㐧4の獄 お前たちの云うロックってこのあたりじゃないか?
英国リヴァプール──プロレスラーの『スープレックス山田くん』こと山田恵一が風となった都市であり、『リヴァプールの流血王』カーカスと云う偉大なバンドを産んだ都市である。──が、それは後の世のことである。
'50年代末期、この地にて4人の若き男たちが結成したバンドが世界を席巻することとなる。
そのバンドの名は『ビートルズ』!
本邦に於いては、前回述べた面々よりもこちらのほうがよく知られておるものにあり、「ビートルズこそがロックの始祖」と信じて疑わぬ者も多数おるものと見受けられる。──エルヴィス=プレスリーの名を知っていてもなお、である。
しかしこれも仕方のないことと云える。わが国の民が、その大多数がはじめて触れたロックは、このビートルズであったが故のことである。
それほどの──ロックの歴史を歪めてしまうほどの──影響力をこのバンドは有していたのである。
英国リバプールで結成されたこの爽やか青年4人組の人気は本国のみにとどまらず、海を渡り各地へと波及していった。ドーバー海峡を越え、北海を越え──'60年代初頭にはついに大西洋を越えて北米大陸への逆上陸を果たしたのである。──後に太平洋をも越えたは、先ほど述べた通りである。
この英国産まれの新しいロックは、たちまち北米を席捲した。前回述べたようにこの当時アメリカのロックは暗黒時代にあり、エルヴィス兄貴が復員してくるまでの間隙を縫うかたちとなったも事実にはあるが。
だがその効果はすさまじかった。フォークソングやサーフミュージックと云う新しい音楽に流れた若衆らをふたたびロックへと引き戻すに至った。そればかりか当時フォークソングの頂点にあったボブ=ディランに、ロックの象徴たるエレキ・ギターを持たせるまでに至ったのである。──後にディランはフォークとロックを組み合わせたまったく新しい音楽であるフォーク・ロックを産み出すのであるがそれはまた後の話である。
なるほどすさまじい特効薬。いち度死にかけた、いやほぼ死んだロックを暗く冷たい墓の底から引きずり出しふたたびよみがえらせたのであるから。
だがそれはすさまじきまでの劇薬治療であった。
このビートルズの流れに乗って、ローリングストーンズなど英国産まれのロックバンドが次々とアメリカに参戦し人気を博してゆくのであるが、これを当時の人たちは喜び受け入れるとともに、『英国の侵略』と呼び恐れたのである。
何故恐れたか? それがこの劇薬治療の副作用である。──ビートルズ来襲までロックの血脈を守り続けた功労者たる連中を、駆逐してしまったのである。
ポール=アンカやファッツ=ドミノなど'50年代後期のロックを今現在にては『オールディーズロック』と呼ぶが、これには古き良きの意味とともに、『古くさい』との蔑視の意味も含まれる。
すなわちブリティッシュロックこそ新しくすばらしいもの、古き良きアメリカロックは古くてカビくさいものだと云う流れにあった。さながら完成とともに世界中の主力艦を時代遅れのいらない娘と化した戦艦ドレッドノートの再来にあるが、まさしくそれほどの衝撃を当時のアメリカに、否、世界に与えたのである。──かつてドレッドノートを建造したも英国であることを考えると、じつに奇妙な偶然にある。
彼ら英国勢が与えた影響は音楽のみにとどまらぬ。ファッションもまた然り。──'50年代ロックの映像など見ればわかると思われるが、彼らは髪をしっかりと切って整えており、前髪も切るか上に上げるかして額を見せるスタイルにあった。しかしこの英国勢はどうであろうか。髪は耳を隠すほどに伸ばされており、前髪は下ろされていた。小ぎれいに切り揃えていたビートルズも、わしゃわしゃな自然体のままでいたローリングストーンズも共に当時のアメ公らの眼には「まるで女みてぇな連中」と映ったのである。
故に『軟弱』と揶揄する者らもいたが、勢いの前には勝てぬ。やがてはそのスタイルを当然のものとして受け入れざるを得ず、或いは積極的に取り入れる者も出てくるに至ったのである。──いかに勇ましく口で云おうと女の子は英国スタイルに夢中なのである。勇敢なるアメリカ男児もこれには信念を曲げざるを得なかったという次第にあった。
