前世ヒロインは、乙女ゲームを否定する。
何も望むなと、何もかもを奪えと。
そんな強迫観念にも似た思いに急かされて、生きていた。
自分の意思ではなく、ただ誰かの″想い″のままに、突き動かされてきた。
彼女のそのベイビーブルーの髪を、風が揺らした。
学園にある一番高い時計塔の屋根の上で、彼女は静かにそのラベンダーグレイの目を閉じた。
誰が幸せだっただろう。
こんな意味もなく、何も無い、関係性を。
本人の思いではなく、ただ知らぬ誰かの思いのままに動かされてきた自分たちは、都合の良い人形。
彼は幸せだっただろうか。
また違う彼は幸せだろうか。
そして、また違う彼は——
自分のせいで狂わされた生の中で生きていた彼らを思い出す。
自分に出会わなければ政治的な陰謀の中枢に組み込まれることも、立場を追われることも、殺されることだってなかった。
ごめんなさい。
下の方で自分の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がして、彼女は目を開けて振り返った。
「フィリア!」
逆光の中、風に遊ばれる黒髪と、バイオレットの瞳が見えた。
息は弾み、いつもは完璧に整えられているはずの衣服は見る影もない。
—どうして。
声に出したつもりはなかったのだが、どうやら知らず知らずのうちに漏れてしまっていたらしい。
「やめろ!そんなことをして何になる?!」
「何にもなりません」
フィリアとしての、″演技″を捨てて、静かに彼女は返答する。
「ならば、何故…!」
「…疲れてしまいました」
「何にだ?!お前の邪魔になる者は全て排除する!だから、だから…!」
俺には君しかもういないんだ、と悲しい言葉を彼は叫ぶ。
そうですね、それも、私のつみ。
今まで過ごしてきた中でも見たことのない必死な形相。
その薄い唇から発せられる言葉は、傲慢な台詞ばかり。
フィリアはほんの少しだけ、瞳に哀しさを滲ませた。
彼の心も、行動も、全て制御してきた、罪だ。
自分の思考は行動に伴わなってはいなかった。
ただ機械のように、定められた通りに動き、動かし、騙り続け、ここまで来てその脅迫観念によって支配されていた思考は解放を求めていた。
一歩、後ろへ下がる。
「ねえ、—————様、」
「何だ?!」
「あなたは、幸せでしたか?」
端正な顔が、浮かぶ感情通りに歪んだ。
「幸せだった! 俺は、君がいなければ幸せには——」
風が強い。
一際強い風に煽られて、フィリアの体がぐらりと揺れた。
「フィリア!」
愕然とした表情を浮かべ、決して届かない手を、彼は伸ばした。
ああ、ごめんなさい。
どうか、来世では、”私”の思うままに動かされるのではなく、自分の意志で——どうか、その道を進んでいけますように。
彼女は、その場にはとても似つかわしくはない笑みを浮かべて、落ちていく。
ざまあみろ。見知らぬ誰か。
次があれば、その時は、決められた道を壊してあげる。
そして——もう誰も、自分のような者が生まれてこないようにと祈って、ヒロインは目を閉じた。
***
「な、に…?」
彼女は、唐突に目を覚ました。
酷く長い夢を見ていたようだった。
まだどくどくと心臓は大きく音を立てている。
夢?良いや、違う。
あれは、前世だ。
自分の中に、見知らぬ誰かが入り込んでいた、とても奇妙で、とても不気味な生の記憶だ。
状況を、確認しなければ。
前世は後回しだ。とりあえず、今の自分を理解しなければ、動きようがない。
上半身だけを起き上がらせると、ローテーブルに置いてあった羊皮紙と万年筆を手に取った。
そして、整理するために震える手を押さえながら彼女は自分のことを書き綴る。
