はほんの僅かに彼のコートを指先で摘み、軽く引っ張った。


「運んでくれ」

「っ!…わか、った…」


詰まりながらも了承して、一階から見えない角度まで数歩歩かせた後に、ニナはそのままリカルドを抱き抱える。

奥へ引っ込む直前に一階で忙しなく組員と話しているマスター・ヴァランと一瞬だけ目が合ったが、彼は「休める者から休め」と事前に全員に指示を出していた為に、その場を立ち去ろうとしている二人を咎める事もなく見て見ぬふりをしてくれた。

出来る限り誰の目にも止まらない様に先程来た道を戻りつつも、途中で寝落ちたのかリカルドがニナの肩で寝息を立て始めて力無くもたれかかってくるものだから、間近にあるその肩や鎖骨に噛みつきたい衝動を必死で堪えながら、クゥフィア達の居る部屋とは別の階、別の寮部屋へと辿り着く。

足早に入ったその部屋は、ニナがこの世界に来てから帰る場所として確保している、寮内でも上等な部類に入るシャワールーム付きの一人部屋だ。

久しぶりに戻ってきたにも関わらず寮母が定期的に部屋の掃除をしてくれている為、シワ一つないシーツの張られたベッドにリカルドを丁寧に下ろす。

起きる気配がないのでそのまま靴を脱がせ、襟元と腰ベルトを緩めて寝やすい恰好にさせて、ニナはベッドの縁に腰掛けるとリカルドに覆い被さるように顔の横へと手を付いた。


「リカ、ほんとうにねた?」


話しかけてみるが反応はない。

そのまま少し間を空けて寝顔を見つめ続けてみたものの、瞼が開く気配すらなかった。

それを確認するとニナは大きく息を吸って、深く長い溜息を吐き、何度か首を横に振ってすぐに身を引く。


「おやすみ、リカ。……あいしてる」


聞こえているかもわからないのにそう挨拶して、布団をかけてやった後は自室である筈のその部屋から、早々に立ち去っていった。

ドアが閉まって次第に足音が速く遠くなっていくのを、寝たフリをしていたリカルドは目を瞑ったまま音だけで確認して、頃合を見た後に薄く目を開けると部屋の天井を見つめながら、思わず自嘲してしまう。


「確かに大切にされているな。こんな、女みたいに…。…俺ってこんなに女々しかったのか………くそっ」


腹立たしくなって毒づきながら腕で視界を遮った。

一晩だけなら、などと血迷ってしまった自分が恥ずかしい。

カマをかけるように据え膳を置いたつもりだったが、ニナは手を出すどころか、見た目的には歳上の同性である自分に寄りかかられてもただ戸惑うだけで、悦ぶ事も逆に嫌悪感すら見せる事もなく、まさかの紳士的にベッドまで運んでくれた。

普段から挨拶や礼代わりに「あいしてる」を連発する男だ。

その言葉が本当の意味を含んでいない事は重々承知していた筈なのに、一体何を期待していたのだろうか…。

リカルドは別の意味でも哀しくなってしまい、それ以上考える事をやめて馬鹿馬鹿しいと自分に言い聞かせて、そのまま布団を被ると本気で就寝する事にした。






……だがニナの方は、その頃部屋の一番近くに設置されている共同給湯室に急ぎ足で駆け込んで、前のめりになりながらシンクに顔を近付けていた。

まるで嘔吐するかのように息を乱しながら苦しそうに口を開けて、その唇から、歯から、舌から、大量の唾液がボタボタと落ちて排水口へ流れていくのを、サングラス越しに血走った目を見開きながら凝視している。

捕食本能にとうとう耐えきれなくなって、涎が止まらなくなってしまった様だ。


『クソッ!クソクソクソクソクソクソッ!クソが!!食い損ねた!!食ったら絶対美味かった!!またとないチャンスだったのに!!あークッソ何であんなに好い匂いがすんだよクソが!!』


自分宛てなのかリカルド宛てなのかわからない、異世界語の低俗的な罵倒が響く。

今まで頑なに外そうとしなかった、優雅で人当たりの良い男という仮面をあっさりかなぐり捨てて、瞳孔が開いたままの目を強く閉じると、痛みすら感じてきた己の股間を押さえてその場でかがみ込んでしまった。


『あんな、強烈な【魔香】を持つ奴なんて、デュアル・ファン・エディネスにも居ねえぞ。しかも急に匂いが強くなった…食い頃だったのに!あーーーもったいねえ!!今すぐ戻ってかぶりつきてえ!!』