しかしながら当然、これは古き良き伝統のアメリカスタイルとはまるで異なもの。かつての'50年代ロックの時と同じく世の大人連中はこのスタイルを「不良である」とみなし、やはり「ロックは不良の聴く音楽ざます!」と云うようになったのである。歴史はくり返すものじゃのう。
しかしながら、'50年代とは事情が違った。朝鮮半島での戦いはとりあえず終わっており、アメリカももはや戦時中ではなかったがため──時代が変わっていたのである。
故にさまざまな変革の時代であった。さまざまな社会運動が巻き起こり、アメリカ社会が変化してゆく時期にあったが──
その前に前提として、アメリカ社会を語っておく必要がある。
『自由の国』との看板を文字通りにとっておる人は多いと思われるが、しかしそれはあくまでも『切支丹ルールに基づいた上で』との見えざる注釈がつく。頭に有刺鉄線を巻いた長髪ヒゲの教えは絶対にして、その掟に従った社会なのである。
「中世欧州は暗黒時代であったァァ!」との論は度々聞かれるが、それは切支丹どもの教えが非常に禁欲的であったが故の弊害がもたらしたものであることは、皆も知ってのことと思われる。──アメリカはその中でも特に過激な宗派の者らが集まって建国したものであるがため、自由な印象とは異なり割合と厳しき鉄の掟の下にあった。
有刺鉄線ヒゲの教えは絶対にあり、それ故に女性はおしとやかにあるべきで、膝や腿を露出しスポーツに励むなど言語道断にて、また、有色人種は人に非ず、家畜と同じ劣った生物なのでどうしようが勝手であるとの信念にあった──聖書にもそう書いてある。
しかしながら二次大戦、特に太平洋戦線にて、その、劣った生物であるハズの有色人種たる日本軍との戦いにて大苦戦を強いられ──どころか初期はぐうの音も出んくらいこすこすにやられ──この信念に揺らぎが産まれていたのである。白人連中は己の絶対的優位性に不安を抱き、黒人連中は「俺ダッテヤレルンダ!」との自信を抱いた。──黒人公民権運動の火種のひとつである。
また白人連中は日本軍を恐れるとともに、興味、ないし一種の敬意を抱くこととなる。──東洋の神秘──『オリエンタル・ミステリー』! ニンジャ、ハラキリ、スシ、テンプラ、サムライ、ゲイシャ、カラテ・カンフー……こうした東洋文化への傾倒が戦後起こり、それはやがて派生し、インディアンら先住民への文化傾倒を産むのであった。──これらの連中がやがて様々な流れを経てヒッピー族へとつながってゆく。
同時に、女子衆の心も変わった。二次大戦は総力戦にあり、いづこの参戦国も多かれすくなかれ国家総動員態勢をやっており、軍需工場などで女子供もはたらくが奨励、ないし義務化されていたのであるが、アメリカもまた例外ではなかったのである。
それまでのアメリカ女子の模範となる暮らしとは、結婚して家庭に入り家を守って云々というものであり──さながら昭和女子であるが、まあどこの国も似たようなものであった──はたらくとかいうものとは無縁に近いものにあったが、しかしこの戦時体制が、これらの暮らしを変えてゆく一因となり──ウーマンリブ運動、ひいてはフェミニズム運動へと向かうのであった。
かくして戦争は大きな影響を与えたが、必ずしもよい結果ばかりをアメリカにもたらしてはおらぬ。──実際のところ勝利した太平洋戦線ですら、当初の目標であったユーラシア大陸への進出は果たせず東亞諸島への基地配備にとどまっており、つまりはアメリカにとって何らの実入りもないに等しいという有様にあった。
そこにきて今度はベトナム戦争への介入である。そしてご存知の通り、華々しい戦果は聞こえてこず降着した戦線にて時間と銭と兵力を損耗してゆくいっぽうにある。──国家としては重要な戦にはあったが、国民にとっては必ずしもそうではなかったがため、「また実入りのない戦をするか、ええかげんにせい」と、厭戦気分からの反戦運動が起きるようになったのである。
このような並行した複数の流れが同時多発的に爆発したが、'60年代という時代にあった。
これらの社会運動とロックとが──望むと望まざるとにかかわらず──結びついてゆくこととなる。だが必ずしも、いきなり直接直結したわけではなかった。
そもそもが「不良の音楽」と呼ばれていたロックが、こうした「正義にあふれた」運動とたやすく結びつくと考えるがおかしい。もともとは黒人音楽ブルーズであったが故に黒人公民権運動と結びつくはわかるが、他はどうであるか。──まこと、水と油の関係に近しいものであったと、云わざるを得ぬ。
