60. ロシル
先に顔を上げたのは尖塔の下に座っていた、青みがかった黒髪の女だった。
私たちは気配を読まれていた。
「……うえっ……えっ……こんな……こんなところに、魔族が……こんなところに……」
女は喉を枯らしていたようで、呻きながら震え声を絞り出した。
その声には悲壮感と驚きが入り混じっている。
「大丈夫か」
リーズ様が駆け寄ると、女はゆっくりと立ち上がった。
カルロフよりもさらに高位の、しかし汚れて黒ずんだ総主教の長衣に、ボロ布のようになったストール、そして大蛇を象ったサークレット。
長衣は裾が擦り切れ、足が丸見えになっていた。
よく見ると、女の足は片方が青銅、片方が兎馬のものだった。
エンプーサだ。
自在に姿を変え、男に悪夢を見せて食い殺す、上位魔族。
リーズ様が持っていたペットボトルのお茶(人間の精気を添加)を与えると、エンプーサは一気に飲み干した。
「かはっ……はぁ……なんてこと。ここに魔族が来るなんて」
「貴方は……」
「私は……グラープ総主教……いいえ、元グラープ総主教、ロシル」
ロシルは蹌踉めきながら言った。
「どうしてダンジョンに」
「それを訊くのね。でも、今は話したくないわ。私はただの墓守。死んでいった同胞の墓を見守るだけの存在なの」
ロシルはそう言うとまたしゃがみ込んだ。
彼女から何か情報を引き出さねば。
「ロシルさん。このダンジョンについて教えてくれませんか」
「ここは、殉教者になり損なった者たちの墓よ。勇者にグラープの街を明け渡した時に、処刑を免れた者たちの……」
勇者がグラープに攻め込んだ時、グラープの市民は人間に反抗し続けた。
そして、指導者だった主たる魔族は捕らえられた。
しかし、その中に総主教や市参事会の代表者たちはいなかった。
彼らは都市が包囲されていたにも関わらず、忽然と姿を消したのだ。
「貴方は……まさか人間との戦争があった時代の方ですか……」
「そうよ……確かに戦争があった。魔族がここに来たということは、きっと魔王は勝ったのね。でも、私たちが外に出ることはできない……絶対に」
ロシルはそう言うと項垂れて黙ってしまった。
このダンジョンはきっと、権力者を護るためにグラープ城に秘匿されてきたのだ。
そして、彼女と同胞は勇者から隠れた。
ダンジョンに籠もって時間が過ぎるのを待っているうちに、しかし時期を逃した。
だが、ダンジョンに繋がる部屋が封印されていた理由はまだ分からない。
もしかすると、彼女がダンジョンまで逃れてきたことと関係があるのかも知れない。
今は彼女がダンジョンに残った理由を訊くことはできそうになかった。
彼女は罪悪感に打ちひしがれている。
「ロシルさん、この辺りでノームを見ませんでしたか」
「見ていないわ……貴方たち以外には、誰も」
「そうですか……」
エメットに繋がる情報は無かった。
「そうだ! あの、よければ鑑定……できませんか」
「何か持ってきたのね……。いいわ。その程度のことなら」
ロシルは剣のような武器と金槌のような武器を順に手に取り、ゆっくりと息を吐いた。
ロシルの手の中で武器の輪郭が次第にはっきりとしていき、正体が明らかになる。
「これは……フルーレよ。魔法が掛けられている。この剣はただ突き出しても意味がない。剣は装備した者の心を読む。そして、心に応じる」
ロシルはリーズ様にフルーレを手渡した。
「こっちは……杵ね」
「杵」
「この打杵は両手で振り下ろして穀物を脱穀するの」
「脱穀」
「木槌だと思えば使えるでしょ……」
ちょっと期待して損した気分だった。
打杵って。
「ロシル。君も一緒に来ないか。私たちは仲間を探し出して、どうにかして外に出たい」
「……」
ロシルは目を伏せたまま、首を横に振った。
「……誰も出口を知らない。でも、目星はついているわ……」
「本当ですか」
「巨岩に渡るの。海から出た岩にね……。そこが怪しいわ……」
まさか、近海に出ろと?
そのために船を探しているような時間があるのだろうか。
やはり魔法の力がいる。
どうにかしてロシルに協力してもらわなければ、事態は解決しそうになかった。