魔香とは、ニナやゼトが属する悪魔族にしか嗅ぎ分けられない特殊な香気の事で、悪魔族の食欲と色欲を極度に刺激する、言わば一種の麻薬のようなものだった。

極々稀に、特異体質としてその魔香を持った人間が生まれる事があるのだが、十万人に一人居るかどうかという程の極めて極小確率の体質である。

そしてもしその匂いを嗅ぎつけた悪魔が居ようものなら、大抵すぐに骨も残さず食らってしまうか、攫って熟すまで待ってから力ずくで組み敷いて、性的な意味でやはり食らうか、或いはその両方を取る欲張りな者すらもいた。

滅多に手に入らないというプレミアムな魅力と、魔香を持つ人間を食らうと魔力が活性化するという悪魔にとってこの上ない効能がある事から、昔から魔香持ちの人間を巡る熾烈な争奪合戦は後を絶たなかった。

そんな下級や中級身分の無様な抗争には全く関心がなかったニナも、魔香の匂いを嗅ぐとやはり欲は唆られるもので、時折献上品として自分の目の前に差し出されればその時々で、丁寧に味わいながら食らうか、好きに抱き潰して、風味が落ちたら部下のお下がりにするかを選んでいた過去がある。

だが、これ程までに理性が持っていかれる程の強烈な衝撃は何万年と生きてきた中で一度もなかった為に、この三年間、彼は非常に辛い思いをしていたのだ。



デューベに飛ばされてからすぐに勢い任せで助けた人間の男。

別に助けなければという考えはなく、魔力を完全に封じられ、身体中に自分好みではない呪法の鎖を巻き付けられ、その上異世界へ追放されたという徹底的な屈辱がニナにとっては我慢ならず、鬱憤を晴らす為にたまたま目の前に現れたデカブツを気が済むまで切り刻みたかっただけで、それをするのに邪魔だったから男の腰を抱き掴んで後方へ下がらせようとしただけだった。

だが体が密着した瞬間、雨で嗅ぎ取れなかった魔香の匂いを間近で思いっきり嗅いでしまい、たった一瞬で自我が飛びかける。

強烈で甘美、至極で無上。

これ程迄に理性を刈り取られる魔香を肺いっぱいに吸い込んだのは流石のニナも初めてで、衝動のままにその男をその場で押し倒しかけたものの、何とか気力のみで踏ん張って直ぐに離れた。

しかし、それからは酩酊したかの様にふわふわとした感覚しか覚えておらず、恐らく意地で耐えた後は気付かぬ間に魔蟲を斬り殺していたのだろうが、最終的には気を確かに持つ事が出来なくなりすぐに倒れてしまったと記憶している。

そして次に目覚めた時には、甲斐甲斐しく自分の看病をしてくれていた魔香の所有者───リカルドが其処に居たのだ。



『はあ……リカ……俺のリカ……食いてえ……今すぐ抱きてえよ……!』


涎が顎を伝うのももう気にする余裕はなく、叫ぶのをやめて恍惚とした表情でうわ言の様に呟き始める。

ニナがリカルドを食らわない理由。

それはただ、機が熟すのを待っていただけであった。

いきなり飛び掛かって食らいつくのもニナの美徳に反していたし、良好な関係を築いて心を開かせた方が、なお芳醇になって非常に美味になる事を長年の経験から熟知していた。

そしてもしこの身体に刻まれた呪法の解除方法が見つからなかった場合、リカルドの魔香を利用して自身の魔力を活性化させ、内側から強引に呪法の鎖を引きちぎろうという魂胆もあった。

それらの理由により、言葉が通じないながらも人当たりの良い仮面を付けて、リカルドを邪な目で見ている事がバレないようにサングラスを常に掛け、ギルドでもエスポアでも信頼される様な人脈を築き上げて……等々、とにかくリカルドに好かれるような立ち振る舞いをこの三年間ひたすら地道に続けてきたのだ。

その結果、遂にやっと、リカルドが心どころか自ら体すらも開こうとしてくれた。

ニナにとってそれは最高級の饗膳と同じであり、相思相愛となれるこの上ないご褒美でもあった。

……だが、タイミングが悪かった。

もし今リカルドに食らいついてしまえば、ニナはたった一晩で事を終わらせられる自信がなかったのだ。

ニナにとっては短いながらも、つまみ食いもせずに熟すまで三年も我慢し続けたのだ。

今、あの色気すら漂う男の上に跨ってしまえば、恐らく一晩どころか一週間、いや一か月……下手をすればそれ以上もの期間彼をあの部屋に監禁して束縛して、嫌だと言われても己の楔を打ち付けて、髪一本まで余す事なく愛して、堪能して、骨の髄まで溺れて、溺れさせて、果ててもまた絶頂へと誘って……恐らく一秒足りとも手離す事など出来なくなるだろう。