だがそのような決して相容れぬ水と油とて、卵を介すれば混ざり合う。
その卵の役割を果たしたが、フォークソングであった。
フォークと云えば、貧乏くさい人がギター弾きながら貧乏たらしいことを唄っている印象があるが、必ずしもそれがすべてに非ず。──むしろ、昨今巷にてロックにつけられた印象にある『反権力で政治的な歌を唄っている』をやりだしたは、このフォーク連中にある。そうした政治的な色の濃いフォークの全盛期は、'60年代アメリカにあった。
さてここで、先ほど述べたボブ=ディランである。当時フォーク界の頂点にあった彼は、英国より乗り込んできたビートルズに脳髄をぶんなぐられたような衝苦を受けるに至った。──完全に、このリヴァプール出身の若き4人組にシビれてしまったのである。
かくしてディランはギターをエレキに替えた。フォークとロックの融合である。──もともと民俗音楽フォルクローレを語源とするフォーク故に、「ディランはアメリカの魂を棄てやがった」「英国にかぶれやがった」などとの批判も受けはしたが、しかしこれがロックと社会運動とを結びつける架橋となったのである。
もはやこうなると不良も優良もなかった。若き血潮は真っ赤に燃えて社会を動かす大きなうねりとなった。黒人が、白人が、男が、女が、ヒッピーが、学生が──皆それぞれがそれぞれのやりかたで、旧態依然とした社会に『反抗するかたちで』よりよく変えるために動いた。
古さは力でもある。そうした強大なる力をもった社会に中指を立て唾を吐き立ち向かうが、『ロックである』と云われるようになった。「ロックは反体制、反権力である」との印象は、この時ついたものにあった。──だが、完全にそれが定着し、それを前面に押し出した連中が表に出てくるには、今しばらくの時を待たねばならぬ──
ともかくも、大きな社会運動のひとつとなったロックは、ここにひとつの全盛期を迎えることとなる。その集大成が、'69年に開かれたウッドストック・フェスにあろう。
これは世界初の野外ロック・フェスティバルにある。──なにぶん世界ではじめてであるが故にさまざまな不手際もあったは事実にあるが、しかしそれでも40万人もの観客を集めつつ、さほどやばい混乱もなく無事開催しそして終わらせたことは、すばらしきものと云えよう。
その参加者たるや、錚々たるもの。ザ ・フーやサンタナ、ジャニス=ジョプリンと云った当時のロックを牽引する者らの他、リッチー=ヘブンスらフォーク勢も多数参戦。と、まさに当時人気を誇った者ら大集合と云うべきものにあった。
無論、先ほど述べたまったく新しい音楽、フォークロック勢も、ジェファーソンエアプレインらなどが参加していた。──だがこの時ジェファーソンエアプレインは、フォークロックよりさらに先へと進化していたのである。
『サイケデリック・ロック』である。当時合法、或いはすこし前に違法になったばかりのいけないおくすりを飲んだり喫ったりした際に起こる幻覚を、音楽で再現しようとしたものである。これには同じくウッドストックフェスに参加していたラヴィ=シャンカールが重要な位置に立つ。薬物トリップ世界の再現に、彼の弾くシタールの音がひと役買っていたのである。
このシタールが、ビートルズやストーンズをインド世界へと後に導くのであるが──それはもうすこし後の話である。この当時は新たなロックの進化へと関わった、橋渡しの存在にとどまっている。
これらサイケデリックロック勢もまたウッドストックフェスにいた。グレイトフルデッドなどその代表格であるが──その彼らをも超える存在がそこにいた。
ジミ=ヘンドリクスである。
彼の出番を最後に、この祭典は幕を下ろす。彼がギターをうならせて弾いた美しくも妖しいアメリカ国家は、集まった観客らの心をひとつにした。──まこと、愛と平和の祭典の終わりを飾るにふさわしい曲であったと云えよう。
このすこし前まで──否、フェス開催に向けて動き出している中も、このような祭典がここまでの成功を収めるなどとは必ずしも思われてはいなかった。そんなものは幻想だ、夢、まぼろしのようなものと。
ところがどっこい……夢じゃありません……っ!