今世の自分の名は、ヴェロニカ・ヒューステイン。
ヒューステイン侯爵の令嬢で、下に弟がいる。
その弟が、将来家督を継ぐため、ヴェロニカは嫁に行くのだ。
うん大丈夫。頷いて、前世の状況を交え、理解に努めた。
もしかして、前世と関係ないのではないかと一瞬頭をよぎったが、婚約者の名前と、今の自分の名前に覚えがある。
間違いはないだろう。
攻略対象者の一人、魔法師団長の息子、レイモンド・アルクニーアの婚約者であり、ヒロインが彼と王子を選んだ時のみ、悪役令嬢として君臨する。
そして前世は、前々世でプレイしていた乙女ゲームのヒロイン、フィリア・イリエールだった。
確かそのゲームが発売されていた当初は、ヒロインに声がついて話題になったのをよく覚えている。
その可愛らしい容姿と声で、その当時、発売されていたゲームのヒロインのランキングで瞬く間に一位に輝いていた。
……なんとなく、思い出した情報に偏りがあるような気がしてならない
ヴェロニカはローテーブルに羊皮紙と万年筆を放り出して両手で顔を覆った。
フィリア・イリエールを中心として回る世界。
誰も、それがおかしいとは思わなかった。
前世では、何も知らなかった。
——階段から、落ちるまでは。
前世の自分、フィリアはまた、フィリアの前の生を謳歌していた記憶を階段を下っている最中に思い出し、動揺して階段から落ちた。
誰も悪くなかった。強いて言うなら、フィリアしか悪くはなかったのだ。
なのに、ただ後ろにいたからという理由で、その時は彼女が——その当時のヴェロニカ・ヒューステインが犯人にされかけてしまった。
それまでの自分ならば、特に何も思わなかっただろう。
だが、その時は、咄嗟に自分で足を滑らせたのだと彼女を庇った。
おかしかった。
誰も何も悪くはないのに周りにいた人はみんな、フィリアを庇い、誰かを必ず悪者にした。
そして、前世の自分はかつての日本人だった自分を思い出して、やっと気がついたのだ。
この世界は、自分が昔やっていた乙女ゲームに酷似している、と。
フィリアの周りにいた者たちの容姿と、登場キャラクターたちの名前を思い出して、やっと今置かれている環境に合点がいった。
そうか、だから、と。
なにがあってもフィリアが優遇されるのはヒロインだったから。
ただ、それだけ。
そして、フィリアは、フィリアのせいで狂わせた者たちを救おうとして、失敗した。
いわゆる、悪役令嬢と呼ばれる人たちは国外追放、或いは処刑。
フィリアによって狂わされた結ばれない攻略対象者たちは、どこか、感情が抜け落ちた顔で笑っていた。
どこまでも空虚に。君が幸せならいい、と。
そんな悲しい未来など、ヴェロニカは見たくない、聞きたくない。
自分だけが幸せになるなんて、あの歪んだ世界では無理だったろう。
攻略対象者たちの名前を順番に思い出して、気がついた。
前世で、最後に話した、あの人の、名前は。
「——————」
発音したはずの名前が、喉を通らない。
今、考えたはずの人の名前を、脳が認識しない。
「なんて、名前、だっけ…」
ぽつんと寂しげに呟いた言葉は空気に溶けていく。
わからない。
思い浮かんだ途端に、その名前は霧に紛れて消えていく。
でも、いつでもまっすぐに、どこか歪んだ瞳を、覚えている。
今日が、今日こそが、全てが始まる日だ。
こうしてはいられない。
自分は、今、ヴェロニカ・ヒューステインなのだ。
ゲーム通り進めばヴェロニカは早めの段階で、追放される。
貴族でなくなれば、力など無いに等しい。
追わなければ、ゲームに関わる者たちの生を、歪ませないために。
ヴェロニカはベッドから飛び降りた。
