50. 銀狼
「誰か入り込んだか?」
「まさか。こんな山の中に誰か来るなんて」
「それじゃ、迷い込んだ獣か?」
私たちは慎重に廊下を階段の下まで進んだ。
「僕が先に行こう」
アルヴィはトレンチコートの内ポケットから聖職者のものとは異なる黒い呪鈴を取り出した。
持ち主の魔力を媒介し、物理現象や神秘的現象をもたらす触媒。
アルヴィは魔法使いだ。
しかし、屋内で不用意に魔法をぶっ放されても困る。
また館にクリーニング・サービスを呼ぶことになると厄介だ。
彼の力を借りないことを祈ろう。
アルヴィが先に階段の踊り場まで降りていく。
物音はどうやら事務所代わりにしている客間から聞こえてくるようだった。
アルヴィが私に下りてくるように手振りで示す。
私も足音を立てないように階段を下った。
「ただの獣が相手なら僕の魔法ですぐに対処できる」
アルヴィが小声で囁きながら杖を握り締める。
「だが、魔物が相手なら……手こずるかも」
魔物という単語に私の心臓の鼓動が高まる。
魔物は通常の獣とは異なり、魔力を持って生まれる獣だ。
その形態は様々で、複数の獣が合成された姿や見慣れた道具に擬態するものもいる。
家畜化に成功した種類もあるが、魔物の大半は魔族にも人間にも懐かない。
大きな魔力を持つものは魔力を制御しきれず、故に気性も荒かった。
「この辺りに魔物が潜んでいるようなことはなかったんですが」
「作戦を決めよう。君が相手の気を引く。その隙を見て僕が攻撃する。OK?」
分担としては正しいが、釈然としない。
ついさっき落とそうとした、出会ったばかりの女の子を囮に使うって。
しかし、文句も言っていられない。
これしか良い案は無さそうだ。
「それじゃ、行くよ」
「はい」
私たちは扉が開いたままの客間に突入した。
相手の気を引くために、私は即座に挑発行為に出た。
「あひいいいいい! おんぎゃあああああ! うふふっふふ、ふっふふ、ゴホッゴホッ!」
久々に大声を出したので、頭がおかしくなったのか本気なのか自分でも判別できない。
今どきゲーム配信サイト"Towitch"やYouTuneの実況配信者でもこんな奇声はあげないぞ。いや、あげるか。
だが、これだけイカれた声を張り上げれば、私に注意を向けることはできるだろう。
私の奇声は文字通り音速で相手に届いたようだった。
客間の片隅に陣取っていた巨体が振り向く。
窓から差す陽光に照らされて輝く銀色の毛に覆われたそれは――
銀狼。
紛うことなき魔物だった。
「【DALTO】!」
銀狼が私に注意を向けている間に、アルヴィの呪鈴から氷のスパイクが放たれた。
銀狼は回避行動を取ったが、不意を突かれて片方の前脚に氷柱を浴びた。
致命傷ではなかった。
銀狼は敵意の迸る目で私たちを睨みつける。
「くそっ! もう一度だ!」
「二度は通用しないと思いますよ!」
低い唸り声を上げながら、銀狼は私たちに対峙する。
アルヴィが狙われる前に、銀狼を止めなければ。
銀狼が客間の片隅から、私たちのほうへと疾走する。
見かけよりも素早い。
私はアルヴィの前に立ちはだかった。
しかし、銀狼は大きく口を開いて吠え、直後、窓ガラスを破って外へと跳躍した。
「……何だったんだ?」
「私たちを見て逃げ出したんですかね」
「あいつのほうが明らかに強そうだったけどね。でも、襲われなくて良かったよ」
「そうですね。客間は荒らされちゃいましたけど……」
線が切られた電話は買い替えないとダメそうだった。
書類もあちこちに散らばっている。
「あれ……?」
私は銀狼が居座っていた客間の片隅に、違和感を感じた。
その壁だけ、他の場所に比べて少し盛り上がっているような気がする。
「魔物が出るなんて意外だったなぁ。心配だし、観光案内所に戻ろうか。窓の修理も呼ばないといけないだろうし」
「そうですね」
気のせいか。
私たちは再び車に乗って山を下った。




