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アカムは雲海を抜けて、深海を目指す潜航艇のように、北西へと続くつづら折りの登山道に沿って飛び下っていた。登山道が山裾に至って左へ曲がったので、そのまま森の上を直進する。どこまでも広がる暗い森の奥に、なにが隠されているのだろうか。
やがて前方に黒々とした河が見えてきた。北東へ伸び、南東からのもう1本と交わる。その分岐点の山肌に橙色の灯がいくつも張りついている。
(――人がいる)
アカムは灯のほうへむかった。無辺の闇の中に小さな村がある。橙色の灯はランプだ。100人に満たないであろう小集落は、生活空間としてはあまりにも暗い。山肌に黒い瓦屋根がならび、道は石で舗装されている。集落全体が茶色い土壁で囲われ、楽山市で見たのとそっくりな瓦屋根の門がある。その門を、灰色の服を着た村人がくぐっていく。鍬や籠を担いだ背中を痩せた犬が追う。道の勾配は村を奥へ進むほど急になり、最後は階段になって山頂の小さな寺に続いている。
アカムは寺まで飛んで大屋根の突端に降りた。目を閉じて集中する。その気配は背中側にあった。振りむいた先に光が漂っている。光の柱の残滓だろう。アカムは、その光を目指して暗い森へ飛び立った。
森の底に、その小さな広場はあった。上空を燐光が舞い、草地が白く輝いている。光の粒は、広場の隅にある朽ちて崩れた小屋から立ち昇っている。草地に足がついた瞬間、桜色の花びらが脳内に散った。
(もはや、森の一部だな)
小屋の屋根を内側から柳の大木が突き破っている。ほとんどの瓦が崩れ落ちて、屋根には草が生え、壁に蔦が這い回る。枠組みが歪んで菱形になった戸口に扉はなく、下生えが小屋のなかに入り込んでいる。もう何十年も前に放棄されたように見える小屋の中からは、しかし、橙色の光が漏れている。
(ここだな……)
アカムは目指す場所であることを確信して、慎重に小屋に近づいた。戸口の前に小さな盛り土がある。朽ちた木札が差してあるのを見ると、おそらく墓だろう。紫の小さな花が咲いている。
戸口から中をのぞき込むと、足もとを黒い影が駆け抜けて小屋の暗がりへ消えた。その影に刺激されたのか、小さなものが幾つも現われては消える。
橙色の光はランプであった。ランプは右奥から手前の屋根へと、うねる柳の枝に下がっている。垂れ下がる柳の葉がカーテンのように部屋を仕切り、壁に火影が揺れる。
(……誰もいない)
燐光が舞う中、アカムは奥へ進んだ。木床が割れたり抜けたりして、低木があらん限りの勢いで生え盛っているので、湿地の木道を渡るようにジグザグに歩くしかない。小屋の右の壁には2口の竈があって、上の梁からはタマネギ、ニンニク、長ネギが下がっている。切り株のように見えるのは、おそらく机で、椅子がひとつ置いてある。
アカムは部屋のなかばで立ち止まって集中した。隅々まで、指で探るように感覚を広げる。四方で小さな生き物が動いている。床も壁も天井も、森の生き物でいっぱいだ。草木もまた、動物とはちがった速度で動いている。部屋全体から、静かで澄んだ力が沸き上がり、昇っていく。
(ここのはずだが)
柳をはさんで、奥に赤い漆塗りの寝台がある。低い柵と足がついており、汚れているが立派なものだと分かる。その向こうは、もう壁だ。
(――!)
部屋の中に突然、気配があらわれた。アカムは跳びすさり、机を倒して下生えに左足を突っ込んだ。落とし穴にはまった格好でバランスを崩す。
その人物は寝台で座禅を組んでいた。腰まで垂れた艶のない黒髪が頭巾のように顔を隠し、真っ直ぐな鼻梁だけが見える。服はたぶん、あの中国人と同じで、赤っぽい色も見えるが、ひどく汚れていて真っ黒だ。肌が見えるのは、鼻と顎のほかには膝の上に仰向けに置かれた手のみ。人差し指と親指が、ゆるい輪を作っている。
(名古屋のときと同じだ)
あの黒装束の連中も、いきなり、そこにいた。きっと、なにかの技なのだ。
「……お前で、いいんだよな?」
(――陽神を見せよ)
声が頭の中に直接やってきた。鈴の音が鳴り、全身が震える。
(やっぱり合ってるんだな?)
アカムは心の中で答えた。
座禅の人の首筋から闇が溢れだした。闇は立ち昇り、流れ落ちて、頭の後ろに黒い蓮の蕾があらわれた。
(俺は戦いに来たんじゃない)
(陽神を見せよ)
また、鈴が鳴った。
陽神という言葉は知らなかったが、なにを求められているかは分かった。下腹に集中する。後頭部に光る蓮が現われ、蕾がひらき、光る赤子=陽神が生まれた。
(まずは見よ)
長髪の後ろで黒い蓮がひらく。花弁の隙間から闇が流れ落ちる。あらわれた黒い赤子は苦しそうに眉根を寄せてむずかっていた。全身に黒い血管が浮いて、病に蝕まれているように見える。
(……あんた、大丈夫か?)
次の瞬間、顔前に女が立っていた。
「うわあっ!」
跳びすされ――ない!
女の陽神がアカムの陽神に触れた。