食い殺してしまうのは非常に勿体ない。

何より、今迄の人間とリカルドとでは、抱いている感情が全く異なるのだ。

だから組み拉いて快楽漬けにして、互いを激しく求め合って、意識を飛ばしながら腰砕けになるまで抱き潰してしまう予感しかしない。

だが、まずリカルド自身を開発していくのに時間がかかるし、魔蟲の大進軍が目前に迫っているというのにそんな色欲に浸りきっている暇なんて勿論ないのが現実だ。

せめて、封印を解いて自分の魔力が使えれば全ての事柄をすぐにでも終わらせて、彼をこの腕の中に閉じ込めてしまうのに……それが出来ない歯がゆさに、ニナはショックを受けて打ちひしがれるしかなかった。


『恨むぞ……恨むぞマライア……!創造神の使い如きがこの俺に、こんな汚い呪いを擦り付けやがって……!はあ、リカ……。ごめんな……。虫共を殲滅したら、今度こそ絶対に抱いてやるから……。愛してるよ、リカ……』


理性を取り戻す為にグローブを外して、自分の手の甲を食いちぎらん勢いで強く噛み、痺れる程の激痛と血の味を口内に充満させる事でやっとリカルドの匂いの記憶を中和させたニナは、暫くその場でぐったりと壁にもたれかかって熱が取れるのを待った。

恐らく朝になればリカルドも冷静さを取り戻していつもの雰囲気を取り繕うだろうから、魔香も少しは緩和されるだろう。

本当に惜しい事をしたと思うがもう後の祭りだ。

仕方がないので、また次のチャンスを狙うとしよう。

そう気を取り直して、ニナは呼吸を整え立ち上がれるまでに回復すると、後悔と苛立ちを紛らわす為に再びギルド本部に戻る事にした。

彼の頭の中にはリカルドから離れるという考えが一切入っていない。

今後彼の一生分を使わせて自分の傍に置き続けるつもりでいる為、またすぐにでも機会がある筈だと信じて疑っていなかった。

片時も放すつもりなんて無い。

だって自分はこんなにも、リカを愛しているのだから。








その後の夜は各々がそれぞれの時間を送った。

ニナは本部のフロントに戻ると他の組員に混ざって大進軍対策に奔走し、結局一睡もしなかった。

クゥフィアは薬が良く効いているのか朝方まで一度も起きる事はなく、ゼトがその傍で何度かうたた寝をしながらもずっとクゥフィアを見守っていた。

リカルドも疲労と酔いのおかげでなのか、心地良いベッドの中で、珍しく日が昇る時間まで熟睡していった。



ロドルフォは親しくなった魔蟲とともに、街の外で野宿を続行していた。

昨日のうちにヴァランとリカルド、そしてギルド組員数人を連れて魔蟲の下まで戻って話を聞いたのだが、詳しい事情聴取をしているうちに、自分を信じて密告してくれた魔蟲を疑う者が出てきたからだ。

それに逆上して「コイツを信じねえなら俺を信じろ!俺はコイツを信じてるからな!」等と怒鳴る様に宣言し、この魔蟲を守る為に護衛として暫くそばに居る事にした。

そんな優しくも勇敢なロドルフォに、個体名のない魔蟲はとても感銘を受け、同じ様にロドルフォにもし危険が迫ればこの身を賭してでも彼を守ろうと静かに誓っていた。



王都バルデュユースにいるソフィアは、寝室で毎日の日課である神への祈りを行った。

キキュルーが無事であります様に。

リカルド達が無事に王都まで辿り着けます様に。

カミュロンが心身健やかで居られます様に。

世界が、明日も平和を謳歌できます様に…。

居るかもわからない神に祈るのは彼女にとって当たり前の行為ではあるのだが、何故か式を直前に言いようのない不安が徐々に膨らんでいって、一人でいるのが怖いとすら感じていた。

