ネバーフィクシングストーリー
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ああ、こーちゃん。まだ本探しをしていたのかい? うちももう読まなくなって久しい本が多いからね。置く場所が確保できるなら、どんどん持って行っちゃってよ。
――なに? カバーのついている大胆な落丁本を見つけた?
どれどれ……と、これを見つけるって、だいぶ棚の奥まで引っ張り出してきたんだね。ちょっと拝借していいかい。
ん、やっぱり中身はあの日から変わらずか。ありがと。こーちゃんの目にも、この本は真っ白なページが、ただただ続いているように見えるんだろ? これ、かつては絵と物語が載っていたんだ、といったら信じるかい?
ふふ、こーちゃんだったらこの手の話、目の色が変わると思ったんだ。こいつはね、元々は不思議な曰くのある本だったんだ。この話、信じるかどうか、ひとまず耳に入れておかないかい?
大きいだろう、この本。写真集などに使われるA4判のサイズ。私が初めてこの本と出会った時、こいつは子供に読み聞かせる絵本だったんだ。私が小さい頃、母親に読んでもらったものだよ。
この本自体、私の母親の母親が手に入れたものらしくてね、この皮でできたブックカバーも、その時からつけられているのさ。だから本の正式なタイトルは今でも分からない。
――試しにカバーを取ってみる?
いいけど、たぶんできないと思うよ。私も自分で触った時にさんざん試したんだからね……ほーら、できなかった。もはや接着剤でくっつけたレベルを通り越して、石か何かを相手どっているかのようでしょ。
母は私に色々な物語を教えてくれた。結婚前、アナウンサーとしてラジオの朗読をしていたこともあって、臨場感はたっぷり。時に愉快なファンタジー、時に物悲しい別れを描いた恋愛もの、時に得体の知れない不思議な体験まで、たくさんお話をしてくれた。このたった一冊の本を開いて、ページをめくりながらね。
実際に、本を取り出すところを見ていなかったこともあり、私はてっきり同じカバーをかけた本が、いくつも家にあるのだと思っていた。けれど、留守番を頼まれた日に家中を探し回っても、同じ装丁の本を見つけることはできなかったんだ。
「まあ、母も経験からして、覚えている話くらいたくさんあるだろう。本を読むふりして、そらんじることなど、造作もないはず」と考える私。そっとかの本を手に取ってみる。
この時、すでに私は小学校に上がっており、近々、ある幼稚園との交流会に参加するメンバーとなっていた。その時に、読み聞かせできる本があれば、家から持ってきて欲しいという話があがっていてね。私をいつも楽しませてくれたこの本なら、お眼鏡にかなうと思ったんだ。
この本、実際にはどのような話だったのかしら。期待を込めて開き、読み進める私が出会ったのは、小さい女の子が主人公。両親に育てられて、何不自由なく暮らしていた彼女が、ふとしたきっかけで知る自分の出生。それは冒険へのいざないで、彼女は言葉をしゃべる蝶と一緒に、様々な世界をめぐる。
行く先々で出会う人、巻き込まれる事件、そして別れ。様々なことを経験した彼女は、いつまでも不思議な世界に留まる資格があったのに、最後の最後で両親の温かみを思い出し、元の家へ戻って普通の女の子として、幸せに過ごしていく……という流れ。
ところどころで、私がこれまで聞いた話と、よく似たエピソードが入っていて安心したよ。きっと母親は私に、この長い物語に短い区切りと脚色を交えて、私に語っていたのだろうとね。
ちょっと時間はかかりそうだが、そこは私の腕と判断次第でどうにでもなるだろう。ぜひ、読み聞かせの候補として学校へ持っていき、吟味しようと思って、帰宅してきた母親に相談をしてみたんだ。
だが、母親はすぐにはうなずいてくれなかった。少なくとも私は、並の童話を上回る面白さを感じたし、随所に見られるかみ砕いた表現に、子供への配慮を感じた。きっと気に入ってもらえるという自信があったんだ。
でもその言葉に、母親は意外な言葉を返してくる。それはあんたがその本に、そうあって欲しいと願ったからだ、とね。