「おはよう、ヴェロニカ。良い朝だね」
「おはようございます、レイモンド様」
寮の前でにこりと笑い合ってヴェロニカはレイモンドに並んで歩き出す。
数分歩いて、学舎の前に辿り着き、何気なく校門の方を見やって、ヴェロニカは目を細めた。
(やっぱり、神様なんていないのかしら)
ベイビーブルーの明るい髪に、ラベンダーグレイの瞳を持った少女が、そこにはいた。
前世の自分と同じ姿で、同じ表情で、彼女はそこに立っていた。
そう、今こそがゲームのオープニング。
学園生活を夢見て、瞳を輝かせる姿の愛らしいこと。
けれど、彼女はすぐに困惑したように辺りを見回した。
(確かここで、レイモンドが声をかけるはず…)
彼女は、自分と同じなのだろうか。
ヴェロニカがじっとフィリアを見つめているとレイモンドから名前を呼ばれて振り返る。
「どうかなさいましたか、レイモンド様」
「……いや」
彼は首を横に振り、ヴェロニカに手を差し出した。
「行こうか、ヴェロニカ」
「…はい」
その手を大人しく握って、ヒロインから視線を外す。
よろしいのですか、と声に出しそうになって慌てて自分の口を塞いだ。
何もなければ、いい、それで。
***
フィリアは、前世の自分がそうであったようにと同じようなことを繰り返していた。
まるで、機械のように、寸分違わず、同じことを。
(行動がここまで同じことをするなんてあり得る?パターン化しているのかしら……ん?パターン?)
全生徒に解放されているカフェテリアで束の間のティータイムを楽しみつつ、フィリアの行動を注視する。
首の傾げ方、ボディタッチのタイミング、笑い方、話す言葉は覚えのありすぎるものだ。
愛らしい笑顔にほだされていくであろう攻略対象者たち。
「……やっぱり」
かつての自分と、同じなのか。
「? ヴェロニカ、何か今言ったか」
「いいえ、なんでもありませんわ、レイモンド様」
誤魔化すように笑って、これからの算段をヴェロニカは考え始める。
手遅れになる前に。
そう考えると、やはり今のタイミングがベストだろうか。
ヴェロニカは、制服のポケットの中の紙の感触を確かめるように触った。
ヴェロニカは、その日の放課後、いろいろな状況の定番である学舎裏にフィリアを呼び出した。
知るために。
「あなたは、誰」
そして、ヒロインは嘲笑うかのように鼻で笑った。
「この世界のヒロインよ、私が、私こそが、このゲームの中のヒロイン。あいつを蹴落としてやっとなったの」
狂ったように笑い、なんてこともないように彼女は言う。
ヴェロニカは、眉を顰めた。
やはり、普通ではなさそうだ。
彼女もきっと、見知らぬ誰かの被害者。
「あいつ、って、誰?」
「前にこの中にいた女よ。やっと結ばれたのに、最後気が狂って塔から飛び降りた女」
間違いない、自分のことだ。
ヴェロニカは一瞬足元に視線を移した。
そして、また目の前の彼女に問おうとして、出来なかった。
彼女が、ヴェロニカの襟元を掴んだのだ。
息苦しさで顔を歪めると、目の前の彼女は反対に、笑った。
「ねえ、どうしてあなた、自我があるの?」
背筋が震える。
瞳孔の開き切った瞳は、どこか濁って見えた。
息を呑む。
「この世界はねえ、ゲームなのよ?私の選択肢通りに動いて、望み通りに動いてくれる、ノンプレイヤーキャラクターしかいない世界」
その立ち位置は、かつて彼女も経験した。
だからこそ、わかる。
「だから、あんたには私をいじめてもらわなくちゃ」
悪気なさそうに笑う、この人が怖い。
ヴェロニカは、負けるなと自分を奮い立たせて彼女を睨んだ。
「ねえ、あなたは、本当に、この、今を望んで、生きているの?」