かといって、忙しいカミュロンに頻繁に頼る訳にもいかない。

せめてこの不安が杞憂であります様にと、普段とは違う祈りを神に捧げて、彼女は布団に入る事にした。



カミュロンは、やっと肩の凝る鎧を脱ぎ下ろす事ができていた。

昼過ぎに突然通信ラクリマの調子が悪くなり、一切の意思伝達を足か馬で行う事を余儀なくされた為に仕事が滞ってしまい、今漸く自宅の屋敷に戻る事ができたのだ。

式までもう時間がないけど、ソフィアや他の皆は大丈夫なのだろうか。

エスポア専用のラクリマも不調で誰とも連絡が取れない状況に、ソフィアと同じで何故か不安が付き纏っていて離れてくれない。

そんな気を紛らわす様に一日の汚れを洗い落とす為、彼は使用人に促されて、疲れきった身体を強引に動かしながら浴室へ向かう事にした。



キキュルーは一度就寝していたが、ふと目が覚めて簡易ベッドから身を起こした。

寝心地の良くないベッドで眠るのはもう何度目かにはなるが未だに慣れず、よく体が痛くなって夜中に起きてしまう。

そしていつも目につくのは、キキュルーから離れた所で胡座をかき、壁にもたれかかって気持ち程度にシーツを被って寝ているヒュードラードの姿だ。

普段ならあまり気にせずもう一度寝入ろうと努力するのだが、今日は何故か人肌が恋しく感じ、自分の使っていた布団を抱えて彼の傍へと近寄ると布団をかけて、右腕に寄り添う様に座って自分も同じ布団を被ってみる。

ヒュードラードに気づかれれば押しのけられるだろうかと少し心配したが、特に身じろぐ様子もないのでそのままこっそり目を瞑ってみた。

実はそれを薄目で確認していたヒュードラードだが、悪い気はしないので咎める事はせずに、同じ様に身を寄せ合って再び睡眠を摂る事にしたのだった。





そしてそんな彼等とは違う場所に居る、王都への到達任務を一任されたギスターツチームは、ギルドから出発して早々にアクシデントに見舞われていた。

王都方面のルートを馬で駆けて数時間、そこで魔蟲の群れと鉢合わせてしまったのだ。

普段の訓練通りに緊急用の陣形を取って即その場から離脱したものの、とんでもない規模の大群で、まるで王都を取り囲むかの様に蠢いているものだから其処を突っ切るしか方法がない。

それに、時間も時間だ。

迂回ルートを模索して余計な時間を食ってしまった為に、松明を持ったまま深夜帯でも動き続ける事を余儀なくされ、昼行性である魔蟲の寝静まった隙間を恐る恐る通る羽目になり、それを抜けたと思えば今度は逆に夜行性の魔蟲に見つかってしまって執拗に追いかけ回されていた。


「勘弁してくれよ!本気でまた戦争をおっぱじめる気かい!」


思わず叫びながら走っていれば、一人、二人と魔蟲に捕まって無惨に殺害されていく様を見せられてしまい、一纏めになっているのは危険と判断して、瞬時に残りの八人で二人一組のペアとなり四方に散開する。

正直なところ、この群れに遭遇するまではいくらマスター達の話だとしても半信半疑であったギスターツだったが、直接その目で見て被害まで被ってしまえば危機感も最高潮に達した。

早く、この大群が王都に着く前に先に辿り着いて、王国騎士団に危険を知らせなければ。

そして転送ラクリマを起動させて、マスター達を王都に呼び寄せなければ…!

そうやって気ばかり焦っても現状は良くならず、他のメンバーは既に全く別の方向へ走り去って姿が見えなくなっており、一緒に馬を走らせているのはギスターツと実の弟であるバグダーツだけとなる。


