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頭の中に無理矢理、光が入ってくる。眉間を内側から押し、下腹から熱を吊り上げる。瞼の裏が、ちかちか光り、色を帯びて七色の輪になる。
アカムは体を抜け出し、天を目指して上昇をはじめた。円い虹をくぐって、まだ昇ってゆく。アカムを追って何本もの光の柱が伸びる。
ゆく先に白い人型があらわれる。光を背負い、輪郭は黒く、ああ、あれは――。アカムは、その人型を見て安堵した。
足首をなにかが掴み、アカムの上昇を止めた。地面へ引かれていく。耳元で風が鳴り、雲が飛び、雲海が去る。髪の長い黒い女が大地に広がっている。
闇をつれて森が迫ると、夥しい数の蟲が吹き上がってアカムの皮膚を裂いた。全身の皮膚に親指大の突起ができて、芋虫が這い出してくる。蟲たちは風にむしり取られ、血線を引いて頭上へ飛び去り、蝶に姿を変えた。
擦過音、枝の折れる音。森を抜ける。螺旋状の色彩が沸き上がり、涎が泡と散り、叫びとも悲鳴ともつかない声をあげる。
アカムは天地し反転し、四界混乱のまま加速した。鈴の音が鳴りひびく。眉間から桜白色の花びらが吹きだす。色とりどりの匂い、明滅する叫び。うるさい痛みが鼓膜を叩く。花びらが、舞う、舞う。
上転した瞳孔に垢だらけの顔が映る。高くほっそりした鼻梁と薄い唇。悪魔が闇を裂いて作ったような、渦を巻く長髪からのぞく切れ長の眼。散瞳して虹彩のないその暗闇に、アカムは引きずり込まれた。すべての咎を引き連れて、魂の尾を長く引きながら――。
白い赤ん坊。
細い悲鳴。
横隔膜の痙攣。
涙が顎をくすぐる。
赤ん坊と2人きりの世界。
意識が闇に喰われる。
誰かが、アカムの肩を支えて、
アカムではない名を呼ぶ。
撫でてみる。
固くひび割れた白い頭。
見つめる。
朱色に縁取られた無垢な眼。
指を這わせる。
残酷に裂けた口。
乳首を当てる。
吸い付かない、吸い付けない。
動かない指で、母の指を握ろうとする。
震えない喉で、母に伝えようとする。
これを抱いて、願わずにいられるだろうか。
これを抱いて、狂わずにいられるだろうか。
小さな毛むくじゃらの腹から、光の玉。
幼い眼が風防ガラス越しに見たものと同じ。
目を凝らせば陰陽のかげ。
やがて伸びてくる闇の触手。
弱さをくすぐり、強さを笑う。
苛立ちを命と誤解し、吝嗇を本能と取りちがえる。
雷が立ちふさがり、花弁がいざなう。
懐かしい弟は空を見上げ、霊魂は昇っていく。
4度目の春を迎えて、穴を掘る。
4堀りで足りる窪みに黒くなった我が子を横たえる。
種を植えて墓標を立てれば、
梢はさやぐか、鳥は鳴くか。
変化は先に訪れていたから、ただ行為しただけ。
墓標は、あなたが寝るはずだった寝台の柱。
母は、いつまでもそばに居る。
野菜籠を背負って、女は歩く。
その周りで、季節が巡る。
万佛頂から遠望すれば、岷江はただ東南に流れる。
花が咲いて散り、実が成って落ちる。
柳が屋根を破り、蔦が小屋を飲む。
村の子らは手足が伸びて、この子は土の中で眠ったまま。
心を止めて時を待っても、魂は穢れたまま。
女が、ぐるりと振りむく。
アカムは狼狽して後ずる。
世界が割れて、溶けて、
七色にかがやいて、渦を巻き、
白色の雑音に還元して、
ふたたび、作り、築かれる。
女がアカムを見て、アカムに女がいた。
「わたし……気持ち悪い……怖いの……」
「我慢してくれ、どうにもならないだろ」
「ドバイからよ……わたしは行きたくなかった……」
「赤鉄の血じゃないぞ」
縦に細長い引き戸の隙間。
今は大人の時間だから、部屋に入ってはいけない。
「施設にあずけたい……」
「駄目だ、みっともない」
「お願い! 帰ってきて!」
母の腕が曲がっている。
「救急車は呼んだわよ……腕が折れてるのよ……こっちに来ないでぇぇ!」
受話器が顔に当たる。
ふたつに割れた液晶TVが大きな音を立てて崩れる。
母は、しゃがんで泣いた。
胸が苦しい。
涙は出ない。
「アカム、お前はなにもするな。なにもできないんだ。お父さんのいうことを聞いていれば、間違いないんだからな」
毎朝、起きて、会社に行って、帰る。
この世は地獄だ。
世間の言葉を信じてはいけない。
お前の胆力は、お前の手柄じゃない。
なにが苦しいか、どの程度が辛いか。
お前がそれを決めるな。
縋りつき易いものに、縋りついてはいけない――。
鈴の音が鳴る。
花びらが舞う。
艶やかな長髪が風を掴み、赤と金の衣装が翻る。
美しき黒瞳がひらき、蚕のような唇が紡ぐ。
命の糸が織りなす世界の運命。
アカムとうりの歌を。
ずっと歌っていたのか、そこで。
そうよ――。
すこし上をむいて、
驚いたような顔で、
綺麗な前歯を見せて、
ロビーの椅子に座って、
扉の前で、
俺の隣で、
笑う。
そうよ――。
答えてくれ。
教えてくれ。
救う方法を。
俺に、できることを。
鈴の音が鳴る。
花びらが舞う。
森羅万象の内に。
命から命へ渡る。
幽玄の過去より現世に伝わる。
方術の祖。
魔術の祖。
広成子が残した。
煉神の極。
動物の体。
植物の体。
山河草木。
風雲空雨。
命から命へ。
魂から魂へ。
霊から霊へ。
命を犠牲にして。
命から命へ――。
命から命へ。
魂から魂へ――。
魂から魂へ。
霊から霊へ――。
霊から霊へ。
命を犠牲にして――。
命を犠牲にして。
思いは?
思いなど残りはしない――。
風音が鳴る。
急激な上昇感。
光が魂を引く。
闇が霊を引く。
女が俺を見ている。
まるで花と木のように。
まるで風と雲のように。
まるで太陽と月のように。
女が俺を見ている。
お前は誰だ?
衝撃。
鈴の音が悲鳴に変わる。
花弁が朱く染まる。
ぎらつく鉄がつき出し、
凶刃が引き裂く。
女の中の赤ん坊が、
少女が、
慎ましき乙女が、
無残に汚される。
響き渡る真赤な絶叫。
アカムと女は目をあけた。