「当たり前じゃない! あたしは、私は、彼と結ばれるの」
「誰」
「え……?」
力が緩んだ隙にヴェロニカは襟元から手を払い退けて、距離をとった。
「誰、貴方が好きなのは」
「だ、れ……?」
「あの人、メインヒーローの、騎士団の、」
騎士団。
ヴェロニカは目を眇めた。
あの乙女ゲームに騎士団に関連する攻略対象者など、いただろうか。
やはり、自分も記憶が抜けている。
「あ、れ…?」
「わたしが、好きなの、は誰、だっけ」
まるで迷子の子供のようだ。
彼女はひとつ、涙をこぼした。
ヴェロニカはそれを見て、彼女の体を抱きしめた。
「この世界に神の意志などいらないわ。
いるのは、人間の意思だけで十分」
「私、私、は」
「さあ、返して。その子の体を。本当に彼女が好きな人を思い出させてあげて。
見知らぬ誰かさん?」
返して。この世界には、現実だ。
プレイヤーに奪われるわけにはいかに無い、大切な、現実だ。
いらない。プレイヤーなんか、必要ない。
ゲームではない、この世界は。
ヴェロニカは、経験したからこそ、否定する。
この現実に似ている状況の乙女ゲームを。
「ヴェロニカ?」
しまった、人が、と彼女を抱きしめながら顔だけを振り向かせたヴェロニカは、目を見開く。
「ヴェロニカ! 何を……?」
不思議そうに首を傾げたその表情に見覚えがあった。
顔は違う。なのに、誰かにダブって見えた。
「あなた、はもしかして、前世の、」
言うつもりなど、なかった。
けれど、勝手に口が動いた。
名前が、彼の名前が、出てこない。
唇が、震える。
そして、彼はほのかに笑う。
「貴女なら、そうすると思っていた」
一歩、一歩。
瞳の奥に垣間見えた、言葉にならない情の形に、見覚えがある。
「そう、貴方がそうなのね。
おかしいと思ったわ。メインヒーローであるはずの騎士団の息子がいないから」
ヴェロニカの腕の中にいる彼女は、静かに近づいてくる彼を見据える。
フィリアは、正気だ。
やはり、ヴェロニカの記憶が抜けているのだろう。
え、と知らず知らずのうちに声が出た。
「……え、あの、まさか」
「そのまさかだ」
そう言って彼は、フィリアに視線を移す。
「やあ、邪魔だからどこかにいってくれるかい?」
ひどい言い草だ。間抜けに口を開けたヴェロニカに彼は笑いかける。
誰、ほんとうに。
いいや、きっとわかっている。
認めたくない、だけで。
「……邪魔したらひどい目に合いそう」
「よくわかってるな」
フィリアはヴェロニカの腕をやんわりと退ける。
「あたしを取り戻してくれて、ありがとう。
後で、いろいろすり合わせをしましょうね」
快活に笑った彼女は、もはや別人だ。
「え、あの、置いていかないで」
「無理無理。多分、貴女を追ってここに入り込んでるんだもの」
手を振って去っていく彼女の楽しそうなこと。
愕然として背を見送るといつの間にか彼はすぐ隣でヴェロニカに笑いかけていた。
怖い、いつのまに。
「君だけを愛するって決めた俺を置いていくなんて、なんてひどい人なのだろうか、君は」
「え、あの、それは、ご、ごめんなさ」
「閉じ込めてやろうかな」
ヴェロニカは身を引いた。
この状況で、ゲームの世界がヤンデレを謳ったものであると思い出してしまった。
確かに彼を今度こそ。ちゃんと幸せにしようとか思ったけれど。
だけれども、そうではない。
「いやですヤンデレはお呼びじゃないですー!」
ヴェロニカの、至難の道はまだまだ続くらしい。
(前半と後半の温度差)
とりあえずここで彼女たちのお話はおしまいです。
続きを書いてみたい気はありますが何もかも白紙なのでわかりません!
お付き合いいただきありがとうございました。