「姉貴!オレが囮になる!姉貴はまっすぐバルデュユースに向かえ!」

「馬鹿言ってんじゃないよ!そんな事したって犬死するだけさ!まだ当分は二人ペアで行くよ!」

「そうそう、力がないなら無い力を合わせて少しぐらい頑張った方が良いよねー?うんそれが良いね。それが良いよ」


突然馬で全力疾走している二人の耳に、第三者のそんな声が届いた。

驚いて周りを見回すと魔蟲の羽音が二人の後方から一気に頭上を飛び抜け、木々の上を旋回してまたギスターツ達の前へ戻ってきたと思うと器用にその場で宙に浮く。

急いで馬を止めて松明の明かりを前方へ向ければ、4メートル程のサイズがある飛行型の魔蟲の上で、のんびり座っている風変わりな男が照らし出された。

魔蟲と行動を共にする人間など、ギルドに所属してかなりの年数が経つ姉弟でも完全に初見だ。


「誰だ!?」

「やー別に名乗るほどの者でもないんだけどねー。お二人に聞きたい事があるから、それに応えてくれたら名乗っても良いよ?」


飄々とした軽い口調の男にギスターツ達は警戒してそれぞれの武器に手をかけるが、それでも気にせず男は自分の好きなように喋り続けた。


「お二人ってさー?[神の子]が何処にいるか知ってる?」

「かみのこ…?何だいそれは」

「聞いてるのはこっちなんだよねー。でも聞いてくるって事は知らないかー。残念だね。うん、残念だよ」


そう言われた時にすぐ背後まで無数の物音と魔蟲の鳴き声が迫ってきている事に気付いて、慌てて振り返る。

もう数十メートルしかない左右後方には、理性を無くしている魔蟲達がギスターツ達に襲いかかろうと距離をじりじりと詰め寄せてきていた。

八方塞がりの状況にバグダーツは顔面蒼白し、ギスターツは瞬時に打開策を模索して、一か八かとまた魔蟲に乗る男へと勢い良く振り向く。


「神の子は知らないし、あたい達は今すぐ王都に行かなきゃならないんだ!もしかしてアンタが魔蟲を操ってるってゆう黒幕かい!?」

「なあにそれ?オレっちはただ自分の足で動くのがメンドーだったからコイツを借りてるだけだしー。でも黒幕って響きはカッコイイね。カッコイイよ」

「だったら行かせてくれよ!黒幕の正体まで教えろとは言わないからさ!もしあたい達を先に行かせてくれたら、その神の子ってのを探すのを手伝ってやる!」

「あ、姉貴!?」


とんでもない交渉にバグダーツはぎょっと驚く。

それとは対照的に特に驚いた様子もなく「んー」と悩む男は、「別にどっちでも良いんだけどー」と間の伸びた前置きをしてから続けた。


「じゃあさー、もうちょっと質問するから答えてくれる?オレっちの満足いく答えがあったらキミの案を採用するよ」

「わ、わかった!」

「じゃあ行くよー?これを見て」


男はポケットから何やら黒い板の様な物を取り出すと、親指でその表面を押した。

すると、ギスターツの前の空中に突然三枚のスクリーンが展開され、それぞれの画面に人の顔が映し出された。

姉弟は驚愕で言葉を失う。

写真技術すら最近確立されたばかりのこの世界では、この様な魔法は今まで見た事も聞いた事もない。

思わずそのスクリーンを順番に凝視していくと、三枚目にギスターツのよく知る人物と瓜二つな顔が映されているのに気付いて更に衝撃を受けた。


「この三人を探してるんだー。厳密に言うと探してるのは子供二人の方で、最後の一人はまあ、重要参考人みたいな?で、どれか知ってる顔ある?」

「あ……」


教えてはいけない、とギスターツは頭の中で葛藤した。

だってその最後の一人というのは、何処からどう見ても彼女達の仲間である、ニナだったのだから。

サングラスをかけておらず、首から目下まで伸びている刺青すらもないのだが、こんな眉目秀麗の格好つけ男は彼以外に考えられない。

ギスターツはニナが嫌いだ。

馬を何よりも愛している彼女は、馬に嫌われる奴はろくでもない奴だと決めつけている節があり、馬からとことん怖がられ嫌われているニナを好きになれる要素など皆無であった。

それでも同じギルドの序列一位を独走する、頼れる仲間である事も変わらない。

だからその仲間を売る羽目になると直感で気付いて、先程その場の勢い任せであんな交渉を持ちかけた事を酷く後悔した。


「ねえ?どうなの?知ってるの?知らないの?」


硬直してしまったギスターツに痺れを切らしてきた男がそう急かすと、歯を食いしばって固く目を閉じ、汗を流しながら震える手で……。

ギスターツは、ニナのスクリーンを指差してしまった。

それを見て、男は口角を上げる。


「ソイツ、今何処に居るか知ってるー?」

「……あ、あたい達の来た街にいる。でも!あたい達が王都に到着出来れば!コイツも王都に飛んで来るよ!」

「んー?どうやって?」

「転送ラクリマがあるんだ!片方はあたいが持ってて、もう片方はコイツがいるギルドに置いてきてる!あたい達が王都に到着した時にその転送ラクリマを発動させて、ギルドの連中と一緒にコイツも王都へ来る計画なんだ!」