現実です……! これが現実……!
まこと──夢が現実となった瞬間にあった。
かくのごとくして、愛と平和の祭典ウッドストックフェスは無事成功し、終了するに至った。'60年代を締めくくるにふさわしい奇蹟──そう、奇蹟であった。
他にも、これに匹敵するフェスが幾つも開かれてはいたのであったが、それらはここまでの成功を収めてはおらず、或いは未だ慣れておらぬが故の運営側の不手際から事故や事件やそれによる死者を出していたりもしたのである。
そのような中、大成功を収めたるウッドストックフェスは伝説となった。──そしてそれに続かんと、アメリカのみならず海を渡った英国でも、フェスが開かれたのである。
ワイト島フェスである。
正確にはウッドストックの前年である'68年も、同年である'69年も開催されてはいたのであるが、此度は3度目の'70年フェスについてしるす。
なぜならばウッドストックフェスの観客数40万人を、大幅に超えたからである。
その数、60万人! ウッドストックに次ぐ伝説のフェスと云うにふさわしき、輝かしき記録更新にある。
だがこのワイト島フェス、ウッドストックフェスと比べて知る人はすくない。
それは、何故か?
なるほど、ウッドストックが実態以上に美化され伝説と祭り上げられているというは、それは慥かである。
だが、それを抜きにしても何故ウッドストックが伝説として語られるか──そのあたりをすこしばかりしるす。
よく語られるに、「ウッドストックは無料で開催された祭典なんだ」と、あるが、これは真実ではあるが同時に嘘でもある。──ウッドストックフェスもしっかりと入場料をとってはいたが、しかし押し寄せる多数の観客らの前に運営がそれを捌ききれず、後から押し寄せた連中が「実質的に無料で入場した」と云うが、正しいことであった。
このワイト島フェスもそれと似たものであり、押し寄せた連中らが「実質的無料で入場した」は事実にあるが、ここらへんが、ウッドストックと異なる分岐点にあった。
まずウッドストックフェスは無料であったとの認識が観客連中らの中にあったがため、これがワイト島フェス運営への不満を買うに至った。観客らは口々に、「金に眼がくらんだか!」「ロックは反商業主義だろうが!」「資本主義の豚め!」「貴様は唾棄すべきブルジョワとなり下がった!」などとよくわからぬ独自の理屈を並べ立てて叫び──ついには出入口に設けられた柵を破壊し、会場へと一気になだれ込んだのである。
崩壊フェンス! 野獣と化した観客!
じつのところ先ほど述べた、他のフェスでの死者はこうした野獣観客と運営との揉め事との中で起きており、これが『奇蹟的に』そうしたことの起きなかったウッドストックフェスとの大きな差であった。
野獣観客らの狼藉はとどまらぬ。演者に向けて中身の入ったビール缶を投げつけ、ちょっとでも気に入らぬことがあればたちまち文句の大合唱を行い、ついにはステージに上がり込みマイクをうばってなにか叫び演者をなぐる──ハードコアパンクのライヴではないのである。──ともかくもイキスギィ! た、トンだ狼藉者どもが好き勝手放題にやり尽くしたのである。
ウッドストックフェスで現実となった『愛と平和の祭典』の夢は、わずか1年にしてここに終了したのである。まこと悪夢である。ところがどっこい……夢じゃありません……!現実……! これが現実……っ!
後に残された現実は、破壊の限りを尽くされた柵の残骸と、大量の投げ棄てられたごみであった。
これはまこと'60年代の終わり、新たなる'70年代のはじまりを示すできごとにあった。
「ロックフェスが銭になる」と、財力ある者らを気づかせた結果、これよりロックは肥大してゆくこととなる。新たなるロックの時代、到来である。
だがそれはもはや'60年代ロックとは別物と考えねばならぬ。
事実、'60年代ロックを支えた連中はそこよりロックの進化と道を分かつ。──ヒッピー連中は新たなる音楽を求め、黒人公民権運動もまたR&Bなど己らのルーツにより近い音楽へと向かう。フェミニズム運動など、新たなるロックを眼の仇にするようになり、反戦運動もまたベトナム戦争終結とともに新たなロックと共に進むをやめた──
これら'60年代ロックを支えた集団が半世紀をすぎた今現在、目的を見失いさまざまな問題を世界中で起こしまくっているのは、果たして偶然か否か。