19. 中古
館のバルコニーで、私はリーズ様と一緒にワイングラスを傾けていた。
満月が煌々と辺りを照らす。
地球の月は一つしかない。
だから、人間は太陽と同じように月も神聖視しているのだろう。
だが、その月光は魔族にとっても特別なものだった。
月明かりの下では通常とは異なる活動に及ぶ魔族も多い。
吸血鬼の場合、昼よりも夜のほうが活動は活発になる。
それはつまり、気が大きくなるということでもあった。
「リーズ様、見ず知らずの私をこんなにお世話してくださって、本当に感謝しています」
私はリーズ様に寄り添うように肩を近づけた。
しかし、リーズ様は何気ない仕草で私を遠ざける。
「そんな大したことはしていないと思うが」
「いいえ。私一人では、この寄る辺なき厳しい現代を生きることはできなかったでしょう」
「そうか。役に立てて良かった」
きっと、リーズ様はまだ酔い足りないのだ。
今の私は自分の行動を抑制するだけの自制心を失っていた。
「リーズ様、グラスが空いています。どうぞ」
「悪いな」
リーズ様の唇がグラスに触れる。
その直前でリーズ様はグラスを下ろした。
「ルビー。君はエルヴェツィア大陸の、魔族の古い歴史を知っている。君だけが頼りなんだ」
「リーズ様のためなら、私にできることはなんでもいたします」
今、地球を生きている魔族は人間との戦争を経験していない。
それどころか、エルヴェツィア共和国が王国で、魔王が健在だった頃の知識すら覚束ないのだ。
彼らにとって魔王は絶大な魔力を誇り、人間を支配下に収めた英雄ではなかった。
人間を大量虐殺し、人間との友好の枷になり、処刑された悪魔でしかない。
魔王という拠り所を失った魔族は、哀れなほど衰退した。
彼らの大半は魔法もろくに使いこなせず、魔力も持て余している。
上位魔族は密かに復権を狙っているらしいが、その計画も噂でしかない。
この自虐的歴史観を単なる知識でしか知らないほうが、もしかすると幸せなのかも知れない。
「私たちのわがままに付き合ってくれて、ありがとう、ルビー」
「わがままなんて、そんなことありません。これも私の使命です」
しかし、リーズ様の顔は浮かないままだった。
その視線は遥か遠くの星々に向けられている。
「リーズ様、何か心配事でも……」
「分かるのか」
「思い悩んでいらっしゃるように見えました」
リーズ様が私に振り向いた。
「実は」
「実は……?」
「資金が足りなくて愛車を手放した。しかし、5000万レウにしかならなかった」
リーズ様の目から涙がこぼれた。
「1億レウで買ったのに……3万kmしか乗ってないのに……ローンも……」
「それは……残念ですね。心中お察しします」
1億レウというと、ヨーロッパまでのビジネスクラスの往復直行便と同じくらいの値段だ。
庶民がおいそれと手の出せる金額ではない。
かくして私たちミュスター観光騎士団はリーズ様の愛車を犠牲にして開業するに至ったのである。