「んー。良ーい事聞いちゃったね。聞いちゃったよ。ごーかあく!」


喜色満面になった男がパンッ!と手を大きく叩くと、ギスターツとバグダーツの周りに不思議な力が展開される。

それに思わず身構えたが、特に二人に影響を与えるものではなかった様で、むしろその力が二人と二頭の馬に纏われた瞬間に魔蟲達が何やら混乱したように辺りをキョロキョロと見回し始め、敵を見失ったかの様に全員が向きを変えてその場から立ち去って行った。

何が起こっているのかわからず唖然としている彼女達に、男が笑う。


「"隠蔽(クリプシス)"。これでキミ達は姿どころか物音も匂いも絶対に感知されないよー。まるで存在が消えちゃったみたいだね!」

「ど、どうなってんだ…?」

「あ、ちなみに、オレっちにももうキミ達の声すら聞こえなくなってるからー。オレっちの話をよおく聞いておくんだよ?」


そう言って状況についていけてない二人が見えないのを良い事に、男は勝手につらつらと喋り続けた。


「キミ達にかけたオレっちの"隠蔽"は、その王都ってとこに着いたら解除されるように設定したよー。だからキミ達はこのまま魔蟲軍団のど真ん中を突っ走ってももう追いかけられないから、安心して王都に行って?」

「うそ……?」

「ただーし!さっきの約束守ってよ?神の子探し!次にそのキミ達の知ってる映像の男に会ったら、オレっちの代わりに神の子の居場所聞いといて?やー!これでオレっちは楽できるわー!嬉しいね!嬉しいよ!」


そう言って男は愉快に笑いながら、魔蟲に乗ったまま何処かへ飛び去ろうとした。

……だが途中で何かを思い出したのか、もう一度旋回して戻ってくると、ギスターツ達が居るであろう場所に向かって説明をつけ加えてきた。


「そーそー!言い忘れるとこだった。キミ達もお互い見えてないし聞こえなくなってるから、そこは勘弁ねー。一応触ることはできるよ。あと馬はモノ扱いにしてるから、たぶん自分の乗ってるヤツは見えてると思うー。それじゃあまたね!また会おう!」


そして今度こそ、男は飛んで行ってしまった。

結局名乗る事すらも忘れて…。


弟のバグダーツは、あまりに想像の範疇を超えきった展開に理解が追いついていなかった。

暫く呆然としていたがそのうちにハッ!と我に返ると、確かにギスターツの姿が全く見えなくなっている事に気付いて、大声で姉の名を呼ぶ。

松明の明かりだろう光は見えているので、まだ近くにいる筈だ。

すると、目の前の地面に落ちていた木の枝が何の前触れもなく静かに宙に浮き、驚いてそれを眺めていると、先端で土を掘り始めて文字を書きだした。

利口なギスターツが咄嗟に状況を判断して、すぐに筆談を思いついたのだろう。

バグダーツは馬から一旦降りて、その地面に書かれた文字を覗き込む。


『王都で落ち合おう』


読み取ると、同じように落ちていた枝を拾ってすぐ下に書き加えた。


『了解』


そして二人は再び馬に飛び乗って、各々でバルデュユースを目指す事になった。

他の散開した仲間の存命は、非常に辛くて悔しいが、期待しない方が良い。

今はこのピンチと隣り合わせのチャンスを逃す訳にはいかないと気丈に振舞って、ギスターツ達はとにかく先へ進むしかなかった。


ギスターツは松明を持ったまま馬を走らせつつ、己の唇を出血する程に強く噛み締めていた。

仲間を売ってしまった。

ニナの情報を敵であろう者に渡してしまった。

ニナが何者で過去に何があったのか等は、ギスターツには全く興味の唆らない話であったが、あんな気の狂っていそうな奴に狙われてしまう程厄介な案件を抱えているとは思いもしなかった。

本来ならば仲間を売るような行動はギルド内では御法度なのだが、先程の状況ではああしないと、男の満足いく答えを提示出来ずに二人共魔蟲に殺されていた事だろう。

本当にやむを得なかった。

そしてギスターツは、次にニナと出会った時に、彼から更に情報を引き出さなければならない。

本当にすまないと心の中で何度も謝りながら、しかしニナならこんな危機でもあの余裕のある笑みを携えて、「だいじょーぶ」とでも言って何とかしそうな気もする。

せめて無事に会えた時には、あの謎の男の情報も出来る限りニナに渡さなければ……。

そう気持ちを切り替えて、松明の火を落として本当に魔蟲の前を横切っても全く反応されない事に驚きつつも、ギスターツは何とか馬を休ませられそうな小川と大きな岩を見つけ、其処で息を潜めて一晩を凌ぐ事にした。



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