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「ひまり!」
黒い流れに突っ込む。両肘で頭を守り、体ごとぶつかっていく。鼻に固いものが当たる。仰け反った胸を押されて体が起き、そこを後ろから殴られてつんのめる。
「陸くん!」
ひまりの声が聞こえる。華蔵寺と十方普賢像のあいだで、飛び跳ねて手を振っている。陸は階段を駆け下りて広場にでた。仏像の先端が直視できないほど強く光って、眩しくて目をあけていられない。人々は虎に襲われた鹿の群れのようにゴンドラ駅に殺到している。押し倒され、殴られて、多くの人が血を流している。
陸の視界が、いきなり反転した。赤い空が視野いっぱいに広がる。背中に衝撃。森のようにそそり立つ足。肩を踏まれ、骨が音を立てる。胸に熱いものが広がっていく。
(くっそ、アイゼンか)
座り込んだ正面に十方普賢像が見えた。眩しい光は引いて、像の先端に人影が見える。影は北西を見ていたが、大きな放物線を描いて雲海に飛び込んだ。
(行ったか? ――否、まだわからない。へたすれば山ごと吹き飛ぶかもしれない)
「陸くん、大丈夫?……って血だらけじゃない!」
ひまりが、すがりついてくる。いつの間にか周囲に人がいない。ひまりがウェットティッシュで鼻血を拭いてくれた。
「医務室、行こう」
ひまりは赤い目に涙を一杯に溜めて、言った。
「逃げるのが先だ」
「もう、いなくなったよ」
「いや、あいつが近くにいる限り安全じゃない。あの光を見たろ。名古屋のときとそっくりだ」
陸は、ひまりの肩を借りて歩きだした。
「ぐっ……うう……」
陸の左袖から血が垂れる。ひまりが気づいて息をのんだ。
「ほかにも怪我してるのね!」
「ごめん……でも、命がかかってる」
ひまりは、ぐん、と大きく1歩を踏みだした。
「行くよ! わけを話して、ゴンドラに先に乗せてもらう。中国人だって、わかってくれる!」
陸は、ひまりの剣幕がおかしくて吹き出してしまった。ひまりが、なにか文句あるの、とばかりに振りむく。
「生きて日本に帰ろう」と、陸は言った。
青から緑、橙を経て赤く輝く東方の空低く、星が出はじめていた。