「信じられないかもしれないが、この本は読む人によって。それどころか同じ人でも心の持ちようによって、内容が変わるんだ。そして手にした者が、この時に望んでいた通りの物語を見せる。いささかも、ひとつの話として固定されることはない。
留まらない物語。さしずめ『ネバーフィクシングストーリー』といったところか」
「でも、それだったらなおのこと、子供たちを喜ばせるのにうってつけじゃん。ほんのちょっとだから、お願い!」
私は頭を下げに下げて、どうにか持ち出しの許可をもらったけれど、ある決まりごとを守るように厳命された。
それはこの本に関する記録を残さないこと。傷をつけたり書き込んだりすることはもちろん、写真撮影することも許さない。
この本は留まらない物語。記録を取られればそれが枷となり、自由に動くことができなくなってしまうだろう。母親の母親から、そう聞かされたらしいんだ。
許可をもらった私は、学校で幼稚園へ向かうメンバーと共に、持ち寄った本を回し読みする。冊数がそれなりにあったから、数日をかけて精査を行い、最終的な評価を下す流れとなった。
みんなが持ち寄ったもののほとんどは、外れの少ない有名どころがほとんど。定番だけに、読み聞かせる幼稚園児たちもすでに知っている可能性がある。中には穴馬的な秀作もあったけど、やはりあの本にはかなわない。
私は母親から聞いた、あの本を汚したり、傷つけたりしないという約束の部分だけ軽く伝えて渡していた。前半部分について半信半疑だったから、それを見極める意味もあったわね。
そして約束の期日になったけど、ネバーフィクシングストーリーだけは最後に貸した子が家に忘れてきたと話し、その日に帰ってこなかったの。結果的に、満場一致でネバーフィクシングストーリーが読み聞かせる本に決まったわ。
そして感想が、人によって異なる。ある子はファンタジー絡みの地球一周物語だといい、ある子は違う星からやってきた宇宙人と心を通わせる話。そのいずれの要素もなく、現実に近しい世界で人情味が成す、心温まる交流の話など、お互いに「何を読んだんだ?」って状態。母親の言っていたことが正しいことが分かったけど、この時点で私は、ちょっと嫌な予感がしていたわ。
翌日。帰ってきた本を受け取る私。最後に手にした子は、作家希望の女の子。色々な小説を読んだり、文章を写したりして勉強している子だった。そう、文章を写して。
相対した時、彼女の震える手とうつむき気味の顔から、私は何が起こったか察した。本を開くと、そこには真っ白なページが広がるばかり。いくらめくっても最初から最後まで、文字のひとつも出てこない。
「ごめんなさい! あたし、この本の話、ものすごく気に入っちゃったんだ。いじめられていた子が、必死に頑張って周囲を見返していくサクセスストーリー。読んだらきっと、誰でも元気になれる。そう思ったの。
それだけじゃない。柔らかい絵のタッチもさることながら、子供のことを考えた表現と言葉選びのうまさに感動しちゃって、ついつい文を書き写しちゃったの。それで一度、本を閉じたら……」
この状態になっていたというのだろう。彼女は申し訳なさそうにもじもじしながら、次の言葉を継げずにいたわ。あのみんなが集合した場で、文字通り、無残な姿となった本を、出す勇気がなかったんでしょう。
そこに昨日の色々な感想が飛び出したことで、あの本がただの本じゃないことを彼女も察したのだろうね。
その子は大学を出た後、童話作家を志したらしいけど、まだ結果が伴っていない。とある賞の最終選考まで残った作も、あのネバーフィクシングストーリーを元にしたものらしいんだ。
返してもらってから数十年経った今も、この本は未だに白紙のまま。もはやこの本に、あの千変万化な話が書いてあったことなど、こーちゃんみたいな人以外は信じてくれないだろうね。
でも、私はこの本を捨てないよ。あの子に書き取られたことを枷に思い、逃げ出してしまった本の中身たち。それはこれから世に出る多くの話、作り手の頭の中で旅を続けているのだと信じているからね。
いつか彼らが帰ってきた時、家がなかったら嫌じゃない?